表紙に戻る
        
ちょっとおでかけ              
                                  Part - 1

いろいろ  1dayスポット  Part - 2

茶源郷 和束町 沙羅双樹の寺 天空の山城 竹田城跡 書写山円教寺 般若寺のコスモス
善光寺御開帳 姨捨 京都の町屋 宇治 平等院の藤 海野宿 北国街道 小江戸 川越
橿原 今井町寺内町 神戸ポートターミナル 播州竜野 赤とんぼ 神戸北野 異人館館 宇陀松山 歴史町
岡寺の紫陽花 尾張名古屋 三十三間堂 伊丹空港千里つばさ公園 信楽



 
大阪 伊丹空港

 -千里つばさ公園- <2025.10.30>

  

 伊丹空港の最南端、飛行機が間近にで見える魅力のスポットとして知られる千里川土手に、豊中市が新たに設置する「千里つばさ公園 Ma-Zika」の一部が先行開園した。
 これまでの千里川土手には休憩所、トイレ、日陰がなく駐車場も遠かったが、飲食店やバーベキュー、イベント広場、子供公園などを兼ね備えた大規模公園を目指して造成中である。
 完成は2027年であるが順次公開され、既に完成している屋根のある展望テラスから飛行機の着陸の様子を真下、真横から見ることができる。


 -千里川土手- <2017.10.26>


 伊丹空港は大阪府豊中市、池田市と兵庫県伊丹市にまたがる。「大阪国際空港」が正式名称。
 戦前の伊丹陸軍飛行場。戦後は米軍の伊丹エアーベースから大阪国際空港となったが、関西国際空港が完成したため国内線専用になった。

 この空港最南端の侵入口にある千里川土手は飛行機ファンの聖地。空港フェンスには「この付近は航空機の噴射で危険です・・・」と記されている。両翼を揺らしながら時速300キロ近いスピードで迫ってくる。手の届きそうな距離感、ものすごい轟音とジェット噴射圧、燃焼臭を残してタッチダウンする迫力に圧倒される。


 
-ANA B747ジャンボ機の里帰り- <2014.1.12>

 都心にある伊丹空港。周辺の騒音対策のため、3発以上のエンジンを持つジェット機の乗り入れが2006年(H18)から禁止された。そのため、伊丹空港でB747型ジャンボ機を見ることができなくなった。
 一度に500席以上もの大量旅客輸送が可能となり、空の旅を身近なものにしたこの巨大機、日本で100機以上保有していたが、燃費が悪く経営効率が劣るため、JALは2010年引退した。ANAでも3月で全廃することになって、特別里帰り飛行が行われた。この日は朝、自宅上空を通過するジャンボ機を撮って、伊丹空港送迎デッキで見納めしてきた。

      








 壮観 三十三間堂 <2025.9.22>

      
                                            (三十三間堂出典)

 お彼岸、京都祇園四条の大谷祖廟にお参りに行った後、七条の蓮華王院三十三間堂に寄り道した。
 相当以前に訪れたが記憶は薄れている。改めて長さ120mもの長大本堂に祀れた巨大な本尊十一面千手千眼観音菩薩座像と、左右に各500体、千体の十一面千手千眼観音菩薩立像の壮観さに圧倒される。仏法の守護神の風神雷神、二十八部衆立像なども含めて全てが国宝である。

 平安時代、釈迦の教えが薄れ世の中が乱れる末法思想が広まった。後白河上皇は千手千眼観音の慈悲によって人々の無限救済を願い、上皇離宮の一角に平清盛の支援を得て建立された。
 その後、焼失するが鎌倉時代に本殿だけ再建された。北隣に豊臣秀吉が東大寺大仏殿を上回る方広寺京大仏殿を建立した時、その一角に取り込まれた南大門が境内にある。
 三十三間の由来:本尊と脇仏の一千一体が三十三の観音菩薩に化身するといわれ、仏殿の柱間を三十三個の建築様式にした。







 尾張名古屋 <2025.6.21>

        

