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勤めをリタイヤして余裕ができた。それ以来、各地を訪れた時の記録を残すようになった。事前に調べ、実際に見て、知って、感じて、撮って、帰ってからデジタル記録にすることを基本にしている。山陽道は瀬戸内海航路とも結びていて名所旧跡が多数ある。岡山、広島地区は以前に何度か訪れてる場所もあるが、予備知識を持っての再旅となる。
<2014.5.9〜11>
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■岡山
瀬戸内海性気候の岡山は、温和で雨が少ない。そのため晴れの国といわれる。古くは吉備国。筑後(伊都国)、出雲、大和と並ぶ強大な勢力があった。邪馬台国が所在したとされる大和纒向遺跡から吉備地方の土器が多く見つかり、吉備国と大和との結びつきが明らかになってきた。
吉備国は大和王権に従属後、備前(岡山)、備中(総社)、備後(福山)、美作(津山)に分割された。奈良時代には吉備真備(キビノマキヒ)や和気清麿呂など、中央政権で権力をふるった有力者を輩出している。
■岡山城
朝一番の新幹線で岡山。駅東口に桃太郎像がある。岡山名産、白桃は日本一の生産量を誇る。
岡山城まで路面電車で10分程。戦国期、小高い丘の上に金光氏が築いた小城があった。宇喜多氏がここを攻略して本格的な城建設に取りかかる。
数年かけて旭川を外堀に利用した城構えとして、岡山と命名した。城下町として整備、ここを起点に戦国大名にのし上がる。豊臣秀吉に身内並みの厚遇を受けて、豊臣家五大老の一人になった。

朝が早やすぎて岡山城に入れなかったが、織田信長の安土城天守閣を模した三層六階の天守台は、見る方向によって形状が異なる非対象型となっている。
城壁が黒漆塗りであることから烏城(ウジョウ)とも呼ばれた。豊臣秀吉が築城した大坂城も黒漆塗りの壁や城飾りを取り入れている。この当時、黒は貴族や上層階級の間で流行りであった。
宇喜多氏は関ヶ原戦いで敗れ、小早川秀秋(豊臣秀吉の正室の甥)が城主となり、城域を拡張するが急死。姫路城主であった池田輝政の次男忠継が岡山に入封する。
池田忠継の母は徳川家康の次女で、家康の外孫にあたる。そのため岡山藩主池田家は外様ながら明治維新まで続いた。後に昭和天皇の第四皇女が池田家に嫁いでいる。
■後楽園
岡山城の北口から旭川に架かる月見橋を渡ると後楽園。川を挟んで岡山城の対岸にあたる。
江戸時代初期、岡山藩主の池田氏が造成した元禄文化を代表する池泉回遊式庭園。明治時代の初期に池田家から岡山県に移管、一般公開されるようになった。
日本三名園(金沢兼六園、水戸偕楽園)に数えられる。特に藩主の居間であった延養亭から望む岡山城の景観がみごととされる。規模的には、これまで見物してきた金沢兼六園とほぼ同じぐらい。三名園ではないが高松栗林公園の方が景観、規模、植栽ともに勝るように思う。
■倉敷

江戸から明治時代の白壁土蔵造り、美術館や文化施設が残る倉敷美観地区に向かう。
倉敷川の水運によって備中地方の特産物が倉敷に集まった。天領地となって徳川幕府の保護のもとで、備中代官の小堀遠州がここから大量の兵糧米や物資を各地に送っている。
柳並木の倉敷川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵の町並みが残る。その代表、倉敷紡績を起業した大原家や、干拓と塩田で財をなした大橋家などの邸宅は今も保存されている。
昭和初期には日本初の大原美術館が建てられた。政治問題になった加計の美術館もある。
昔は児島半島は瀬戸内海の浅い海の中にあった。
多くの小島と大きな児島に囲まれ「吉備の穴海」と呼ばれていた。その後、河川からの土砂の流入や、大規模な埋め立てによって、陸続きの児島半島が形成された。
塩分の多い干拓地のため米作より木綿が栽培された。木綿と共に発達した綿織物や染色加工、縫製産業を基盤として帆布や国産ジーンズの発祥地。学生服、作業服の生産は日本一である。
■総社 備中国分寺

