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2009年に高麗橋から京街道を京三条まで、2016年には三条から草津宿まで延ばてして約85キロを歩いてから長らく中断していた。もう江戸日本橋まで歩く体力はない。昨年は乗り物などを乗り継ぐ方式にして、先に旧中山道の宿場を江戸まで巡った。今回は旧東海道。皇居の桜の開花の合わせてスタートする予定であったが、タイミングが合わず5月になってしまった。これまで訪れている宿場は省略、品川宿から近江石部宿まで何回かに分ける。 |

天下統一を果たした徳川家康は五街道を設け、書面や荷物を運ぶ人馬を常備する本格的な宿駅伝馬制度を定める。三代将軍家光の頃に参勤交代を制度化すると、宿場に本陣、脇本陣を設け往来が一層活発化する。
しかし、本陣や脇本陣の使用対価の定めはない。一般客は原則使用できないため、体力のない陣屋は苦境に陥った。問屋場は人足100人、馬100匹の常備義務を負わされた。参勤交代では炊き出し、荷物運び、道路補修などで藩の財政を圧迫、駆り出される町人の負担も大きかった。
幕府が崩壊、1870年(M3)の本陣制度廃止に続いて宿駅が無くなり、鉄道の開通で宿場は急速に寂れる。その後、災害や空襲、開発などで面影を残すところは少なくなったが、往時の歴史に思いをはせながら巡る。
■品川宿(1) <2024.5.16>
東京都品川区。本陣1、脇本陣2。大阪始発の新幹線で出発。通勤ラッシュの高輪ゲートウェイで下車。忠臣蔵ゆかりの泉岳寺からスタート。
品川駅前を少し過ぎた品川商店街が旧街道。その中でも北品川は日本橋人形町の吉原と並ぶ遊行地として賑わった。旧街道には各地の宿場から贈られた松が植わる。目黒川の品川橋は塗り壁の欄干に灯篭飾りの橋柱。本陣跡交流館、品海公園に石碑や説明板が立つが、首都圏はどこも空襲、関東大震災や都市開発などで宿場の面影は殆ど残っていない。1954年(S29)の映画、ゴジラは東京湾に侵入、品川の八ツ山橋に上陸絵図がある。
■川崎宿(2)
神奈川県川崎市。本陣2、脇本陣なし。東京都の最南端、大田区の京浜急行(京急)六郷土手で下車。多摩川の六郷橋を渡ると神奈川県川崎市。江戸側の見付に川崎大師の参道碑や六郷渡し碑などが立つ。宿場制度で圧迫された財政を六郷渡しの運営益で補ったとされる。
見付は宿場の入口。木戸や棒鼻とも呼ばれる。桝形クランクや土塁を築いて監視番人を置いたり、幕府や公家の要人を出迎えた場所。
京急神奈川駅前を過ぎた付近に、佐藤本陣と田中本陣の跡碑がある。詩人の佐藤惣之助、本陣佐藤家の出身であることを川崎宿交流館で知る。
■神奈川宿(3)
横浜市神奈川区。本陣2、脇本陣なし。宿場は京急神奈川新町から横浜駅北の台町まで2.5キロ程あった。海を眺める景勝地に旅籠や茶屋が立ち並び、滝の川付近に本陣があったが、その痕跡は残らず、震災や空襲を受けた後、戦後の再開発で旧街道の道筋がわかり難くなっている。付近の道路脇や公園に本陣跡碑や高札場跡碑が立つ。
台町の旧街道にあった旅籠さくら屋、その跡に創業した割烹田中家に坂本龍馬の妻おりょうが働いていた。英語ができ外人接待に重宝されたと伝わる。明治以後、海岸の埋め立てが進んで今の横浜港に発展した。
■保土ヶ谷宿(4)
横浜市保土ヶ谷区。本陣1、脇本陣3。横浜から相模鉄道で2駅、天王町駅前の帷子(カタビラ)橋跡から歩く。武蔵の国を過ぎて、ここから相模の国になる。江戸時代初期の古街道を行くと、横浜ビジネスパークが現れる。勤めている時に何度か訪れているが、当時は旧街道の認識はなかった。
2キロ程で東海道に合流、保土ヶ谷駅前を過ぎてJR線を越えると軽部本陣跡の表門と蔵、その先に明治初期に建て替えられた脇本陣で旧旅籠の本金子屋が残る他、問屋場跡、高札場跡、歴史館などがある。保土ヶ谷は窪地、登りの権太坂は箱根大学駅伝復路の難所として知られる。
■戸塚宿(5)
横浜市戸塚区。本陣2、脇本陣3。江戸を出発して40キロ、最初に泊まる宿場。時速4キロで10時間。健脚組は次の藤沢宿まで50キロ、12時間以上歩いた。駅前を中心に2キロ程の中に宿場があったが、相模湾を震源とする関東大震災や空襲で多くが失われた。東海道線の列車トラブルで大幅に遅れたためパス。
