GALLERY SUGAYA

シャガール展  


シャガール展入場券

 10月23日から二泊三日の日程で、家内と一匹の犬と一緒に長野県白馬村へ行ってきました。新雪に輝く白馬岳をスケッチする予定でしたが、二日とも平地の天気は良いのに山の上だけが雲に隠れたまま、ついに目的は達成できませんでした。白馬駅の近くにある蕨平というところでは、十人以上のグループがイーゼルを立てたり、スケッチブックを広げたりしていましたが、彼らも思うような作品はできなかったでしょう。

 そのようなわけで、やむを得ずジャンプ台で原田選手や船木選手が飛ぶのを眺め、露天風呂を楽しんで時間を潰し、さらにジャンプ台の近くにあるシャガールの美術館に寄ってみました。

 このラフォーレ白馬美術館は、白馬村の繁華街から少し入ったところ、後に林が広がる静かな環境にあります。入場券を買うと係の人が出てきて、まず映写室に案内してくれます。あとで判ったことですが、このスライドによるシャガールの生涯や作品の解説は、彼の作品を理解するのに不可欠でした。解説が必要であるくらいにシャガールの絵は判りにくいのです。

 シャガールの作品は、線がぼそぼそ、ちょろちょろとミミズがはいずり回った跡のようです。キリストの顔も、人間の顔も、羊の顔もどちらかといえば稚拙な表現です。構図も色遣いも感心するところはあまりありません。平面的な扱い方が近代的であるという人もあるでしょうが、子供が描く画はほとんど平面的であり、シャガールよりすぐれている表現も少なくありません。つまり絵画技術の常識的基準から判断すると、彼の作品は決して名画とはいえず、その価値も判断できません。

 しかしながらシャガールの作品をじっと見ていると、その稚拙な表現がほのぼのとした雰囲気を醸し出していることはよく判ります。若い人を中心として、癒しとか何とかいうものが尊重されている精神的な状況が今の日本にありますが、シャガールの作品の複製を洒落た額に入れて壁や机の上を飾ってみるのも悪くはないでしょう。しかしいくら雰囲気が良いからといって、あるいは世界的に有名であるからといって、それだけでシャガールの作品を理解した気持ちになってもらっては困るのです。

 (これから後は私の独断的な解釈になります)
 さてシャガールが描くキリスト、恋人、人間、家、羊などは、みな一種の記号あるいは表象(注)であると私は思います。 つまりシャガールは、表象を画面にちりばめて物語を創っているのです。しかし絵画は、文学作品と異なって表象を並べただけでは詳しい描写ができません。例えば聖書の世界を描いた作品が沢山ありますが、異教徒である私には何が描かれているかが判りません。わずかに画題を見て想像するだけです。子供の頃の思い出を描いた木版画のシリーズも彼の詳しい伝記がなければ理解不足になります。一般的な近代・現代絵画では、ある程度の画の知識があれば、見ただけで作品を鑑賞することができるのに、シャガールの作品ではそれができないのです。

  (注) 表象:知覚にもとづいて意識に現れる外界対象の像(広辞苑)

 シャガールの作品について、今まで私はあまり関心がありませんでした。関心がなかったのは、見ても判らない部分が多すぎて一種のいらだちのようなものを感じたからです。この美術館に入ってすぐに見たスライドの解説により、この判らない部分は多少少なくなりましたが、それでも個々の作品を前にすると依然として残っているのです。このまだ判らない部分は、シャガールの伝記を読み、聖書を勉強しない限りいつまでも判らないままであり続けるでしょう。

 現在、絵画の世界では造形的な面が重視されていることは否定できません。しかし、ひょっとしたらこのような絵画は、絵画のほんの一部であるのかもしれません。古典絵画には思想、宗教、歴史などを濃厚に盛り込んだ作品が数多く存在するわけですが、将来の絵画にこのような要素が形を変えて復活することも考えられます。即物的、感覚的な風潮が高まり、いろいろな伝達メディアが生まれている現状を考えると、その可能性は大とはいえませんが。(2002年11月)