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旧中山道 宿場を巡

  寄る年波の中でも歴史街道への憧れは尽きず、旧中山道を巡る旅を計画した。若い頃は歩くことにこだわったが、無理せず電車、バス、一部レンタカーやレンタサイクルなどを利用する。道のりは長く一挙に達成するのは難しい。季節や時々の状況に合わせて臨機応変、寄り道もしながら江戸を目指す。 <2023.8~.12>

中山道宿場69次
 律令制下に東山道(トウサンドウ)ができて平城京から近江、美濃、信濃、上野国を経て陸奥国(ミチノク)に至る道が基になっている。戦国時代に北条氏が高崎、安中、坂本宿などを設けた。武田氏は下諏訪、塩尻から奈良井、福島宿などに伝馬制度を取り入れた。江戸時代にこれらを整備して五街道のひとつになった。
 中山道は厳しい山岳地を含むが、東海道に比べて海、川越えが少ない。後水尾天皇に入内する2代将軍徳川秀忠の娘和子や、幕末の公武合体で皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁する長大下向などに使用された。宿賃が安いこともあり混雑、幕府は大名の参勤交代は大半を東海道に導く程であった。火災などで失われた宿場も多いが、東海道に比べて空襲や開発による影響が少ないため、昔の面影を残す宿場がまだ多く見られる。

 身近な京三条から江戸を目指す。数年前、東海道と重複する草津宿まで歩いて、近江路として記録に残しているため守山宿からスタートする。

       

京三条~大津宿(69)~草津宿(68)の要約 <2016.2>
 三条大橋は東海道、中山道の西の起点。幕府直轄の公儀橋。駅伝発祥の碑弥次喜多像がある。
 三条通りを北上、東山の牛車道を越すと山科。伏見街道と奈良街道の追分。徳川幕府は西国大名が参勤交代の時、京の公家と接触するのを嫌い、京に入らせず山科から伏見宿に向かわせた。
 逢坂の関を越えると近江の大津宿。琵琶湖の物資集積地として有数の人口規模を誇った。木曽義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺を通り、膳所の旧城下から瀬田唐橋を渡って草津宿に至る。途中に矢橋道標が立つ。矢橋湊から船で琵琶湖を横断すると近道になるが、比叡おろしの突風や船留めがある。陸路の瀬田唐橋は遠回りになるが、確実であることから急がば回れの格言になった。草津宿の田中家本陣跡は現存する最大級の文化遺産。中山道と東海道の追分に道標と常夜灯が立ち、南に進むと東海道石部宿。中山道守山宿は北上する。


近江・守山宿~醒井宿 <2023.8.25, 9.9>
 夏にしか咲かない醒井宿の梅花藻(バイガモ)と百日紅が咲く8月下旬、観測史上最も暑い夏のスタート。新幹線の車窓から見る近江の景色は一瞬であるが、2日間ウロウロ、キョロキョロ29キロも歩いて近江の町並み、建物様式、独特の理念や文化に触れた。
守山宿(67) 
 守山市。本陣1、脇本陣2。京立ち守山泊と言われた。37キロあるが当時の人は余裕で歩ける距離であった。守山の地名は最澄が比叡山に天台宗を開いた時、東の守りとなる東門院守山観音寺を建てたことに由来する。
 宿場は守山駅の東西に広がる。京側の見付、今宿の一里塚に榎の大木が茂る。本陣跡は無くなり跡碑と説明板が立つ。越屋根造り宇野本家酒造は元総理大臣宇野宗佑氏の生家、再生され守山文化交流館になっている。江戸側の見付、吉見では一軒ごとに斜めにずらせて建てる斜行造りの住居が残る他、石碑や説明板がよく整い、宿場保存意識の高さを感じる。

武佐宿(66)
 近江八幡市。本陣1、脇本陣1。近江鉄道の1日フリーパスを利用した。小さな武佐の無人駅前から枡形クランクになっている。伊勢に通じる八風街道の石碑には「いせ みな口 ひの 八日市 道」とある。川越藩主の松平周防守は飛び地の武佐藩主も兼ねていた。その陣屋跡に再建された建物が残る。
 立派な門構えの下川家本陣跡は非公開。瓦葺き白壁塀から重厚な邸宅が覗く。冠木門が残る奥村家脇本陣跡は公民館。昔の家々では、柱戸や面格子、塀などが近江独特の紅殻塗りになっている。

◆愛知川宿(65)
   
 東近江市。本陣1、脇本陣1。「売り手よし 買い手よし 世間よし 三方よし」の近江商人は日野、八幡、五箇荘、愛知川、豊郷、高宮の他、湖西の高島など何か所も点在する。レンタサイクルで巡る予定であったが休業中の不運。想定外の10キロを歩くことになった。
 五箇荘は近江商人発祥地。商売に欠かせない天秤博物館がある。水路を巡らせた豪華な本宅と農家集落が一帯となった金堂地区の歴史的な町並みは、重要伝統的建造物保存地区となっている。
 繊維製品で財を成した藤井邸、木綿布問屋であった外村邸、国内外で呉服百貨店を経営した中江邸など、いずれも海鼠壁舟板張り、焼杉板塀などで囲まれ、見越しの松が覗く豪邸が並ぶ。
 農家は茅葺や瓦葺き屋根に紅殻トタンの重拭き。家々で異なる破風飾りを付けている。
 新旧街道を交錯しながら北上。愛知川宿の本陣、脇本陣は跡碑だけであった。愛知川商人は近江上布と呼ばれる麻織物を取り扱った。中でも田中家の豪邸は板塀から巨大な白壁土蔵や見越しの松が覗く。愛知川の御幸橋は近江商人の寄付で架けられた無賃橋であった。
 さらに北上、豊郷伊藤忠記念館は、11才から行商に出て19才で呉服店を開き、後に伊藤忠、丸紅、呉羽などを創業した初代伊藤忠兵衛氏が暮らした旧宅で、当時の暮らしぶりがよくわかる。


◆高宮宿(64)
 彦根市。本陣1、脇本陣2。最寄りの駅は近江鉄道の高宮。道中雨合羽などの集積地として、中山道では本庄宿、熊谷宿に次ぐ大きな宿場であった。
 昔の雰囲気を残す低い二階、漆喰の虫籠窓、卯建紅殻面格子など形も色も違う町屋が点在する。本陣跡は表門が残る。