■藤沢宿(6)
神奈川県藤沢市。本陣1、脇本陣1。数年前に鎌倉、湘南海岸を訪れた時に来ているが、宿泊するだけになっていた。東海道の他に鎌倉道、八王子道、厚木道の起点。江の島詣の参道としても賑わった。今は小田急江ノ島線や、外国人観光客に人気の江ノ電が鎌倉まで走る。
旧街道は藤沢駅から離れているため往復3キロ程歩くことになる。震災や空襲を受けて大半が焼失したため藤沢交流館で当時の様子を知る。戦後になって蒔田本陣の蔵、塗壁造りの桔梗屋の店蔵、稲元屋呉服店などが再建。旧街道の表示や説明板などよく整備されている。
■平塚宿(7)
神奈川県平塚市。本陣1、脇本陣1。軍事火薬工場があったため空襲で焦土化、跡碑だけ。東の見付、相模川の馬入橋で源頼朝が落馬、これが翌月の死に繋がったとの説がある。ここも時間が無く通過。
■大磯宿(8)
神奈川県大磯町。本陣3、脇本陣6。律令制時に相模国府があった。源頼朝が鎌倉幕府を開き京への上洛道として発展。徳川幕府は日よけ、風よけのため松を植えて街道を整備した。宿場の面影を残すのは松並木だけ。本陣跡、問屋場跡には説明板が立つ。
海辺の温暖な景勝地のため、明治の元勲や財閥家、文化人の別邸、別荘が多くあった。明治記念大磯庭園には伊藤博文、大隈重信、山県有朋などの別邸が残されている。大磯海岸は海水浴の発祥地。明治時代に海軍が国民の体力向上のため、海水浴を進めたことから始まったと聞く。
■小田原宿(9)
神奈川県小田原市。本陣4、脇本陣4。江戸を出発して約80キロ。東海道で最大の難所、箱根峠を控え2泊目の宿として賑わった。東海道では江戸から発して最初の城が小田原城。戦国時代は北条氏の居城。自給自足ができるように町全体を城内に取り込んだため難攻不落と言われた。
宿場は地震や空襲で焼け、本陣跡の公園に跡碑や明治天皇行在所跡碑が立つ。かまぼこ通りには小田原名産の蒲鉾店が並ぶ。小田原提灯は昼も薄暗かった箱根越えの旅人用に造られた。この日の積算歩行距離は20キロを越えて疲れた。駅前のビジネスホテルで泊る。
■箱根宿(10) <5.17>
神奈川県箱根町。本陣6、脇本陣なし。箱根8里、小田原宿から三島宿まで32キロと長く険しいため、幕府は一大事業として箱根に宿場を設けた。箱根権現に近い元箱根を避け、何もなかった今の箱根港町に、三島と小田原の住民各50戸600人に、税を免除する優遇措置を与えて移住させ宿場町とした。
6軒もの本陣があったが、川田本陣跡は箱根ホテル、天野本陣跡は畔屋茶屋本陣店、駒佐本陣跡は雲助団子店などに変わり宿場らしき雰囲気や跡碑などはなく、関所跡を復元した関所資料館が中心。
芦ノ湖
箱根を訪れるのは半世紀ぶりになる。小田原からバスで早雲山、ロープウェーで大涌谷、芦ノ湖海賊船で箱根港町。関所資料館を見物して杉並木、元箱根、旧街道石畳から箱根湯本まで下る予定であったが、バスが混雑して大幅遅延。ロープウェーと芦ノ湖海賊船乗り場では海外や修学旅行団体の大行列。予定していた時間通りに進まず箱根旧街道の途中までしか進めなかった。
■三島宿(11)
静岡県三島市。本陣2、脇本陣3。元箱根からバス、三島スカイウォークで途中下車。2015年に建設された日本一400mの人道吊り橋。吊り橋から富士山を眺望して、再びバスで三島に下る。
三島宿は駅から1キロ程南の広小路と伊豆の一宮、三嶋大社との間に宿場の中心があった。この付近は伊豆国府があった場所。戦災を受けなかったが火災で殆ど失った。残った樋本家本陣門は近くの長園寺の山門、住居は芝岡神社に移設されて残るが資料館さえない。周辺各所で富士山の伏水が湧き、水辺公園や遊歩道が整備されている。
■沼津宿(12)
静岡県沼津市。本陣3、脇本陣1。三島から沼津行バスで東海道29番目の一里塚を見物。江戸日本橋から1里(3.93キロ)毎に目印となる榎や松を植えた土盛りを造って旅人の道標とした。沼津から大井川左岸の島田までが駿河の国となる。沼津は徳川譜代大名の小規模な城下町にあった宿場。
戦前に海軍工廠ができたため空襲で沼津の90%が焦土化。本陣、脇本陣、問屋場跡や城跡に碑が立つだけ。