 名古屋城は名古屋のシンボル。1615年徳川家康が築城、御三家筆頭、尾張藩主の居城であった。
 名古屋城下は旧東海道から少し離れていたため閑散としていたが、幕府が安定してきた7代藩主徳川春宗の頃、城下に芝居や遊行施設を造り、人が集まる場所に整備してから「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」といわれるほど賑わった。
 国宝であった名古屋城は米軍の空襲で焼失。1959(S34)鉄筋コンクリート造りで再建されたが耐震性の問題で閉鎖。建て替えが予定されているが、バリアフリーの方法や石垣調査で意見が対立。藩主住居の本丸御殿が先行して2018年に再建公開された。
 書院造りの欄間、天井、障壁画、漆塗りや金箔の飾金具など武士文化の粋を尽くした豪華さ。写真撮影禁止の京都二条城本丸や二の丸御殿に比べて、名古屋城の本丸御殿は写真が撮れるのが有難い。
 次に訪れたのは、中級武士の屋敷が集まっていた白壁筋、主税町、撞木筋。明治、大正時代には政財界や文化人らが暮らしたエリア。その中に、戦災を免れた豊田佐吉の旧宅、一族の旧宅の重厚な黒い漆喰板塀門。陶磁器貿易商の旧宅、白壁塀の門構えの中に木々が茂る料亭や式場、重厚感のあるマンションなどが混在する静観な高級住宅街になっている。

   

 さらに、名古屋城から堀川沿いの美濃道を下ると、四間通と呼ばれる道筋に伝統的な町並み保存地区が存在する。堀川の船運で発展した商人の町で、元禄の大火後、道幅を4間(7m)に広げ、石垣土蔵造りを推奨した。二階に熱田や稲葉の神様を祀った尾張地方独特の屋根神様の家が何軒かある。

 名古屋駅で息子と久しぶりに会って昼食。その後、トヨタ発祥地のトヨタ産業技術記念館を訪れた。
 トヨタ創設者の豊田佐吉が1911年(M44)に創業した紡績や織布機械を製造する豊田紡織本社工場の跡地である。
 勤めている時、東レ開発センターにあった懐かしい繊維機械は足早に通過、自動車館で製造歴史、設計、鋳造、鍛造、プレス、組み立てなど自動車生産の工程や実演デモ機などを見学。若い頃に乗っていたカローラ1100とも対面した。
 帰りは近鉄特急火の鳥に初乗車。光沢のあるメタリックレッド。普通車でもリクライニングシートは最高に倒しても前後に影響しない余裕間隔と座高さ、鶴橋まで寛ぎの2時間。







 岡寺の紫陽花 <2025.6.10>

         


   梅雨に入った直後、に「紫陽花の川」と題した写真が投稿された。
 そこは岡寺の境内、奥の院に通じる参道や階段、石垣の水路などに色とりどりの鉢植えの紫陽花が並んだ様子が、天の川のよう!との感想が寄せられた。
 明日香にある岡寺は、日本最古で最大の塑像観音を本尊とする観音霊場。500m程の参道の急坂と100段近い階段は息が上がる。以前に訪れた60歳半ばの頃は、これ程厳しく感じなかったように思う。
 手水舎や池に紫陽花やダリアの花が浮かび、可愛いお地蔵さんを鉢植えの紫陽花が囲む。話題の青い天の川は、小雨に濡れて艶やか。
 







 宇陀松山 歴史町 <2025.6.1>

 奥大和の宇陀松山は旧伊勢本街道の道筋にある。豊臣時代の秋山氏の城下集落。関ケ原後に廃城、僅かな石垣と西口間門しか残らないが、江戸時代中期頃から大正時代にかけての町屋集落が存在する。
 この付近は、7世紀初期頃から薬草の産地、万葉集に薬草狩りの記録が残る。中でも「森野旧薬草園」は日本最古の薬草園とされ、吉野葛の元祖でもある。
 薬問屋であった細川家住宅を改修した薬の館は、江戸末期の建物で背の低い辻子二階、漆喰で塗り固めた虫籠窓を持つ商家町屋。破風飾り屋根に天寿丸と書かれた巨大看板を掲げる。
 この細川家は藤沢薬品の創業者の母方の実家。明治中期に大阪で薬問屋を開業、現在はアステラス製薬になっている。ロート製薬や津村順天堂も宇陀松山から起業した。
 元禄時代に創業した久保本家酒造は明治時代の建物を残す。大正初期に自動車事業にも進出、現在は奈良交通になっている。

  

 2キロ程巡った集落の先に大宇陀道の駅がある。何年か前、本郷の又兵衛桜や伊勢志摩を訪れた帰り道で立ち寄っている。道の駅があれば必ず立ち寄る妻、宇陀牛そばを食べて、葛豆腐と五穀米を買ったことを思い出した。