 松尾芭蕉が寒い夜に泊まった小林家。汚れた紙子衣の坊さんと思われ、大した接待を受けなかった。「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。芭蕉と知って新しい紙子衣を贈り、古い方を紙子塚とした。大雨のたびに流される犬上川の木橋を高宮の豪商の寄付金で無賃の石橋にした。
◆鳥居本宿(63)
 彦根市。本陣1、脇本陣2。関ケ原後、徳川直参の井伊直虎は明智光秀の佐和山城を廃止、琵琶湖畔に彦根城を建て、彦根との交通路確保のため鳥居本に宿場を置いた。「江戸から118里、京へ18里」碑がある。
 本陣、脇本陣はなくなったが、築250年の伊吹薬草漢方店は今も営業。
 道中雨合羽の主産地。椿和紙に柿渋を塗って防水性を高めた合羽は旅人に好まれた。中でも松屋合羽店は一階の屋根から小屋根付きの看板が高々と上がる。もうひとつの木綿屋は天保時代創業の合羽店で、格子窓の軒に合羽を型どった看板を掲げ江戸時代の商家の風情を残している。
◆番場宿(62)
 米原市。本陣1、脇本陣1。東海道線から外れた農村。米原駅から往復6キロを歩くしかない。小さな宿場であるが、米原湊の琵琶湖水運物資拠点として問屋場が6軒もあった。
 石碑、説明板だけで宿場の面影はない。その横に番場の忠太郎の銅像がある。長谷川伸の劇作「瞼の母」の主人公。
 聖徳太子建立の 蓮華寺は、南北朝時代に六波羅探題の北条仲時勢400人余が北朝の光厳天皇らを伴って鎌倉に落ち延びる途中、南朝勢に追われ自決した場所。境内には北条仲時の遺品、兵士名録や総勢の墓がある。

◆醒井宿(61)
 米原市。本陣1、脇本陣1。地名は醒井、駅名は醒ケ井。鈴鹿山系霊仙山の湧き水を集めた地蔵川沿に建ち並ぶ風情ある宿場町。
 醒井の語源になったのが地蔵川の居醒の清水。記紀によると日本武尊が東征の後、伊吹山の荒れぶる神退治で負傷した身体を醒したと伝わる。年間を通じて15度前後の清流でしか咲かない梅花藻。思ったより小さい、梅に似た白い清楚な花。清らかな川面を吹く風は少しだけ秋を感じさせる。
 本陣跡は新しい大きな料亭。問屋場跡は醒井宿資料館として見学できる。本陣並み規模の江龍家は明治天皇休憩所になった。マルキ醤油店は江戸時代から続く。建て替わっているが昔の商家の佇まいを色濃く残している。

美濃・柏原宿~落合宿 <10.2~5>
 自宅を早朝出発、近江最後の柏原宿から再開。次の今須宿から岐阜県美濃になる。関ケ原ではレンタサイクルで古戦場を巡る。赤坂、美江寺、河渡宿は大垣から私鉄やバスになる。細久手、大湫宿は近年、バス便がなくなった。厳しい山岳路を通して歩くのは無理と判断、訪れるのを断念した。大垣、犬山、中津川で泊り、奥の細道むすびの地記念館や大垣城、岐阜城、犬山城の城巡りなどたくさん寄り道をした。
柏原宿(60)
 滋賀県米原市。本陣1、脇本陣1。東海道線柏原駅を8時スタート。旧松浦家の柏原宿歴史館や亀屋伊吹もぐさ堂、まだ開店前。伊吹山は薬草の産地、漢方薬店が多くあったが今では亀屋だけ。黒漆喰壁の主屋店舗は明治初期の再建。問屋場跡の説明板に問屋場6、旅籠22、もぐさ店9、造り酒屋3、酒屋10、炭屋12、豆腐屋9、商家23軒となっている。本陣は垂井の南宮神社に移設。隣の問屋場を兼ねた脇本陣跡は再建して住まれている。旧旅籠京丸屋や井筒屋、造り酒屋など近江の商家、町屋はどこも紅殻格子。家々には旧屋号が掲げられ、宿場表示や説明板などもよく整っている。

◆今須宿(59)
 岐阜県関ケ原町。本陣1、脇本陣2。美濃の最南端。今須には駅がなく柏原駅から4キロ程を歩くしかない。今須宿の手前、滋賀県近江と岐阜県美濃の国境に寝物語の里がある。幅50cmにも満たない排水溝を挟んで、昔は両側に旅籠が建っていた。平治の乱で源義朝を探していた常盤御前や、源頼朝から追討され、奥州めざして逃避途中の源義経を後追いしてきた静御前が、夜更けに隣宿の話声から家来の重臣と気付いて、めぐり合う話が「隣の家の寝物語」として江戸時代に語られた。司馬遼太郎の「街道を行く」でも紹介している。
 今須には問屋場が7軒もあったが今は閑散としている。ここから関ケ原の戦いのラッピングをした地域バスで次の関ケ原に向かう。

◆関ケ原宿(58)
 関ヶ原町。本陣1、脇本陣1。中山道と北国街道、伊勢街道が交わる。国道の拡張などで本陣はなくなり、脇本陣跡の門構えと旧街道の松並木が残る。宿場の面影は殆ど失われ、関ケ原駅は戦国武将の看板や旗が並び関ケ原の戦い一色。駅前の交流館も決戦地や武将の陣地跡巡りの案内が中心、宿場に関する情報は少ない。広い古戦場はレンタサイクルで巡った。
 関ケ原盆地に18万人の兵が集結。東軍の桃配山(徳川)を挟む様に、西軍は笹尾山(石田)、松尾山(小早川)、南宮山(毛利)、朝倉山(吉川)に陣を構えた。1600年9月15日の朝、本戦が始まるが、西軍の小早川、吉川軍の寝返りで勝敗はあっけなく1日で終わる。その詳細は歴史探訪(関ケ原の戦い)で記載している。

垂井宿(57)
 垂井町。本陣1、脇本陣1。美濃国一の宮南宮大社の門前町。本陣は残っていない。脇本陣門と高札場が明治天皇休憩所跡の本龍寺に移設された。
 200年の歴史ある旅籠亀丸屋や長浜屋、油屋商家など風情ある建物が保存されている他、美濃紙の発祥地で紙屋塚がある。
 垂水は東海道線が分線する。大垣駅から醒ケ井駅間の下りは標高差125mの勾配を登るため、汽車の時代は二重連にする必要があった。そのため、勾配を緩やにした迂回新線(垂井新線)が造られた。電化時代になってこの問題は解消されたが、旧線は普通、新線はスピードを出す特急が走る。
美濃赤坂宿(56)
 大垣市。本陣1、脇本陣1。大垣駅からバス。奈良時代には七重塔を持つ美濃国分寺が置かれ美濃の中心であった。杭瀬川の船運で木材、米などが桑名に運ばれた。国鉄赤坂支線ができてその機能を失ったが、古い佇まいが残る。
 本陣は皇女和宮の江戸下向時に泊まっているが解体され、跡碑だけ。脇本陣は近年まで旅館をしていたが廃業。
 嵯峨天皇の末裔とされる建築家、石材、林業等を営む矢橋家は赤坂では矢橋財閥と言われ、黒漆喰壁、卯建造りの豪邸。紅殻壁の竹中家や赤坂最古の清水家などが残る。

