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平家が滅亡した下関壇ノ浦。大内文化が栄えた西ノ京の周防山口。江戸末期から明治にかけて政治の中心地となった長門萩。山陰の京と呼ばれる石見津和野など風情ある城下町や、大自然が織りなす鍾乳洞、秋吉台などを巡る。<2023.5.15〜17> |

■下関
海の歴史町 早朝6時のミズホに乗る。西方向に行く新幹線に乗るのは久しぶりになる。
関門海峡は下関と門司を隔てる全長約20キロの海峡。海峡幅が最も狭いところは600m余、潮流が速く船舶航行の難所。昔から防衛拠点として赤間関と呼ばれていた下関。瀬戸内海から日本海に抜ける本州の玄関口にあたり、九州や大陸との接点として栄えた。
壇ノ浦 下関駅からバスで10分、海を望む御裾川(ミモスソ)で降りる。関門大橋高速道や海底に関門トンネルが通る壇ノ浦と呼ばれる海峡公園。公園内に壇ノ浦古戦場碑や源義経と平知盛の像、安徳天皇入水碑などがある。
最後の源平合戦場となった壇ノ浦。須磨一ノ谷と屋島で連敗した平家は、下関の彦島まで後退したが、源義経が率いる水軍が瀬戸内海を進んできた。背後の九州門司には3万の源範頼軍がいて挟み撃ち状態となる。
1185年4月、源平2千艘近い軍船による戦が始まる。潮の流れを利用した平家が有利に戦うが、潮の流れが変わると戦況は逆転する。義経軍は禁じ手とされていた非戦闘員の漕ぎ手を狙ったとの説もある。安徳天皇は三種の神器とともに海に沈み平家政権は滅びる。

海に消えた三種の神器のうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収されたが、草薙の剣は発見されなかった。後に伊勢神宮から別の宝剣が献上され、これが現在に伝わっている。
海岸に5門の大砲が設置されている。幕末、長州藩や水戸藩で外国人(夷人)やキリスト教を排(攘)外する尊王攘夷論が台頭、長州藩が外国船を攻撃した大砲である。
赤間神宮 この地にあった阿弥陀寺に、安徳天皇を弔う御影堂が建立された。明治の神仏分離令で阿弥陀寺が廃止され赤間神社に変わる。
社殿は太平洋戦争で焼失。戦後、竜宮造の新社殿が再建される。平清盛の正室二位尼(平時子)が孫の安徳天皇を抱き、安徳帝の母建礼門院(平徳子)らとともに入水する時、二位尼の辞世の句「みもすそ川の
御ながれ 波の下にも 都ありとは」と詠んだことに因んで竜宮造にされた。
唐戸市場 下関はフグの集積地。有名な唐戸市場でフグ定食にしたが失敗、見掛け倒し。下関駅まで歩いてみる。周辺には日清講和記念館、旧山口銀行、旧下関領事館などレトロな建物が残る。海岸から小さな巌流島が見える。佐々木小次郎の剣術流儀の巌流から名付けられた。宮本武蔵との決闘場所とされている。
■西ノ京 山口
日中は1〜2時間に1本程しか電車がない下関駅。
昼過ぎの山陽線で新山口に向かう。ここから単線、非電化の山口線に乗り換える。新山口から30分程内陸部に山口県の中心部がある。
大内氏 鎌倉幕府が滅びた後、長門と周防を征服して室町幕府から長門、周防、豊前の守護職に任ぜられる。関門海峡を支配、港湾管理や通行料、日明貿易などで富を築き、足利幕府の幕閣になる。
応仁の乱が起こり、京都から避難してきた足利将軍や文化人を受け入れ、八坂神社を勧進、雪舟を招くなど京の室町文化を模した街づくりをして西の京と呼ばれた。
瑠璃光寺 大内文化を代表する曹洞宗の禅寺。国宝の五重塔は高さ31m、勾配が緩やかで先が跳ね上がった茅葺屋根、上層に向かって細い唐の禅様式。日本三名塔(法隆寺、醍醐寺)の中で最も美しいとされる。まもなく屋根の葺き替え工事が始まるため数年間見られなくなる。
市内には旧県庁舎、藩門、武道館など歴史を感じる建物が保存されている。ザビエル記念聖堂はスペインから山口に来て、ここから布教活動をスタート、クリスマスの発祥地と言われている。
倒幕拠点 200年続いた大内氏、最盛期は防長、石見、筑前、豊前、安芸、備後を支配したが、戦国時代に重臣の謀反から滅亡。代わって毛利氏が台頭。関ヶ原の戦で西軍として参陣した毛利(輝元)氏は萩に配置転換される。幕末になって幕命を無視、藩庁を萩から山口に移すなど、倒幕運動の拠点となり多くの志士が京に向かった。
湯田温泉 白狐が傷を癒していたことから見つかった温泉と伝わる。足湯とシンボルキャラクターの白狐が至る所にある。この日は湯田で泊まる。ビジネスホテルでありながら屋上に温泉露天風呂がある。満天の星を眺めながら山陽随一の名湯PH9のアルカリ泉は最高。
■山陰の京 津和野