富士山を望む風光明媚な駿河湾千本松原海岸。海と松の香りをいっぱい吸収、いつの間にか4キロも歩いて、途中からバスで原に向かう。
■原宿(13)
静岡県沼津市。本陣1、脇本陣1。原宿は今回始めて知った。東海道で最も小さい宿場。海鼠壁の小さなJR駅舎からスタート。
海に近い場所にあったが、高潮被害で移転、火災などで宿場跡は留めていないが、本陣を務めた渡邊家は源頼朝の弟で、阿野全成(アノゼンジョウ)を祖とする家系。原宿の問屋、年寄、名主などを勤めた。南北朝時代の後村上天皇の母、阿野廉子(レンシ)はその末裔になる。駿河湾一帯の海岸は田子の浦と呼ばれる景勝地。山部赤人の有名な和歌「田子の浦に うちいでて見れば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ」は小倉百人一首にある。
■吉原宿(14)
静岡県富士市。本陣2、脇本陣3。海岸近くにあった宿場は高潮被害で内陸部に移転したが、そこも高潮を受けて現在の吉原本町に再移転した。
そのため、旧東海道は海沿いから内陸部に大きく曲がっている。江戸から来た時、これまで絶えず右側に見えていた富士山が唯一左富士になる風景が歌川広重の絵に描かれている。吉原から吉原本町まで岳南鉄道で10分程。往時から続く創業300年の鯛屋旅館は、うどん店を併設して営業している。勝海舟、山岡鉄舟、清水次郎長などが定宿としていたと伝わる。この日は吉原中央のホテルに泊まる。窓から富士山が望める。
■蒲原宿(15) <5.18>
静岡市清水区。本陣2、脇本陣2。翌朝、吉原中央からバスで富士山麓の大淵笹場茶園に寄り道。緑の茶畑と富士山の景色が美しい。
期待の蒲原(カンバラ)宿。東海道の宿場は震災や空襲などで多くが失われたが、蒲原は被災を免れた。本陣を勤めた平岡家の重厚な大邸宅、再建され住まれている。中山道木曽や信濃で見られた出梁造り千本面格子の志田邸は歴史館として復元保存。旧旅籠の和泉屋は安政の地震にも耐えて、お休み処として営業している。明治に再建された白黒海鼠壁の佐藤邸。大正初期の洋風造りの五十嵐医院もひときわ目をひく。
■由比宿(16) ■興津宿(17)
2017年2月、興津宿から由比宿を歩いて「薩埵峠」として記録に残している。由比宿は本陣跡公園に問屋場屋敷や記念館、歌川広重美術館が建つ。由比宿と興津宿間は狭い波打ち際のため通行止めになることが多く、山側に迂回ルートが設けられた。これが薩埵峠と呼ばれる急峻な断崖絶壁の道、歌川広重は由比の薩埵嶺として描き「東海道第一の景色なるべし」と記している。興津宿は明治の大火で焼けて本陣跡碑しかない。
■江尻/清水宿(18)
清水も2019年に訪れ旅の記録に残している。江尻湊から江戸への物資運搬や漁港の宿場町として栄えた。空襲や艦砲射撃で焼失、本陣跡碑などが立つだけ。清水次郎長の生家が再建。江尻港や三保の松原からの富士山の景色は、新日本三景に数えられるほどの絶景。
薩埵峠(2017.2)
■府中/静岡宿(19)
静岡市葵区。本陣2、脇本陣2。今川氏の本拠地。徳川家康が幼少時に人質として暮らした。今川、武田氏が滅んだ後、家康は岡崎、浜松と移り府中駿府城を居城にする。関ケ原で勝利、駿府で徳川の基盤を築いた後、江戸で幕府を開いた。その2年後、将軍職を秀忠に譲って駿府に戻り、5層7階の天守に大規模拡張した。
家康の亡き後、焼失と再建を繰り返し、明治時代に取り壊された。近年の発掘調査で、これまで最大とされてきた江戸城より大きい天守台の基礎(63m)が見つかっている。
東海道では大津宿に次ぐ人口。静岡大空襲で焼失。本陣、脇本陣、問屋場跡の他に山岡鉄舟と西郷隆盛の交渉場所跡碑などが立つ。巽櫓の堀端に弥次喜多像がある。府中出身の十返舎一九作「東海道中膝栗毛」は、江戸で暮らす弥次郎兵衛(府中出身)と、居候の喜多八(江尻出身)が、自分の膝(足)を馬がわりに歩く旅物語。
初回は品川宿から府中宿までとして一旦帰阪。交通機関の遅延や予想外の混雑で計画通りに進まず、立ち寄れなかった宿場があったが、懐かしい箱根や富士山が望める景勝地なども訪れた。