◆美江寺宿(55)
 瑞浪市。本陣1、脇本陣なし。大垣から樽見鉄道で数駅のところにある。美江寺観音寺が地名の由来。明治時代、根尾断層による直下型地震として日本最大(M8)の濃尾地震で、建物は殆ど崩壊。その後の道路拡張などで宿場の面影は消えたが、旧庄屋や長屋門跡などが復元された。
◇大垣城
 中山道は大垣を通らないが、中山道と東海道を繋ぐ美濃路(大垣道)の重要路のため大垣城があった。関ケ原の戦いで、西軍の石田三成が籠っていたが「東軍は大垣城を無視して、彦根佐和山城を攻めて大坂に向かう」との流言に惑わされ、大垣城を出たため城を東軍に奪われる。
◇奥の細道むすびの地記念館
 松尾芭蕉は曽良とともに江戸を出発、5か月2.5千キロの旅を大垣で終える。その後、船で大垣から伊勢の年式遷宮に参り、京都や義仲寺などに滞在。江戸で奥の細道を完成後、伊賀上野に帰郷。大坂で倒れ50歳で生涯を閉じた。遺言通り、近江膳所の義仲寺にある木曽義仲の墓の隣に埋葬された。
 この日はここで終え、大垣駅前のビジネスホテルに泊まる。

◆河渡宿(54)
 岐阜市。本陣1、脇本陣なし。2日目、東海道線で岐阜に向かう。駅前からバスで20分程。長良川の川越えを控えて設けられ、河渡(ゴウド)の地名由来になった。長良川の河川改修や、濃尾地震で古い建物はなくなり、新興住宅地に変わって宿場の面影は全くない。
◆加納宿(53)
 岐阜市加納。本陣1、脇本陣2。城下町と宿場町。宿場規模は本庄宿や熊谷宿、高宮宿に次いだ。
 岐阜城主であった織田秀信(信長の孫)、関ケ原の戦い後に追放され廃城となる。変わって岐阜駅の南東口に加納城が建てられた。城の大手門に面して中山道が通り、宿場町の中に何か所も枡形(七曲り)があった。岐阜空襲で宿場は焼失、その後、道路拡張で宿場の面影は無くなった。資料館もなく宿場跡碑が立つだけ。加納城は明治維新後、取り壊され本丸跡の石垣しか残っていない。
 現在の岐阜城はバスで20分程、長良川を見下ろす金華山に1955年(S31)鉄筋コンクリートで再建された。ロープウェーイで途中まで楽に行けるが、そこからきつい登りが500mほどある。元は稲葉氏や斎藤氏の砦。戦国時代に斎藤道三が城造りを始めた。後に、織田信長が難攻不落の居城として岐阜と地名を改めた。
   
◆鵜沼宿(52)
 各務原市。本陣1、脇本陣1。岐阜から名鉄各務原線に乗り鵜沼宿駅で降りる。宿場は濃尾地震や道路拡張で失われたが、電線を地中化、本卯建造りの坂井家脇本陣や高札場を中心に問屋場、商家、旅籠、明治初期創業の菊川酒造などを次々再建して宿場町を復活させた。
 木曽川を渡って尾張犬山に寄り道。犬山城は室町時代後期に織田信長の祖父が築城した現存する最古の国宝天守。関ケ原の戦いまでは西軍の拠点であったが、徳川時代、尾張藩家老で犬山藩主の成瀬氏が改修。維新後に廃城となるが、濃尾地震で大きな被害を受けて傷んだことから取り潰しを免れた。その後、成瀬家に払下げられ、補修されたのが今の犬山城。城下の本町通りに高札場跡、火の見櫓、鎧壁と呼ばれる板張りの町屋店舗が並ぶ。犬山橋から夕焼けに浮かぶ犬山城を眺めながら、犬山公園駅前の小さなホテルに泊まる。

◆太田宿(51)
 美濃加茂市。本陣1、脇本陣1。犬山を出発して高山線で美濃太田に向かう。駅前から1キロ程南下、木曽川右岸に沿うように設けられた宿場。古い街並みが残り、説明板や案内標識、休憩所などがよく整っている。
 福田家本陣跡は門だけであるが、向かいの林家脇本陣跡は江戸時代後期から明治初期の立派な本卯建造りの主屋や表門、土蔵などほぼそのまま残る。旧旅籠小松屋は太田宿資料館を兼ねる。御代桜酒造の酒蔵は圧倒される。
 鰻屋や川魚店が多い木曽川沿い街道を行くと大田の渡し。「木曽の桟 太田の渡し 碓氷峠がなけりゃよい」と言われた日本ラインの急流は中山道の三大難所。太田大橋を渡ると対岸は今渡。美濃太田駅から名鉄今渡駅まで4キロを歩いた。

◆伏見宿(50)
 御嵩(ミタケ)町。本陣1、脇本陣1。木曽川の左岸、名鉄広見線明智駅からほど近い小さな宿場。江戸時代後期に焼失した後、再建されず道路の拡張にともない宿場らしさは無くなった。明智氏の居城があって、明智光秀はここで生れたとされるが定かでない。稲葉城主斎藤氏に攻められて落城後は再建されなかった。
◆御嵩宿(49)
 御嵩町。本陣1、脇本陣1。名鉄広見線の終点、御嵩駅から東の街道筋にある小さな宿場。野呂家本陣跡は建て替えられたが往時の面影を残している。脇本陣跡が御嵩宿郷土館。宿場資料や大名食の復元、皇女和宮通行時の下賜品などが見られる。繭、木材などを扱った竹屋は本陣野呂家の分家。明治初期の再建であるが、犬走りなど江戸時代商家の様式を残している。
 御嵩の地名は吉野権現を勧進した神社を建て、吉野山を御嶽と尊称したことに由来するとをここで知った。近くに、室町時代初期創建の愚渓寺がある。ここの石庭を原形に、京都竜安寺の石庭が作られたと伝わる。

