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クレーの日記  南原実訳 新潮社  


ベルン旧市街風景
ベルン旧市街風景

クレーの日記(その1)

 今回のスイス旅行に持っていった「クレーの日記」はまだ読み終わっていませんが、面白いと思った部分を少しだけご紹介します。

 クレーは1879年にスイスのベルン近郊で生まれ、その翌年ベルン市内に移りました。父親は音楽の教師であり、母親も音楽の才能に恵まれていたようです。このような芸術的環境で育ったクレーは、成長してからも画を描くばかりでなく、ベルン市立交響楽団でバイオリンやビオラを弾き、音楽会、美術館、観劇、旅行、読書など芸術にどっぷりでした。しかしクレーの画はなかなか世の中に認めてもらえず、自分の絵画はどうあるべきかとしきりに悩んでいました。

 26歳になっていたある日の日記に、彼は次のように記しています。
 「純粋な」造形美術は、教義が教えるように簡単にはいかない。画というものは、たとえいかに純粋な画そのものとして描かれていようとも、つきつめてみれば、もはや画ではないのだ。それは象徴なのだ。幻想の線が画面に投影され、高い次元に深くくいこめばくいこむほど、ますますすばらしい画となるのだ。このように考える私は、画壇が求めるような純粋な造形芸術家には夢にもなれないと思う。われわれ高等な被造物は、肉体もまた精巧につくられた神の子だ。それにもかかわらず、われわれの裡に潜む精神と魂は、完全とは縁もゆかりもない次元へと遊び歩く。

 ちょっと小難しい文章ですが、要するに彼は紙に描かれた画は、対象物そのものではないのだから象徴なのだというのです。これをもう少し突き詰めて考えると、彼は紙の上に線を引いて対象物の本質的なものを引き出し、表現した象徴を作り上げたいのだが、どうも巧くいかないというのです。これに関連して、彼は日記のあちこちに線の意味や音楽との相似性などについて考えを書き記しています。

 このような絵画に対する彼の考え方は、彼の画を理解する上に非常に参考になるし、現代の絵画を考える出発点の一つとしても適切であるように思えます。対象物の本質的なものを表現しようとする彼の作業に現代の脳生理学を適用して、彼の理論をさらに展開させることも可能でしょう。「クレーの日記」を全部読み終わってからもう一度この問題に立ち返って考えてみたいと思います。 (2001年7月)


 

クレーの日記 (その2)

 読み残していた「クレーの日記」を読み終えました。日記の終わりの部分には第一次大戦が始まり、クレーにもついにドイツ軍からの召集令状がきてしまったこと、幸か不幸か前線に送られることなく、工場から前線へ鉄道輸送する飛行機の随伴要員として働き、その後軍隊の会計係を担当しているというようなことが記されています。
 クレーは決して勇猛な兵士ではなく、休暇をとり外泊することを一生懸命に思案し、ご馳走を食べる機会を見つけ、机の中には画の材料を忍ばせていたようです。皮肉なことに軍隊に入ってから次第に彼の作品が世間から注目され、描きためてあった作品が売れて、お金がかなり入ってきました。第一次大戦後に書かれた日記は、この本にはありませんが、軍隊から解放されたクレーは、多少のトラブルはあったとしても画家として恵まれた生活を送ったものと思われます。

 今からおよそ100年前の1904年の8月、クレーは許婚者のリリーとインターラーケンから電車でラウターブルンネン、ベンゲンを通ってベンゲルンアルプまで行きました。そこからは歩いてクライネシャイデグに達し、グリンデルワルトへ下り、終列車に飛び乗りました。
 クレーも彼の許婚者もかなりの健脚家であったこと、その頃にはもう登山鉄道が開通していたことなど、日記から当時のいろいろな状況がわかりますが、スイスで山を歩いていても、電車に乗っていても、そんなクレーのことがときどき頭の中に浮び、彼を身近に感じ、スイスにも一層の親しみを持ちました。今回機中の暇つぶしにと思って持っていった「クレーの日記」は大いに役に立ったと思います。 (2001年9月)

クライネシャイデグからのユングフラウ
クライネシャイデグから見たユングフラウ