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脳の中の幽霊、ふたたび
V.S.ラマチャンドラン 山下篤子実訳 角川書店 


脳の幽霊、ふたたび(表紙)

副題1.見えてきた心のしくみ
副題2.美とは何か。神経科学による解明が始まる。

 著者ラマンチャンドラン博士は、インド人で、カリフォルニア大学サンディエゴ校脳認知センターの所長です。

 彼の著書「脳の中の幽霊」は、すでに1999年に、同じ訳者により翻訳、紹介されていますが、当時それを読み終えて、外界を認識する脳の巧妙な仕組みに本当に感心しました。そしてそれ以来、この研究が進んだら、世の中の美術に関する考え方もかなり変わるのではないかということ、またそのような状況に至るまでにはまだかなりの時間が必要であろうということをずっと感じておりました。

 しかしところがです。ラマンチャンドラン博士は、もうこの美術の問題に神経科学のメスを入れ始めたのです。この新しい著書「脳の中の幽霊、ふたたび」は、イギリスでの連続講演(リース講演)の原稿をまとめて出版したもので、その大部分で美術と脳の仕組みとの関係が論じられており、その中の興味ある部分をここでご紹介したいと思います。なおこの表題の副題1は、訳者か出版社がつけたのではないかと思いますが、副題2の方は、私が感激のあまり、勝手に考えたものであります。

 さて著者は、まず第1章で交通事故で頭に怪我をしたためにカプグラ症候群という状況に陥った患者の例を紹介しています。
 この患者の視覚中枢と情動中枢は全く正常ですが、この脳の二つの中枢を結ぶ神経が切れています。
 視覚中枢は、ものを視覚的に認識する複数の部分で構成されており、情動中枢は、辺縁系と呼ばれている部分であり、視覚中枢から送られてきた情報により、そのものが自分にとって大事なものなのか、そうでないのか、或いは美味しいものか、不味いのかというような情動的判断を下す場所です。
 この患者は、二つの中枢を結ぶ神経の断線により、例えば母親の顔を見て、その顔かたちの全てが母親と同じであるのに、それが自分の母親であるという情動的な認識ができず、完全な偽者であると判断してしまうのです。またこの患者は、聴覚中枢と情動中枢との間はつながっていますので、電話で母親の声を聞くと、すぐにそれが母親であると信じることができます。

 上記カプグラ症候群患者の説明の後で、著者は次のような結論を出しています。

 視覚イメージに対する情動的な反応が生存にとって重要なのはあきらかですが、脳の視覚中枢と情動中枢との間に存在する結合は、ほかにも興味深い問いを提起します。芸術とはなんだろうか。脳はどのようにして美に反応しているのだろうかという問いです。視覚と情動の間に結合があり、芸術は視覚イメージに対する美的な情動反応に関係しているのですから、その結合は芸術に関与しているはずです。この問題は、あとの第3章でテーマとしてとりあげます。

 さてその第3章には、「アートフルな脳」というタイトルがつけられており、冒頭で著者は、次のように述べています。
 古今東西、芸術にはものすごい数の様式があり、その多様性の大部分は文化の多様性に起因し、すでに多くの文科系の人たちにより研究されている。しかし多様性の残りの部分は、人類の脳に共通する普遍的な法則に基づいており、脳神経を含む科学者が参加して解釈されるようになる。
 この主張の後で著者は、南インドにある12世紀の女神パールヴァティのブロンズ像を例として挙げています。すなわちこの女神を見たヴィクトリア時代のイギリス人は、その頃の自国の美術基準により胸が大きすぎるとか腰の幅が広すぎるとか文句をつけたが、今ではこの像は、女性の官能性、優美さ等々、女性の美点をすべて備えていると世界的に評価されている。そしてこのような世界的評価は、人類共通の美術基準があるから可能なのであり、その基準は脳神経的に解釈できるというわけです。

 著者はここで試みとして、10項の芸術の普遍的法則を示し、そのいくつかについて実例をあげて脳神経的な解釈を加えています。

  ピークシフト
  グループ化
  コントラスト
  孤立(あるいは省略表現)
  知覚の問題解決
  対称性
  偶然の一致を嫌う・包括的観点
  反復、リズム、秩序性
  バランス
  メタファー(隠喩・象徴)

 各法則についての説明は、どれも面白いものですが、著者がもっとも重視しているのは、最後のメタファーであり、それについては章を改めて第4章を設けています。

 このメタファーに関係の深い脳神経的現象に共感覚というものがあります。例えばある数字を見ると色を感じる人がいます。白い紙に黒で5という数字が記されていると、その数字が赤く見え、そのアラビア数字をローマ数字のⅤに取り替えると赤く見えず、黒のままになります。すなわちこの人は5という形をみるとそれが赤く見えるのです。5が逆さまになっていても横になっていても、他の数字に囲まれて見にくくなっていてもです。

 この現象については、脳の中で、色彩情報を処理する場所と数字の視覚的外形を表象する部分が隣接しているために、神経系統の混線(クロス配線)が生じた結果であると著者は説明しています。さらに驚くべきことにこのようなクロス配線は、誰でも生まれたときには沢山あり、成人するにつれて少なくなる。しかしごく普通の成人でも、クロス配線部分はかなり残っているというのです。前述のような色彩のクロス配線はあまりに顕著な例であると思いますが。

 著者はいろいろな例を挙げてクロス配線の説明をしてから、人間の言語の発展の速さについては、進化論ではとても説明できないし、脳の中に残存する多くのクロス配線の効果を考えるべきであると述べています。
 そして更に彼は、優れた芸術家、詩人、小説家に共通しているのはメタファーをつくる技能、すなわち脳の中で無関係に思えるものどうしを結びつける高い能力であると強調しています。つまり優れた芸術家の脳の中では、クロス配線が脳の創造的活動に大きく寄与しているということです。これに関連して、著者は以下のように記しています。

 マくべスは、命を語るくだりで、「短いろうそく」という言葉を使いました。なぜろうそくなのでしょうか? 命が白くて短いものだからでしょうか。あきらかに違います。メタファーは文字どおりに受け取るべきものではありません。しかしある面では、命はろうそくに似ています。はかなくて、ふっと消えてしまうこともあり、明るく燃えているのはほんの短いあいだだけです。私たちの脳は適切な結び付けをしているのであり、言うまでもなくシェイクスピアはその名人でした。

(2006年1月)