 神戸北野 異人館街 <2025.5.26>

            北野天満神社の見晴台から 風見鶏の館と神戸市街
     

 異人館が建ち並ぶ北野エリアは六甲山の麓の高台にあり、神戸の街並みや港が望める。
 江戸末期、日米通商条約の提携後、神戸港が開港された。明治から大正の文明開化時代にかけて貿易などで来日した外国人の住宅がこの付近に建った。一時は200棟以上あったらしいが、戦争などで多くを失い、阪神淡路大震災でも被害をうけて20棟程しか残らない。

 1977年(S52)NHK連続テレビ小説「風見鶏の館」で有名になって以来、自治体やボランティア団体で維持されている重要建造物保存指定地域。

  

 三宮から北野坂を登った一番奥にある北野天満神社、平清盛が神戸福原に遷都して都の鬼門鎮護として京都北野天満宮から勧進した。境内の見晴台から異人館や神戸市街地が見渡せる。
 眼下の風見鶏の館は北野のシンボル。ドイツの貿易商の旧宅で、三角屋根の風見鶏が名前の由来になっている。黄緑色で統一された萌黄の館は米国領事館の旧宅。3千枚の天然石スレート壁のうろこの家は外国人向けの高級借家として使用されていた。
 フランスのアパート造りの洋館長屋。ドイツ人の旧宅のラインの館。イギリスのチューダー建築様式の山手八番館では彫刻、絵画など多数の美術コレクションが見られる。







 播州竜野 赤とんぼ <2024.10.13>

  

 姫路から姫新線で20分程。西播磨を流れる揖保川の畔にある本竜野。小さな堀割、至る所に鍵型と多くの寺院を配した城下町。
 江戸時代後期から大正時代の白壁土蔵、海鼠壁、千本格子の重要伝統的建造物が残る。400年の歴史を持つ東マル醤油、室町時代に遡る手延べそうめん揖保乃糸などの伝統的産業で栄えた。
 相撲の元祖、野見宿禰が大和から出雲に帰る時、この地で亡くなった。古墳造りのため出雲から多くの人達が来て、揖保川の石を立ち並んで運んだ光景が竜野の地名の由来とされる。山の中腹にある石積み古墳は野見宿禰神社として祀られているが、宿禰の墓や神社は各地に何箇所もある。

   

 竜野を有名にしたのは詩人童謡作家の三木露風。「夕焼け小焼けの赤とんぼ」や「ふるさと」などの作詞者として知られる。アップダウンの階段が続く童謡の小径に「赤とんぼ」「里の秋」「みかんの花咲く丘」などの歌詞碑があり、その前に佇むと懐かしいメロディーが流れてくる。
 三木露風の生い立ちを竜野に来て初めて知った。生家は竜野城城門を下った所に残る。5才で両親が離縁、母は乳飲み子を抱えて遠く鳥取に帰り、伯父に引き取られ竜野で幼少期を暮らした、この時の切ない思いが「赤とんぼ」の詩に込められていた。この日、赤とんぼが飛ぶ姿はみつけられなかったが、金木犀の香りが漂う哀愁の1日であった。







 神戸 ポートターミナル

 コロナで途絶えていたクルーズ船の寄港が復活してきた。これまで大阪天保山で見た16.7万トンのクァンタム・オブ・ザ・シーズが最も大きな船であった。今年はそれよりより大きい船が神戸ポートターミナルに来た。天保山は狭く限られた視野になるが、神戸港は広く景観もよい。

  

 MSCベリッシマ <2024.4.29>
 17.1トン。世界第5位。全長316m、幅43m、高さ65m。2019年就航。ベリッシマは「最大級に美しい」を意味するイタリヤ船。近年、20~22万トンクラスの大型クルーズ船が相次いで20隻近くが就航している。今年1月には世界最大25万トンのアイコ・オブザ・シーズが就航した。日本への寄港情報はまだない。
 スペクトラム・オブザ・シーズ <2024.7.23>
 16.9トン。世界第6位。全長348m、幅41m、高さ60m。2019年就航。パナマ船。淡いブルーの船体が美しい。