◆細久手宿(48)
 瑞浪市。本陣1、脇本陣1。御嵩宿から12キロの峠越え。牛の鼻欠け坂と呼ばれる急坂、滑り止めの石畳や荒れた草道のため、馬車より強い牛車が使われた。コロナ後、バスが廃止されたため断念する。本陣、脇本陣跡ともに残らず表示さえないようだが、唯一、江戸時代から続く旅籠大黒屋が明治時代に建て直されて今も旅館業を営む。アクセスの悪い御嵩宿と大井宿間を歩く人にとって欠かせない一軒宿となっている。
大湫宿(47)
 瑞浪市。本陣1、脇本陣1。大久手とも書く。リニア新幹線トンネル掘削で地盤沈下が問題になっている。古い建物が少し残るが、鉄道から離れた山中。御嵩宿から大井宿までの32キロは「十三峠におまけが七つ」と言われた隠れた中山道最大の難所。標高差300mであるが蓄積標高差が1500mにもなる。鋸山のような20余ものアップダウンは健脚な人でも厳しいと言われ断念する。
◆大井宿(46)
 恵那市大井町。本陣1、脇本陣1。多い湧き井戸が地名の由来。現在の地名は恵那。尾張商人の荷受け場として繁栄した。旧街道はカラー舗装されわかりやすい。中山道宿場の浮世絵が描かれた大井橋を過ぎると枡形が6か所も続く。幕府はここに城を築き城下町にする予定であったとか、狭い範囲に多くの家屋を建てるためなど諸説ある。林家本陣跡の主屋や客殿は焼失したが、焼けなかった門や囲塀が残。町屋造りの酒造商家菱屋は大井宿資料館と案内所。問屋場跡、庄屋跡、長屋門跡など昔の面影を残している他、帰りに立ち寄った駅前の路地裏に、木造3階建ての旧旅籠信濃屋が保存されている。
◆中津川宿(45)
 中津川市。本陣1、脇本陣1。中央西線では最も大きな都市。駅前に尾張藩が厳しく管理した木曽五木(ヒノキ、サワラ、ヒバ、ネズコ、コウヤマキ)が植わる。
 駅前の新町を過ぎて本町あたりから古い建物が見られる。島崎藤村の夜明け前にも登場する市岡家本陣跡の重厚な門構えが残る。脇本陣跡は歴史資料館。黒漆喰壁の庄屋跡は昔のまま保存。やはり桝形があり、焼き栗の香ばしい匂いが漂う。栗きんとん発祥地らしく老舗の和菓子店が多い。次の桝形にある間酒造は造り酒屋。旧料亭やけ山は桂小五郎の隠れ家。江戸から京に向かっていた長州藩主毛利慶親を待ち受けて行われた中津川会談で一挙に倒幕へ進んだ。
落合宿(44)
 中津川市。本陣1、脇本陣1。美濃17宿の最北端。昔は今須宿から落合宿までが美濃であった。中津川駅からバスは急坂を登る。恵那山を望む小さな宿場。江戸時代の大火で多くが焼失したが、江戸後期再建の井口家本陣跡は、美濃で唯一現存する貴重な遺構。皇女和宮が江戸下向時の休憩所にもなった。
 行列は2.6万人、4日間続いた記録が残る。その際、宿場総出で接待した炊き出し場と大鍋(1.5m千ℓ)がある。街道は水路が設けられ、随所に常夜灯が立つ。善昌寺には道路を覆いかぶさる見事な路上の松がある。一旦帰阪する。


木曽・馬籠宿~信州~上州・板鼻宿 <10.22~25, 11.7~8>
 「木曽路は全て山の中」島崎藤村の夜明け前の書き出しにある。今回は、その木曽からさらに信州を越えて上州のかかりまで進む。列車やバス便が極端に少ない上、厳しい和田峠と碓氷峠は迂回路やレンタカーを使用。馬籠宿、妻籠宿は2016年に訪れ記録「妻籠・馬籠を歩く」に残しているため、その時の要約とした。

◆馬籠宿(43)
 中津川市。本陣1、脇本陣1。岐阜県であるが昔は信州木曽。木曽11宿の最南端。馬籠峠に通じる馬の背中のような尾根に建つ宿場。水の便が悪く、麓から吹き上がる風に煽られ大火になりやすく、昔の建物は残ってない。
 島崎家本陣跡地に島崎藤村記念館が建った。記念館隣の茶房、大国屋の娘の大脇ゆふさんは藤村の初恋の人。中学3年の国語の教科書にあった藤村の詩集「初恋」 、「まだ上げそめし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」。テストで暗記した懐かしい詩である。馬籠は「 ごめ」、妻籠は「つま」、「籠」の読みの違いの疑問は解けなかった。

◆妻籠宿(42)
 南木曽町。本陣1、脇本陣1。電線、電柱がなく江戸時代にタイムスリップしたような家並みは「売らない、貸さない、壊さない」を守る伝統的建造物保存地区。本陣は島崎藤村の母の実家に藤村の兄が養子に入った。現在の建物は復元。奥谷家脇本陣は藤村の初恋の人、ゆふさんの嫁ぎ先、明治初期の再建。
 妻籠宿から8キロ先の馬籠宿を目指して歩いた。蓄積標高差500m、アップダウンの多いの馬籠峠越えは地道、石畳、坂、階段、熊除け鐘もある。急坂は馬より馬力のある牛が使われ、その牛方宿跡が残る。登り切った峠を下ると岐阜県馬籠宿。妻籠宿のような落ち着きはなく観光客で混雑。

三留野宿(41)
 南木曽町。本陣1、脇本陣1。中央線南木曽駅の山手側にある小さな宿場。御殿と呼ばれた木曽氏の館が地名の由来。火災や、蛇抜けと呼ばれる土石流などで、妻籠で見られた木曽を代表する出梁造り(ダシバリ)の古い建物は数少なくなった。本陣は跡碑のみ、脇本陣は冠門が復元された。
野尻宿(40)
 大桑村。本陣1、脇本陣1。中央線の山手側に800m程続く宿場は各所で外敵を防ぐため枡形が作られた。明治と昭和初期の火災で宿場の大半を焼失したため本陣、脇本陣ともに残らず跡碑だけ。当時は本陣でも部屋の仕切りは塗り壁ではなく、質素な板張りであったと記録されている。
 火災を免れた西外れの集落で狭い道幅間隔の中に昔の建物が残る。その民家の号屋がちょっと面白い「はずれ」になっている。再建された旧旅籠の庭田屋、寅さんの映画撮影に利用されたそうである。

◆須原宿(39)
 大桑村。本陣1、脇本陣1。昔の宿場は木曽川の河原沿いにあったが、川の増水で流されたため、江戸時代中期に一段高い現在の場所に移った。
 入口と中央を枡形に曲げて道路を広げて建て直された。この時、豊富な湧き水を利用した水路を設け、木曽の丸太をくり抜いた水舟と呼ばれる共同水利を宿場のいたるところに置いた。火災後に再建された木村家本陣跡は民家。
 西尾家脇本陣跡は今も造り酒屋「木曽のかけはし」という酒を造っている。須原駅前の大和屋では江戸時代からの須原名物「桜の花漬」を売っている。
◆上松宿(38)
 上松町。本陣1、脇本陣1。木曽ヒノキの主産地。駅を降りると木の香りがする。樹齢300年に達する木曽ヒノキ管理組合の集積場がある。江戸時代は尾張藩木材奉行所が置かれ厳しく管理していた。
 宿場は昭和の大火で大半が焼けた。塚本家本陣跡は開業医に変わり、裏庭に土蔵が残る。焼けなかった上町地区では、出梁造りの古い街並みが残る。上松駅から木曽川上流に木曽の桟(カケハシ)と呼ばれる、崖沿いの木橋を通る難所があった。松尾芭蕉は「かけはしや 命をからむ 蔦からむ」と詠んでいる。今は鉄筋コンクリートの橋になっている。