翌日、津和野に向かう。一両の古いワンマンディーゼ車が唸りをあげて中国山地を登る。峠の長いトンネルを抜けて朝の静かな津和野に着く。
石州石見 島根県の山間にある小盆地。元寇に備えて吉見氏が城下北峰に、2キロにわたり高垣と石垣を築いた山城の城下町。大内氏と姻戚関係を結んで京文化を取り入れた。
大坂夏の陣で炎上する大坂城から千姫を命がけで助けだした坂崎直盛が藩主。この時、城を大改修して現在の城下が形成された。その後、亀井氏が藩主を継いで維新を迎える。
日本三大瓦(石州、三州、淡路)の中でも雪や寒さに強い赤褐色の石州瓦屋根、漆喰海鼠壁の家老屋敷や藩校。その掘割りには色とりどりの鯉が泳ぐ。花菖蒲が咲きだしたばかり。
町はずれに森鴎外の旧宅記念館、千本鳥居の石段が続く太鼓谷稲荷(日本五大稲荷)や、京都祇園社に伝わる鷺の舞の古典神事を受け継ぐ神社など風情ある城下町。
■明治維新 発祥地
萩へ 防長バスで津和野に向かう。長閑な緑の山間に赤褐色の石州瓦屋根が映える幾つかの集落などを抜けて1時間半程で毛利氏の拠点、萩に着く。
毛利氏は朝廷貴族の大江氏の祖、鎌倉に下って源頼朝の側近となった大江広元の子が相模の毛利荘を所領、その子孫が安芸に移り住んで土着。中国地方一帯を支配、安芸の他に備後、周防、長門、石見、隠岐、伊予を治める120万石の大大名から、関ケ原の戦い後、周防、長門(36万石)に減らされ、日本海に面した貧地、萩に追いやられた。そのような経緯から倒幕に傾注していく。

萩城跡 東萩駅前から電動レンタサイクルで萩城下を巡る。松林が続く弓形のきれいな菊ヶ浜海岸。藩主毛利輝元は海に突き出した指月山に五層の萩城を築く。城郭は維新後に取り壊され城跡公園になっている。
鍵曲(カイマガリ) 三の丸跡には上級武士が住んだ広い重厚な屋敷が残る。高い塀で囲まれた丁字路を設け、敵の侵入を妨げる堀内鍵曲、平安古(ヒヤコ)鍵曲などがみられる。
高杉晋作誕生旧宅 三の丸の北の総門を出ると外堀。下級武士や御用商人住居、寺院を集めた寺町などが設けられた。その中に高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋などの誕生地、木戸孝允など名士宅がある。白壁と海鼠壁の菊屋家、頑強な石積壁や瓦土壁で囲まれた武家長屋などが点在する。
萩に来るとどこからともなく甘く爽やかな香りが漂う。白壁、瓦土壁から夏ミカンの木々が覗く。深緑の木に白い花と黄色い実が成る。萩の特産品、山口県の花になっている。
松陰神社 松下村塾 城下外れ、東萩地区の山手、吉田松陰ゆかりの地に松陰神社がある。境内の松下村塾から高杉、久坂、伊藤など多くの門下生を輩出した。神社を出た先に伊藤博文旧宅がある。農民の家系であったが藩士に随行してイギリスに渡航、後に明治政府の初代総理大臣になった。
地図を見ながら10キロ四方の城下を4時間巡ったが、鍵曲や迷路が多く苦戦した。東萩16時の高速バスで新山口に戻り、駅前のホテルに泊まる。
■秋芳洞(特別天然記念物)
最終日は秋芳洞と秋吉台を巡る。バス便の始発が10時と遅い。2日間朝が早かったが、この日だけはゆっくりホテルビュッフェで朝食。

秋芳洞 日本最大、石灰岩浸食地形のカルスト台地。所在地は美弥市秋芳町秋吉。地上は秋吉台、地下は秋芳洞。どちらも「あきよし」と読む。以前は「滝穴」と呼ばれていた。大正末期、皇太子であった昭和天皇がここを訪れた時、立派な鍾乳洞に相応しい名前の提案があり、宮内庁が「秋芳洞」と命名した。この時から「しゅうほう」と読まれることが多くなった。
秋吉台 洞内奥のエレベーターで地上の秋吉展望台にでる。数億年前、海底火山の海面にできたサンゴ礁が地殻移動で隆起して台地化した。北東16キロ、北西6キロと日本最大のカルスト台地。
サンゴが化石化して突き出した岩肌や窪地が見られる。この窪地は水に浸食された石灰岩の割れ目から雨水が浸み込んでできた穴。秋吉台と鍾乳洞が一体となっていることを証明している。
一人旅では寝るだけのホテルと割り切っているが、今回は2日とも山口県の旅行支援割引制度が利用でき、その分だけ少し良質なホテルに泊まることができた。
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