 京都の町屋 <2024.1.17>

 京都の中心街は平安京時代からの歴史を持つ。室町幕府の花の御所として栄えた室町や、新町界隈などにも昔ながらの町屋の面影が残る。花街の祇園は神仏習合の祇園社の茶屋が始まり。四条宮川町は出雲の阿国が、戦乱ですさんだ京の四条河原で歌舞伎踊りを披露した頃から続く。

   

 京都の住居型店舗の町屋は、細長く奥深い通り庭の土間に台所を有し、中庭(坪庭)、裏庭へと続いて、その奥に離れや蔵が建つ。このような表に商家空間、奥に生活空間がある建物を「表屋造り」、俗に「鰻の寝床」と言われている。江戸時代、間口の大きさで租税が決められたため、この様な狭い間口になったなど諸説ある。
 厨子二階は通りを見下さなように低い虫籠窓として、使用人の部屋や物置などに使われた。防火策として漆喰塗り壁。出窓格子に紅殻塗り、犬矢来、駒寄柵、揚見世(折りたたみ縁台)。昔はどの町屋も屋根に守り神の鍾馗さんを置いたが、今も所々でみられる。
 明治後期頃から二階が高い総二階(本二階)に変わってきた。西陣織で知られる西陣地区では、裏に作業場や機織場が造られた。花街では明るい出格子、本二階には簾が掛かる。







 今井町寺内町(大和橿原)<2024.1.5>

 大和橿原に重要伝統的建造物群保存地区に指定されている今井町がある。
 飛鳥や平城京、平安京を結ぶ動線と、堺や難波宮を結ぶ竹内街道から藤原京や三輪、伊勢を結ぶ横大路の交差点を中心に中世紀頃に生れた集落で寺内町を形成していた。
 一向宗が称念寺御坊を開き、自衛のための壕や桝形にして武士団も要していた。対立していた織田信長に降伏した後、自治権が与えられ商業都市として財力を蓄えた大和最大の在郷町。今井銀を発行するなど「大和の金は今井に七分」ありと言われた。

   

 全国最多、500棟以上もの伝統的建造物が集まる。寺院のように豪壮な今西家は江戸中期の建物。低い中二階が主流であった中で、財力のある河合家では高さのある漆喰塗り虫籠窓造り。見学した町屋館では跳ね上げ戸、低い屋根裏の厨子二階、煙だし。中庭の井戸は防火槽を兼ている。







 小江戸 川越 <2023.12.1>

 旧中山道大宮宿を訪れた途中に寄り道した。大宮から川越線に乗って20分程、レトロな街並みは駅の中心街から2キロ程離れている。平安時代頃、支配していた河越氏の名前が川越の由来。
 徳川幕府は北の守りとして大老、老中格の酒井、堀田、松平などの徳川譜代重臣を配置した川越藩は、武蔵の国最大、水戸藩に次いだ石高であった。

   

 農産物や生糸を江戸に運んで財を成した川越商人は、蔵が独立した「倉庫蔵」ではなく、店舗と蔵が同居した特徴ある「店蔵」を建てた。
 類焼を防ぐ耐火建築、黒漆喰壁、巨大な鬼瓦屋根、棟木保護のための箱棟など、重厚な建物が並ぶ。江戸情緒あふれる街並みに、時を刻み続けるシンボルの「時の鐘」。明治の大火で焼失したが4代目が再建された。







 海野宿(北国街道) <2023.10.24>

 旧中山道宿場の信州を訪れた時、北国街道の海野宿を訪れた。
 信濃追分で中山道から分離した北国街道は、善光寺を経て越後直江津で北陸道に合流。善光寺参拝や佐渡金山と江戸を結ぶ道として整備された。
 信濃の中心、国分寺が置かれた上田に隣接する海野氏の領地集落の宿場。海野氏は真田氏の祖先にあたる家柄。本陣1、脇本陣2軒、旅籠造りや茅葺屋根の家屋が600m程立ち並んでいた。
 明治に入って宿場機能を失ったが、旅籠として使われなくなった客室を養蚕造りに改造した家並みが保存され、重要伝統的建造物群保存地区になっている。

   

 二階をせり出して部屋を広く確保した出桁造り。二本づつ交互に組まれた二階の出格子は海野独特とされる。養蚕造りの気抜き、煙出しの高窓。本卯建は江戸時代、意匠を兼ねた袖卯建は明治時代の漆喰塗り。海鼠壁の蔵、防火や足洗い用の水路に柳が植わる情緒豊かな街並みであった。