◆福島宿(37)
 木曽町。本陣1、脇本陣1。中央線の木曽では唯一特急が停まる駅。宿場は大半を焼失。焼けた白木家本陣の跡に役場庁舎、文化交流会センターなどが建つ。上段地区だけが焼けず昔からの建物、細い路地、水利場などが残る。
 木曽川を見下ろす断崖の隘路に福島関所(箱根、新居、碓氷と並ぶ四大関所)が設けられ、避けて通れなかった。特に入り鉄砲と出女を厳しく監視した。関所資料館として公開、当時の様子を知ることができる。関所の隣が代官所番人役の高瀬家。木曽川右岸に城跡や代官所跡が残る。関所や代官所があったため、大名や一般人ともに福島で泊まるのを避けたと言われる。
宮ノ越宿(36)
 木曽町。本陣1、脇本陣1。中山道のほぼ中間。山の中腹(越)にある南宮神社が地名の由来。宮ノ越駅前から少し川下あった宿場は明治の大火で焼失。焼失を免れた本陣跡の門構えと客殿などが移設整備された。
 木曾義仲ゆかりの地。義仲が幼少の頃、河内源氏の父・源義賢が武蔵国で討たれたため木曽に逃避、地元の豪族中原氏の庇護を受けて元服、木曽義仲を名乗る。やがて平家追討の挙兵をしたが、後白河法皇の策略や従兄弟の源頼朝と対立。近江粟津の戦で討死、義仲寺に葬られた。宮ノ越には旗揚げ八幡宮、義仲館や、菩提寺の徳音寺に義仲一族と巴御前の墓がある。

◆藪原宿(35)
 木祖村。本陣1、脇本陣1。鳥居峠に向かう人、越てきた人達で賑わった。度重なる大火で往時の面影は薄れたが、藪原の伝統工芸品、お六婆さんのお六櫛店がある。藪原固有のミネバリと呼ばれる堅い木から作る折れない櫛。安藤広重の浮世絵にも描かれている。元は妻籠の名産であったが、素材となるミネバリが妻籠になく、藪原の某人がその技術を盗んだとか?
 島崎藤村の詩、初恋で詠まれた花櫛はお六櫛であるが、精巧な木彫り花櫛を作れる人がいなくなった。鳥居峠は標高1200m、8世紀頃は美濃と信濃の国境。木曽氏が御嶽山を望む峠に戦勝祈願の鳥居を建てた事に由来する。

◆奈良井宿(34)
 塩尻市。本陣1、脇本陣1。鳥居峠を控えて賑わった。奈良井千軒と言われ、妻籠宿の規模をはるかに凌ぐ。中山道宿場で最長1キロも飲食、土産、漆器、木工店などが軒を並べる。大火に遭うことなく伝統的建造物群保存地区。本陣跡は公民館、脇本陣跡は郷土館、問屋場跡は休憩所として公開。屋根の勾配が少ない出梁造り出桁造り。1階の庇鎧や、軒の補強を兼ねた猿頭飾り(サルガシラ)が奈良井の特徴と郷土館で知る。
 奈良井から2キロ、漆器工芸店が軒を並べる木曽平沢も訪れた。木曽では珍しい海鼠壁の蔵、中庭や亜鉛屋根の作業場を持ち、斜行造りも見られる。

贄川宿(33)
 塩尻市。本陣1、脇本陣1。木曽11宿の最北端。長閑な小さな宿場。昔は高熱の温泉が湧き熱川と呼ばれたが、枯れて現在の地名に変わった。
 昭和初期の大火で中心部は往時の面影を留めていないが、火災を免れた贄川屈指の豪商 深澤家加納屋は非常に珍しい二重出梁造りの建物を残す。
 贄川関所は木曽福島の補完関所として木曽ヒノキ、漆の搬出管理を行っていた。復元された関所資料館は勾配の少ない板葺石置き屋根。瓦が貴重品の頃、木曽では板葺石置きが多くあった。贄川からは中央線と塩尻地域振興バスを組み合わせて利用する。

◆本山宿(32)
 塩尻市。本陣1、脇本陣1。そば切り発祥地。木々が深い木曽の山岳部を過ぎると、平地が多くなりそば畑が見られる。緩やかに曲がる静かな街道に面して、出桁造りの町屋が横一線ではなく、斜めに建つ斜行造り。見通しを意識的に悪くさせている。守山宿や木曽平沢でも見られた。この内、小林家川口屋は一階と二階に出桁を持つ珍しい二重出桁造りとなっている。
 本陣跡に再建された小林家は、板葺、緩勾配の切妻屋根に雀おどりの棟飾りが乗る本棟造り。この地方で見られる固有の様式。これまで近江の紅殻や木曽の建物を見てきたが、新たに信濃や諏訪地方の建物文化を知ることにった。
洗馬宿(31)
 塩尻市。本陣1、脇本陣1。木曽義仲の馬を洗った言い伝えが地名の由来。火災後、道路を広くして再建された。脇本陣に荷物の重量を計る貫目改め所が置かれ、規定重量超えると課徴金が取られた。中山道と善光寺道の別去れに道標や常夜灯、道祖神などが並んでいるが、秋の日没は早く写真は撮れなくなった。奈良井から地域バスで塩尻。この日も駅前の小さなホテル。
塩尻宿(30)
 塩尻市。本陣1、脇本陣1。翌朝、塩尻駅と中央東線みどり湖駅間の丘陵地にある塩尻宿を訪ねるが、5キロを歩くしか手段はない。
 国道から逸れた長閑な旧街道筋、火災を免れた古い立派な家が見られる。中でも、平林家や堀内家では本棟造りの切妻に雀おどりの棟飾りを持つ。木材で造られ、家々でその形が違う。島木家では雀おどりや軒の破風が紅殻塗り。
 千本格子が美しい江戸後期の小野家旧旅籠(銀杏屋)は重文。塩尻陣屋跡に明治時代に建てられた黒漆喰塗りの笑亀酒造、軒に超特大の杉球が架かる。みどり湖駅から下諏訪に向かう。

◆下諏訪宿(29)
 下諏訪町。本陣1、脇本陣1。諏訪大社の春宮と秋宮の門前町。駅から1キロほど坂道を登ると秋宮、さらに1キロ上方に春宮。各々の神殿四隅に御柱が立つ。山から切り下ろした新木を、木落としや雪解け水で清めて立て替える、7年に一度の御柱祭は諏訪地方最大の神事として賑わう。
 下諏訪は甲州街道と中山道が交わる。中山道では唯一の温泉地。北に和田峠、西に塩尻峠を控えて旅の疲れを癒す宿場であった。築220年の岩波家本陣や問屋場跡は庭園が見学できる。脇本陣跡のまる屋は今も旅館として営業。旧旅籠跡の下諏訪民俗資料館で諏訪地方の歴史文化を知る。