倉敷から伯備線で10分程。かっては吉備国の中心、備中国府が置かれていた。その跡は今も備中国総社宮や国分寺跡として残っている。
総社駅からレンタサイクルで吉備路を早回り。のどかな田園地帯の中の国分寺五重塔は吉備路のシンボル。奈良時代には七重塔であった。現在の五重塔は江戸時代に再建されたもで、岡山県では唯一の五重塔。
総社市の北部山岳地にある鬼ノ城。唐や新羅からの襲来に備えて築いた高さ6m程の土塁や石垣が、3キロに渡って巡らされている。これが桃太郎伝説の鬼ヶ島モデルとなっている。
製鉄技術を持っていて、この地方を支配していた渡来人温羅(ウラ)や吉備国が鬼に例えられた。大和王権が孝霊天皇(7代)の皇子吉備津彦命を派遣して、温羅を従えさせたとされる伝説が語り継がれ、江戸時代に桃太郎の話として広まり、日本昔話になった。
■福山・鞆の浦
瀬戸内海に延びる沼隅半島先端の景勝地、鞆の浦は福山駅からバス。
潮の満ち引きにかかわらず着岸できる雁木(ガンキ)と呼ばれる石階段の船着場や、灯台の役目をした常夜灯は鞆の浦のシンボルとして名高い。
特使をもてなした福禅寺客殿の対潮楼や江戸時代の商家、開運物資集積の港湾施設など、歴史情緒ある町並は重要伝統的建造物保存地区となっている。この日は福山に戻り駅前のホテルに泊まる。
■宮島(厳島)

朝、山陽線を乗り継いで宮島口に向かう。広島湾に浮かぶ島。お宮のある島という意味で宮島と呼ばれた。日本三景のひとつ、風光明媚な海岸線を持つ。
宮島口港からフェリーで10分。この日は午前中が満潮のため海に浮かぶ厳島神社が見られる。
桟橋の横で平清盛の立像が出迎え。清盛が厳島神社とかかわるのは、瀬戸内海を掌握して安芸守となってから。福原港(神戸)から大陸貿易を拡大して莫大な富を築いた。平家一門の繁栄を祈り、平家の守護神とした。
平家が滅亡後、荒廃するが中国地方と瀬戸内海を掌握した毛利元就が神社の再建。現在の本殿はこの時の姿が受け継がれている。
海に浮かぶ社殿となったのは島そのものが神体とされ、神聖な土地に建物を建てるのを避けたといわれる。
海中の大鳥居は8代目。海水に浸かる木造鳥居のため、腐食しにくいクスノキの大木が使われる。海底に埋まっているのではなく、敷石地盤の上のに置いて支柱で支えられている。箱型屋根の中には6トン程の石を入れて、水の浮力を上回る重力で保持、台風でも倒れたことはない。木造鳥居として日本最大。春日大社(奈良)、気比神宮(敦賀)とともに三大鳥居とされている。

厳島神社は神にいつき祀る島「伊都伎嶋神社」と称された。この土地の豪族、佐伯氏が推古天皇時代に創建したと伝わる。中世期には神と仏が同居した。島の最高峰の弥山(ミセン)は真言宗の山岳信仰場であり、厳島神社の神宮寺として社僧を統括した。豊臣秀吉は九州遠征の時、武運を祈願して大経堂(千畳閣)と五重塔を建立している。江戸時代に入ると神仏習合の厳島参拝は民衆にも広まり門前町を形成した。
一方、島には厳しいしきたりがあった。神聖なこの島に人は住めなかった。後になって、神社に仕える人の家や観光施設が建つようになったが島内には墓がない。島内で死者がでれば対岸に運ばれた。近年までは遺族は喪が明けるまで島に戻れず、女性は出産が近づくと、島から出て直ぐには戻れなかった。
■広島と毛利
広島に向かう。広島の北方の少盆地、安芸吉田に毛利元就の居城があった。
中国地方一帯を支配すると、山陽道に通じ瀬戸内海の水運が利用できる太田川河口の「白島」と呼ばれたデルタ地帯の開発に乗り出す。元就の孫の毛利輝元の時代に完成して広島と命名。拠点となる城の建設を進めた。これが現在の広島原形となる。
■平和記念公園、原爆ドーム、資料館