 宇治平等院の藤 <2023.4.18>

 藤原一族の栄華を今に伝える平等院。宇治川の畔にあった源重信(宇多天皇の皇子)の別荘を藤原道長(摂政関白)が譲り受け、その子の藤原頼道によって西方浄土を再現した平等院を創建(1053年)した。中心となる鳳凰堂(国宝)の屋上に鳳凰を戴き、阿弥陀如来を本尊として浄土庭園を配した。
 藤原氏家紋の藤。樹齢約300年、日本古来の野田藤が例年より早く咲きだして、藤棚から1m程垂れ下がる。朱色に輝く鳳凰堂と藤棚が重なるアングル、人が途切れる一瞬を撮る。


  







 
書写山 円教寺 <2022.10.30>

        

 西の清水寺や、比叡山と呼ばれる書写山円教寺。平安時代の初期、天台宗高僧の性空(ショウクウ)上人によって開かれた千余年の歴史を刻む播州の名刹。以前、妻が行って比叡山や清水寺より勝ると聞いていた場所。丹波竹田城跡の雲海見物の帰りに立ち寄った。
 ロープウェイで書写山、さらに山内バスに乗る。山門をくぐり摩尼殿まで1キロ程登る。崖にへばりつくように建てられた舞台造りの本殿。西国三十三所の札所、本尊として如意輪観音が安置されている。
 円教寺の魅力は、この先500m程奥にある奥の院。室町時代中期に建てられた三之堂(ミツノドウ)と呼ばれる大講堂、食堂、常行堂がコ字に配置された壮大な伽藍配置に圧倒される。
 中でも40mもの総2階の大規模食堂は、他に類をみない。ハリウッド映画ラストサムライ、大河ドラマの軍師竹中官衛、武蔵や関ヶ原など多くの撮影場所に使用された。







 天空の山城 竹田城跡 
<2022.10.30>

 兵庫県朝来市和田山にある古城山の山頂に築かれたのが竹田城。今は城跡の石垣だけが残る。
 付近は霧が発生しやすく、雲海に浮かぶ城跡が度々映画のロケなどで登場する。この城跡がまだそんなに有名になっていない頃、マムシやスズメバチの出没情報で行きそびれていた。
 近年は途中までバスが運行され観光客が急増、石垣などが崩れる被害が続発。石垣への立ち入り禁止や通行規制が強化されて行く気を失せていたが、雲海は是非とも見たいと思っていた。

      

 数年前、早朝一番のJRででかけたが、天守台に登った時には雲海は消えていた。

 この時の教訓から、今回は自宅3時出発。真っ暗な高速道路を飛ばして5時に山麓駐車場。懐中電灯を照らして50分程かけて城跡天守台に登った。
 雲海が発生する条件は、①日中から夜中にかけて急激に冷え込む早朝、②風がない、③湿度が高く円山川から蒸発する水蒸気が飽和に達した時である。
 この日は雲海は発生したが、風があるため期待したほど幻想的な景色にはならなかった。

                                        
竹田駅掲示板より
   

 竹田駅に掲げられている雲海に浮かぶ天空の城の写真は、2キロ東方にある朝来山(756m)の中腹からの眺望であるが、距離がありすぎるため、三脚で固定した超望遠レンズが必要になるため諦める。







 般若寺のコスモス (奈良)<2022.10.21>

 聖武天皇が平城京の鬼門封じのため、基壇に般若経を納めた卒塔婆を建てたのが起源とされている。
 平家の南都攻撃や戦乱で焼失、現在の伽藍は鎌倉から江戸時代の再建と伝わる。
 爽やかな晴天、奈良駅から旧奈良街道の般若坂を歩く。2キロほど登った丘陵地に般若寺が佇む。決して広くはない境内に背丈ほどあるコスモスで覆われる。
 ビーズ玉を沈めて水を張った透明容器に、コスモスを浮かべるグラスキューブが色鮮やか。







 善光寺御開帳 & 姨捨 <2022.5.19>

 昨年予定されていた7年に一度の御開帳がコロナで延期、今年の4~6月になった。残雪の上高地を訪れて松本に泊まった翌日、長野まで足を延ばてして善光寺の御開帳と姨捨を訪れた。
 電車で長野駅を訪れるのは50年程前のスキー以来になる。以前の長野駅の記憶はないが、門前町の玄関口らしい立派な駅舎。
 善光寺まで1キロ強。大門を過ぎる仲見世通りあたりから参拝の人の列が続く。昨日までの上高地の静けさとは大違い。