◆和田宿(28)
 長和町。本陣1、脇本陣1。下諏訪宿から和田宿は22キロ、中山道最長宿場間距離の上、最も標高が高い和田峠(1600m)越えは今の自分には厳しい。そのため塩尻に戻り篠ノ井線から、しなの鉄道で上田に迂回。バス便が朝夕しかないため上田からレンタカーにした。
 宿場は江戸末期の大火で焼失したが、皇女和宮の降嫁に際して突貫工事で再建した時の建物を残している。中でも、本陣跡は石置き屋根に1.5m程ある深い軒先の出梁造り(ダシバリ)、出桁造り(ダシゲタ)。問屋場を兼ねた翠川家脇本陣跡は小ぶりながら上段の間を残す。旧旅籠河内屋は歴史資料館。
◆長久保宿(27)
 長和町。本陣1、脇本陣2。北国街道の追分。信州中山道では最も規模が大きく、竪町と横町がL字型の街並みを形成する。
 石合家本陣跡は江戸時代からの建物や門構えが残る。上田城主真田幸村の娘が四代目当主に嫁いでいる。今も住居として使用されているため内部は非公開。隣に高札場が復元された。その先、醤油と酒造業であった竹内家(釜鳴屋)の低い二階の本卯建造りは、江戸時代初期の建物で信州最古。旧問屋跡の小林家は出格子。出梁造りの旧旅籠浜屋は歴史資料館。他にも竹重家、濱田屋旅籠などが並び、石置き屋根の建物など宿場らしさを残す。

芦田宿(26)
 立科町。本陣1、脇本陣2。蓼科山の北方にあたる長閑な高原地帯。宿場としては小規模。昭和初期の火災で多くが失われたが、本陣と問屋場を兼ねた土屋家は客殿と門が残り、皇女和宮が昼食休憩した記録が残されている。旧旅籠金丸土屋旅館、味噌と油業の酢茂屋は昔の面影を残す。
 次の望月宿との間の茂田井は、小諸の良質な米と蓼科山の豊かな清水から酒どころ。白壁に囲まれた酒蔵や邸宅が狭い旧街道に建つ。江戸時代から続く老舗の大澤酒造や武重酒造所では毎年、酒好きの著名人が訪れると聞く。
◆望月宿(25)
 佐久市。本陣1、脇本陣1。煙たなびく浅間山が徐々に近づいてくる。駒の里と言われる馬の名産地。朝廷の牧場などがあり、馬の飼育や売買人などで賑わった。8月15日の満月の日に朝廷や幕府に馬を献上したことから望月の名が付いたと言われる。
 大森家本陣跡に望月歴史民族資料館が建つ。真山家の旅籠大和屋は望月宿最古、2階が1階より飛び出した出梁造りの重文。鷹野家脇本陣跡や旅籠山城屋など趣のある家屋が点在する。木曽では材木、板が中心の建物であったが、芦田、望月や酒造業が多い茂田井に来ると海鼠壁、立派な白壁土蔵などが見られる。この地の豊かさを表している。

八幡宿(24)
 佐久市。本陣1、脇本陣4。佐久平丘陵地に田畑が広がる。脇本陣が多いのは、千曲川周辺の悪路や川留めで渋滞することが多いため、大名の休憩場として設けられた。本陣と問屋を勤めた小松家屋敷は建て替わっているが、立派な本陣門は昔のまま。二階に換気室のある越屋根造りの家屋が見られるようになる。近江などでは煙出しや採光用の窓であるが、信州や上州では養蚕や生糸作業場の温湿度を調整する機能を持つ。
◆塩名田宿(23)
 佐久市。本陣2、脇本陣1。丘陵地を下って千曲川にでる。かっては筑摩川と呼ばれ、中央線の夜行列車に「ちくま」があった。八幡宿から3キロ弱と短い。千曲川の川留めを想定した待機宿場であった。丸山家本陣跡は問屋場をかね、主屋は現在も江戸時代の佇まいを留めている。隣は漆喰壁本卯建造りの酒屋(大和屋)。川べりには川魚店などが並ぶ。千曲川の橋上から浅間山と北陸新幹線を望む景色が素晴らしい。
   
◆岩田村宿(22)
 佐久市。本陣、脇本陣なし。中山道で本陣も脇本陣がない宿場は岩村田宿高崎宿だけ。いずれも城下町で、大名は城下の藩士と突発的な摩擦が生じないよう、泊まるのを避けたと言われている。
 佐久平の中心。長野新幹線の佐久平駅開業や高速道路で周辺の開発が進み往時の面影はない。この日は駅に近いホテルで泊まる。犬山や塩尻の古い狭いホテルに比べると新しく少し広い。

小田井(御代田)宿(21)
 御代田町。本陣1、脇本陣1。佐久地方の玄関口。飯盛女が居ない落ち着いた小さな宿場。隣の追分宿が歓楽街であったため、大名婦人や女性子供は小田井に泊まることが多く姫の宿と言われた。
 安川家本陣跡は近年大補修されたが、重厚な門構えに見越しの松が覗く。皇女和宮もここに泊まっている。今も生活をされているため非公開。この他にも、上の問屋場、下の問屋場跡、千本格子の美しい旅籠、大黒屋や和泉屋など昔の面影を保持した建物が残る。小田井宿の外れに2mもある大きな馬頭観音や道祖神、野仏などが並ぶ。いかにも信州路らしい。

◆追分宿(20)
 軽井沢町。本陣1、脇本陣2。車の往来が激しい新国道から少し離れた旧街道の中程、脇本陣跡に和風旅館の油屋が建つ。その隣が土屋家本陣跡であるが、建物は無くなりその表門が、斜め向かいの堀辰雄文学記念館の入口に移設されて残る。門を潜ると堀が晩年を過ごした旧宅。信濃路など軽井沢を題材にした多くの作品を残した。堀はここで療養したが49歳で生涯を閉じている。
 枡形の角、出桁造りの旧茶屋つるが屋はほぼ当時のまま保存されて残る。その先の追分の別去れに道標や常夜灯などが立つ。中山道と善光寺や越後に向かう北国街道との分岐点であった。

◆沓掛宿(19)
 軽井沢町。本陣1、脇本陣3。沓掛は草鞋を履き替える場所や、難所の手前を意味した。長谷川伸の小説、沓掛時次郎で登場するが、江戸時代と昭和初期の浅間山噴火で大きな被害を受けて宿場は失われた。その後、地名は中軽井沢に変わった。本陣、脇本陣跡は旅館などに建て替わって宿場の面影は全くない。
◆軽井沢宿(18)
 軽井沢町。本陣1、脇本陣4。標高956mの碓氷峠を控え、中山道屈指の宿場規模を誇ったが、浅間山の噴火被害を受けた。宿場制度が無くなり国道や鉄道が通じると急速に賑わいを失う。しかし、富裕層や外国人の避暑地として復活。軽井沢銀座と呼ばれる繁華街に変わった。軽井沢駅前からレンタサイクルでショ-記念礼拝堂、木立に囲まれた別荘地、紅葉が真っ盛りの雲場池、星野リゾート地区などを巡ってみたが、観光客の多さに閉口。
 本陣跡などの標識を探すのに苦労する。旧街道から少し奥まった所に脇本陣跡の旅籠亀屋が万平ホテル。旧旅籠のつるやは堀辰雄、芥川龍之介など多くの文豪が滞在した。