1945年(S20)8月6日8時15分、広島市上空で原子爆弾が炸裂。広島県産業奨励館の無残な姿は、被爆の惨状を残す象徴として世界文化遺産に登録された。
原爆記念資料館は修学旅行生で混雑。欧米人が非常に多い。以前に比べて展示方式は進化、原爆投下のCG映像。大メデアテーブルではタッチパネルで検索できるようになっている。白人の女の子が被爆の惨状や遺品を見て涙する姿に感動した。
−原子爆弾の投下−
太平洋ミクロネシアから複数のB29爆撃機が順次出発。最初は広島、小倉、長崎、硫黄島の気象観測機。原子爆弾を搭載したエノラ・ゲイは少し遅れて出発。気象観測機が広島に接近した時、空襲警報が発令されたがUターンしたため警報は解除された。その後、原爆搭載機が広島に飛来時は空襲警報は鳴らなかった。
1万mの高度から投下された原子爆弾は原爆ドームの上空で核分裂。そのエネルギーは爆風(50%)、熱線(35%)、放射線(15%)の比率で放出されたとされている。
爆風は強い台風の千倍。爆心地で35t/u、1キロ先で10t/u、2キロ先でも1t/u。ほとんどの家屋が全壊。熱線は爆心地付近で約4千度とされ建物も人も跡形もない。
放射線量は爆心地で100シーベルト。福島原発事故の炉心排気口の10〜20シーベルトは、1時間被爆すると死亡するレベルとされているが、その5〜10倍の強い放射線量であった。
爆心地付近の被爆者は100%死亡。1キロ範囲内では90%。広島市人口(35万人)の約25%が死亡した。
爆発で発生した粉塵は高温のキノコ雲となって1.5万mまで上昇。上空で冷やされ、大量の放射性粉塵を含む黒い雨となって降り注いだため被害はさらに拡大した。
■呉 大和ミュージアム

広島からJR呉線で30分程。瀬戸内海の奥まった入江にある。村上水軍の拠点であったが、明治以降は軍港や東洋一の海軍工廠があって、多くの軍艦が製造された。
現在は海上自衛隊資料館、大和ミュージアム、造船所や海上自衛隊の基地などがある。
大和ミュージアムには6万9千トン、全長263m、幅40m、高さ約50m、46cm主砲12門を備えた戦艦大和の1/10模型がある。
1941年(S16)呉海軍工廠で大和は製造。同型の戦艦武蔵はその1年後に長崎三菱造船所で、2年後に信濃が横須賀海軍工廠で次々製造された。
1945年4月6日。沖縄特攻作戦のサポートとして大和は瀬戸内海徳山沖から出撃したが、翌7日鹿児島県枕崎南方海上で、満を持していた米軍機の集中攻撃を受けて2時間で沈没。3年の短い生涯を閉じて今も水深350mの海底に横たわる。その詳細は軍艦大和戦闘詳報に記されている。
■呉港 艦船巡り

観光船で呉港の艦船巡りをする。海上自衛官OBが説明してくれる。
戦艦大和を建造した海軍工廠の跡は、ジャパン.マリン.ユナイテッド(JMU)の造船所となって大型コンテナ船を建造中。戦艦大和より大きい長さ300m、10万トンの巨艦が眼前に現れる。
その向こうに海上自衛隊の護衛艦、潜水艦など多彩な艦船が見られる。海上自衛隊の中枢基地は横須賀であるが、保有艦船数では呉が最多とのこと。
連休明けを狙ったが、学生の団体で混雑していた。各地の名物、名産品も見てきた。広島のもみじ饅頭はお土産、昼食は広島焼き。呉では海軍カレーを食べた。宮島では焼き牡蠣を食べるつもりであったが、学生達の列。その中に一人だけ老人がぽつんと紛れ込んだ様子を想像しただけで諦めた。
岡山、広島を3日間で駆け巡ったが、備前長船(日本刀)、尾道(文学)、竹原(小早川家)などには立ち寄れなかった。

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