     

 善光寺の本尊は左右に観音菩薩と勢至菩薩を従えた「一光三尊阿弥陀如来」の絶対秘仏。
 この本尊の身代わりとして造られたのが「前立本尊」と呼ばれる小ぶりの三尊阿弥陀如来。これが7年一度御開帳される。
 本尊は6世紀インドから百済を経て、仏教伝来と共に日本に伝来。仏教論争で廃物派の物部氏が飛鳥豊浦(難波の堀江説も)に捨てたが、信濃国司とともに上洛していた本田善光がそれを拾い持ち帰ったと伝わる。
 参拝の順序がある。
 最初に本堂前に建てられた回向柱に触れる。この柱は本堂の前立本尊の右手中指と紐で繋がっている。本堂に入り前立本尊を参拝後、本尊床下の須弥壇を一周する。微かにロウソクが灯るがほぼ真っ暗な中、須弥壇回廊の壁を手探り伝いに回ると極楽浄土が叶えられるとされている。

  

 善光寺の参拝を終えた帰り、篠ノ井線の姨捨駅で途中下車。姨捨は千曲市冠着山(カムキリ)の中腹にあり、昔話の姨捨伝説で知られることから姨捨山とも呼ばれている。
 ここから眼下に広がる善光寺平と呼ばれる長野盆地の景色は、根室線の狩勝峠、肥薩線の矢岳駅と共に鉄道三大車窓に数えられている。
 次の電車まで1時間以上ない。無人駅を出てのどかな山村を一周。なだらかな斜面に棚田が広がる。この棚田に映る月を松尾芭蕉は更級日記で詠んでいる。







 
茶源郷 和束町 <2021.5.11>

 7年前、妻と訪れた思い出の場所。滋賀信楽からの帰りに立ち寄った。初めてみる鮮やかな景観に感嘆の声をあげた在りし日の妻。この日は妻の写真と共に再訪した。

      

 宇治茶の発祥地、京都府相楽郡和束(ワズカ)町。日本で最も美しい村に登録されている。
 京都・奈良・滋賀3県境の山間のこの地方は8世紀中旬、天武天皇の恭仁京宮や紫香楽宮が置かれた由緒ある地。その後、鎌倉時代に隣の加茂町にある海住山寺の住職が、境内で育てた茶の種を和束町で育てたのが起源とされる。

 山岳地形で昼夜の寒暖差が大きく、霧が発生しやすいため太陽の余分な光を遮ってくれるなど、茶の育成に最適な条件が整っている。江戸期には天皇直轄地となり朝廷にも納められた。
 緩やかな山岳地に広がる緑の絨毯。山間の傾斜地に広がる茶畑を巡るいくつかのコースが設定されている。山全体が覆われた茶園もあれば、谷間を利用した円形茶園もある。千差万別の幾何学的な模様や緑の曲線美が広がる茶源郷。初夏の葉緑が目に染みるこの頃の緑が一番美くしい。

      








 沙羅双樹の寺 法話 
<2020.7.1>

 「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし・・・」と、平家物語の書き出しにある。
 沙羅双樹の寺、臨済宗妙心寺派大本山妙心寺塔頭東林院。この季節の半月ほどだけ特別公開されることを知って訪れた。

  

 釈迦が2本の沙羅の木(双樹)の下で涅槃した時、白い花を咲かせたことから仏教三大聖樹(菩提樹、無優樹)とされている。インド原産の沙羅の木は寒さに弱いため、日本では育たないことから、古来より夏椿を沙羅と呼んでいる。
 大きくはない禅寺の本堂前庭に数十本。落ち着いた静かな客殿、雨上がりに映える苔や庭石に白い花が散る。朝に可憐な花を咲かせるが、夕方にはもう散ってしまう。わずか一日を必死に咲いて、美しく散る儚い風情を、平家一門の栄華と没落にだぶらせた。
 住職の「草引きの法話」を聞く。引き抜く草も生きている、他の草木を生かすために引き抜いている、生かされた命は失った命のために命の限り生きると。
 そんなに割り切れるものではなと思いながらの帰り道、妙心寺境内参道の一角に陶器のカエルが置かれ「帰るとき 来たときより 穏やかに」と記されていた。







                             表紙に戻る