   
◆坂本(横川)宿(17)
 群馬県安中市。本陣2、脇本陣2。京を出発して最後の難所碓氷峠を越えてホットした宿場。利根川と信濃川の分水嶺、上州と信州の国境、碓氷関所が置かれた。浅間山噴火の被害を受けたが、佐藤家本陣跡は明治期に再整備された。皇女和宮が泊まった金井家本陣跡は普通の民家に変わっている。
 少し下ると横川駅。官営鉄道として高崎-横川間が1885年(M18)開業、8年後に横川-軽井沢間にアプト式鉄道が完成して信越線が全通。1912年(M45)電化。標高差550mを越える碓氷峠を2重連の電気機関車で登ったが、1997年(H9)北陸新幹線の開通で横川-軽井沢間が廃線となる。その時の遺跡、4連アーチ碓氷第三橋梁のメガネ橋は煉瓦造りとして国内最大(全長90m)。横河駅前の名物「峠の釜めし」は今も営業している。

松井田宿(16)
 安中市。本陣2、脇本陣2。信州諸藩から集まる年貢米の中継地。ノコギリ刃のようなダイナミック山容、日本三大奇景(寒霞渓、耶馬渓)の妙義山が身近に迫り圧倒される。本陣や脇本陣跡を示す表示はなかった。上州に入ると、近江や木曽で見てきた商家や町屋とは異なり、養蚕を営む特徴のある櫓を持つ上州造り蔵造り建物が見られるようになる。
   
安中宿(15)
 安中市。本陣1、脇本陣2。本陣、脇本陣は跡碑だけであるが、蔵造りの古い建物が見られる他、安中藩の茅葺の奉行所跡と武家長屋が復元された。同志社大学を設立した宣教師、教育者の新島襄の出身地、旧宅が保存されて残る。
板鼻宿(14)
 安中市。本陣1、脇本陣1。関東平野の北の端、高崎市の手前まで来ると妙義山が遠くなる。隣の高崎宿は城下町のため泊まるのを避けたため、板鼻宿は大変繁盛した。本陣跡は公民館に変わり、皇女和宮が泊まった本陣跡書院と陣屋屋敷の一部が移設して残るだけ、昔の面影はない。

上州・高崎宿~武州~江戸日本橋
<11.30~12.3>
 8月にスタートした旅も最終章。残すところは高崎宿を含めて13宿、約110キロ。関東平野に入るとダイナミックな妙義山の山並みが遠くなり、赤城山が望めるようになる。夏は日本一暑い場所であるが、冬は底冷え、空っ風が強く寒い。小江戸川越などに寄り道しながら江戸日本橋を目指す。
 都会に近づく程、開発が進み宿場の面影は薄れてくるが、始めて足を踏み入れる場所だけに期待を持って出かけた。大阪を早朝出発したが新幹線が遅れ、新町、鴻巣宿や富岡製糸場には行けなかった。

高崎宿(13)
 群馬県高崎市。本陣、脇本陣なし。JR高崎線、信越線、上越線、両毛線に上越・東北新幹線、私鉄などが集まる。遠くに高崎観音が見える。交通路や産業、文化の中心で賑わいがあるが、県庁は前橋市に取られた。
 幕閣の井伊直政が築いた城下町。城内に宿場があることから大名は泊まるのを避けた。そのため本陣、脇本陣は置かれず旅籠も少なかった。
 高崎城
は明治の廃城令で取り壊され、堀と復元された櫓が残る。宿場の面影は乏しいが、重厚感のある白壁の漆器店や黒漆黒の蔵造り店舗、明治時代の煉瓦造りの醤油店などが残る。絹市場跡碑も立つ。
倉賀野宿(12)
 高崎市。本陣1、脇本陣2。最寄り駅は高崎線倉賀野駅。始めて知る地。
 利根川支流の船運拠点として栄えた。本陣(勅使河原家)は残らず跡碑だけ。その先の脇本陣(須賀家)跡は明治再建の片卯建造り、一・二階とも千本格子、屋根の棟に何段も熨斗瓦を積み重ねて装飾した棟瓦造りは重厚感がある。
 旧街道から少し奥に高窓(養蚕を営む上州ではと呼ばれる)が突き出る上州櫓造りの古い建物が残る。この付近の古い建物はどこも棟瓦が装飾され、鳥おどしと呼ばれる金属を刺した大きな鬼瓦もある。これまで近江や木曽で見てきた低い二階はほとんどみられなくなった。
新町宿(11)
 群馬県高崎市。本陣2、脇本陣1。上州群馬県最南端。昔は桑畑が広がっていた中に宿場があった。本陣跡は民家の塀際に標柱と小さな表示板だけ。もう一つの本陣や脇本陣跡はなくなり、明治天皇行在所が残る程度だけらしい。朝の新幹線が遅れたためスケジュールがタイトになり立ち寄らず通過。
本庄宿(10)
 埼玉県本庄市。本陣2、脇本陣1。新町から神流川を越えると武蔵の国、埼玉県に入る。利根川水運による物資の集結地として栄えた中山道最大の宿場
 地元の戸谷半兵衛は江戸時代の豪商番付の大関。江戸、京に何軒も店舗を構え全国に知られる存在であった。街並みは明治初期の大火で多くを焼失して本陣、脇本陣跡碑のみ。旧本庄警察署跡の歴史民族資料館前に本陣門が移設されて残る他、火災を免れた旧本庄商業銀行の煉瓦倉庫は、担保とした絹糸や繭を保管していた。珍しい煉瓦卯建造りの商店や土蔵が多く見られる。ここで日没となり、次の深谷で泊まる。
深谷宿(9)
 深谷市。本陣1、脇本陣4。江戸出発から2泊目の宿。煉瓦とネギの産地。東京駅を模してた煉瓦造りの駅舎を出ると渋沢栄一の銅像が立つ。渋沢が創設した煉瓦工場があったため、煉瓦造りの建物が多い。本庄でも見てきた煉瓦卯建造りの古い店舗や、造り酒屋の煙突、倉庫も煉瓦造りとなっている。
 渋沢栄一は藍や桑、蚕で財を成した。一橋家の家臣から徳川慶喜の幕臣になった後、明治新政府の大蔵省役人を経て実業家に転出。富岡製糸場、煉瓦製造、財閥系を排除した第一国立銀行(勧銀)、東京証券取引所など500社も設立。水力発電を組み合わせた京阪電鉄の設立にも参画している。
熊谷宿(8)
 熊谷市。本陣2、脇本陣1。ヒートアイランドで知られる。熊谷寺の門前町。駅前に熊谷次郎直実の銅像がある。源平の一之谷の決戦で幼い平敦盛を討ったことの無情を儚み出家、法然に師事。草庵跡に浄土宗の寺を開基した。
 大きな宿場であったが、終戦直前12時間前に激しい空襲で大半が焼けたため宿場の痕跡はない。駅ビル前の4車線国道、これが旧街道とはとても思えない。その歩道に本陣跡碑と説明板が立つ。ここにあった竹本家本陣は敷地1600坪、建坪700坪もあって、日本最大の本陣と記されている。その先、百貨店の中を中山道が通る。旧街道を遮るかたちで百貨店が建ったため、百貨店の売り場内を旧中山道が横切る驚きの場所。
鴻巣宿(7)
 鴻巣市。本陣1、脇本陣1。鴻の鳥が地名の由来。奈良、平安時代に遡る雛人形は貴族から武家、庶民にも広がり、京から人形職人を呼び雛人形の一大産地になった。本陣、脇本陣跡とも駅前の大がかりな開発で宿場らしき面影はなく、新町宿に続いてここも立ち寄らず通過。
桶川宿6)
 桶川市。本陣1、脇本陣2。紅花街道と呼ばれる程、藍と藍染の生産が盛んであった。桶川駅前交差点から少し北上した旧街道筋に宿場の中心があった。府川家本陣跡に冠門が再建、奥に基構が残るが非公開。
 注目は穀物や紅花問屋であった矢部家の店蔵。黒漆喰壁、観音開きの二階窓、重圧感のある棟瓦。蔵造りで知られる川越職人を招いて建てられた。土蔵の鬼瓦に金属針を刺した鳥おどしは、倉賀野の鬼瓦でも見られた。向かいの旧旅籠、小林材木店は二階の千本格子の美しさが際立つ。
上尾宿(5)
 上尾市。本陣1、脇本陣3。JR高崎線上尾駅東口に宿場の中心があった。江戸を出発て上尾から桶川にかけて1日目の宿になる。
 安政から明治にかけて何度もの大火や開発で宿場跡の痕跡はなく、神社の前に本陣跡碑が立つ。その両側に脇本陣があったとされるが何もない。近年になって上尾見附に平成の道標が設置された。その瓦屋根の上に鍾馗像(ショウキ)がのる。この付近の店舗や民家の屋根で時々見られる。中国の魔除け、厄除け神。上尾では火災からの守り神のようである。
大宮宿(4)
 埼玉県大宮区。本陣1、脇本陣9。埼玉県では浦和と並ぶ大都市。新幹線駅、JR東北線、埼京線、高崎線が集まる関東有数の巨大ターミナルの東口に宿場があった。高島屋の角に本陣跡の説明板が立つ。中山道で最大9か所も脇本陣があったが、開発の波に飲まれその痕跡は全くない。
 武蔵一の宮、氷川神社の門前町の性格の方が色濃く、地名の由来になっている。関西では全く聞かないが関東地方400余社の総本宮。紅葉したケヤキ並木道が2キロ程続く。宿泊した駅前ホテルからそんなに遠くないので行ってみた。社伝によると出雲族が移住して当地に祀ったとされる。大宮駅に引き返して、蔵造りの街小江戸と呼ばれる川越に寄り道。

浦和宿(3)
 埼玉県浦和区。本陣1、脇本陣3。埼玉の県庁所在地。駅前西口にある旧街道は車の往来が激しく、宿場跡はビルが建ち並ぶ繁華街のど真ん中。
 宿場の南北の入口に宿場石碑が立ち、歩道には宿場タイルが数m間隔で埋め込まれている。仲町の少し奥まった小公園に星野家本陣跡碑、明治天皇行在所碑や説明板が立つ。それによると、本陣が解体時、表門だけが東浦和の大熊家に移設保存された。それ以外は、宿場の面影は全く無く、こじんまりした商家らしき古い建物が数軒点在する程度。昔は池が多く鰻の産地、今も江戸時代から続く鰻店がある。6千円を越えるから尻込み。

◆蕨宿(2)
 蕨市。本陣2、脇本陣1。綿織物、武州藍染の産地。旧街道は蕨駅から1キロ程離れる。大通りから外れるため車の通行は少ない。車道はカラー舗装され、歩道に中山道69次の浮世絵カラータイルがはめ込まれている。
 岡田家本陣跡に跡碑、隣接する歴史民族資料館で当時の様子や蕨の歴史などを知ることができる。道筋には千本格子の古い民家が残り、ふれあい広場などを設けて旧宿場の保存意欲が高い。南下して荒川の戸田橋を越えると東京都。当時は江戸防衛のため橋は架けられず渡し船であった。ここで日没、蕨にホテルがなく次の板橋で3泊目となる。

板橋宿(1)
 東京都板橋区。本陣1、脇本陣2。荒川を越えると埼玉県から東京23区最北端の板橋。江戸四宿の一つ(東海道.品川宿、甲州街道.新宿宿、日光街道.千住宿)で、江戸人の遊び場として飯盛女が多く賑わった。
 板橋宿は本町仲宿平尾と1キロ以上続く。本町の石神井川に架かる板橋が地名の由来。人通りが絶えない雑然とした商店街で、スーパー付近にある本陣跡碑を見落とした。仲宿では煉瓦卯建造りの米穀店が残る。高架道路を過ぎた平尾商店街に脇本陣があった。新選組の近藤勇が捕まりここで幽霊された後、板橋処刑場で斬首。板橋駅前に銅像と墓が立つ。
江戸日本橋
 日本橋は商人が集まった下町。日本橋川に魚河岸、米河岸などができ、橋の周辺に幕府役所や三井越後屋呉服店、両替商などが立ち並んだ。これらが後に三越本店三井本館日銀、証券取引所となる。魚河岸は関東大震災後、築地に移転、豊洲に再移転した。
 山手線神田駅から中央通の旧街道を南下。高層ビル街の中心部、日本橋のランドマークになっている三井タワ-に東レ本社がある。隣の越後屋跡が旧三井財閥本拠地の三井本館。エンタシス柱が並ぶ文化財建築。並びの三越本店も大正期の風情を残す。
 三越の向かいが日本橋。国道元標、親橋の獅子像、翼を持つ麒麟像などがある。日本橋上空の首都高速、これを地下化して日本橋エリアを明るい水辺の街にする再開発が始まったばかり。
 すっかり様変わりした道筋を東京駅まで歩き、午後は一週間前に開業したばかり、日本一高いビルになった麻布台ヒルズ(330m)に寄り道してこの旅を終える。


 これまで主に畿内中心の歴史街道巡りであったが、畿内から大きく飛び出した。8月から5か月かけて5回16日間もかけて巡った旧中山道。不便なアクセスやきつい山岳路、交通機関の遅れなどで断念した宿場ができたが、近江商人の豪邸や虫籠窓、紅殻塗りの町屋。出梁・出桁造り、本棟造りの雀おどりや美しい千本格子、木曽と信州の木の文化に触れた。上州に入ると養蚕家屋の上州造り、重厚な棟飾りや蔵造り。武州では煉瓦造りなど、各地の風土文化や建物など、興味が尽きない歴史街道であった。
 欲張って岐阜、大垣、犬山、上田城や北国街道海野宿、浅間山、小江戸川越などの名所、観光地も訪れた。乗物を基本とした乗り継ぎであるが、それでも1日の蓄積歩行距離が17キロに達したこともあった。




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