この時に痛めた足の爪や豆が治った1か月後、梅雨入り前の蒸し暑い季節になってしまったが、静岡の丸子宿から再開。
■丸子宿(20) <6.11>
静岡市駿河区。日本橋から181キロ、府中宿からは6キロ。本陣1、脇本陣2。静岡から西は急峻な日本坂と駿河湾の大崩海岸が迫るため、鉄道や高速道路は日本坂トンネルになるが、旧東海道と国道1号は内陸山岳部を迂回する。この日、最初の丸子(マリコ)は静岡から国道バスになる。
今川氏や武田氏の山城があった。静かで落ち着きのある山間の小さな宿場。家々の玄関先に昔の屋合看板を掲げている。歌川広重の浮世絵に描かれた丸子名物の麦とろろ汁店、茅葺屋根の丁子屋(チョウジヤ)は江戸時代から続く。まだ準備中のため食べられなかった。
■岡部宿(21)
静岡県藤枝市。本陣2、脇本陣2。丸子から岡部まで難所の宇津ノ谷峠越えのため、やはりバスになる。明治時代になって東海道線が計画された時、当初は岡部を通る予定であったが、遠回りで厳しい峠越えになるため断念、日本坂トンネルになった。
宿場は江戸方見付から上方見付まで1キロ程。有形文化財で江戸時代後期に建てられた大旅籠柏屋が再整備され資料館を兼ねる。隣の内野本陣跡と一体化した宿場広場になっている。南アルプスの豊富な伏水を利用した初亀酒造は江戸時代初期の創業。静岡最古の造り酒屋。
■藤枝宿(22)
静岡県藤枝市。本陣2、脇本陣なし。再びバスで藤枝に向かう。駿府の西の守り、田中城の城下町。本多、堀田、酒井など徳川譜代大名が城主を務めた。東海道線ができて藤枝駅が造られた時、内陸部にあった藤沢宿は3キロ程離れた。そのため、宿場跡は急速に寂れジャッター通りになってしまった。本陣跡や問屋場跡が敷きタイルで表示されているだけ。
田中城跡の再生城門、大慶寺の久遠の松(三保松原、沼津千本松原と並ぶ三大松)しか見るべきものはない。徳川家康は田中城で鯛の唐揚げを食べて、それが原因で死んだとも伝わる。
■島田宿(23)
静岡県島田市。本陣3、脇本陣1。駿河と遠江を分ける大井川。リニア新幹線のトンネル漏水で大井川の水量減が問題になっている。
大井川に橋は架けられず「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われた。人足による川越制度のため、増水で川留めになる難所。番所や川越休憩所、旅籠などが建ち並んだ当時の川越遺跡が再現されている。明治になって川越制度が廃止後、始めて架けられたのが蓬莱橋、木橋としては世界最長(897m)。バス便がなく駅から川越遺跡を経由して蓬莱橋まで暑い中、9キロを歩くことになった。この日は島田泊まり。
■金谷宿(24) <6.12>
静岡県島田市。本陣3、脇本陣1。島田から大井川を越えて1駅。遠江(トオトウミ)に入る。東の大井川の川越え、西の山中峠越えを控えて栄えた宿場。駅から2キロ程の道筋に本陣、脇本陣跡などが残る。その先、大井川の水神公園が川越跡。川越の絵図と説明板などが立つ。
金谷から西のJR線は直ぐにトンネルになる。トンネルの上方が中山峠に通じる金谷坂石畳道の入口。金谷坂はゴツゴツした大きな石が敷かれ、ものすごく歩き難い。引き返して大井川を展望できる景色のよい丘陵地、牧之原茶園まで足を延ばしたが坂道の6キロに苦戦。
■日坂宿(25)
静岡県島田市。本陣1、脇本陣1。小夜(サヨ)の中山峠と呼ばれ、夜泣き石や山賊の伝説が残る難所。箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道三大峠と言われた。金谷坂石畳から7キロの峠越えを諦め、東海道線で掛川に向かいバスにする。峠を越えた坂道にある小さな静かな集落。
大火で焼けた後、復元された扇屋本陣門の他、旧旅籠の池田屋は割烹料亭として再建営業。明治初期再建の川坂屋、萬屋、藤文など出梁造り千本格子の趣のある建物が見られる。建て替わった新しい家でも、玄関先に昔の大きな屋号看板を掲げている。
■掛川宿(26)
静岡県掛川市。本陣2、脇本陣なし。掛川城の城下町、豊臣時代に山内一豊が本格的な城構えにした掛川城を中心に掛川の七曲りと言われる桝形が残る。山内一豊は関ケ原の戦いの功績で土佐藩主として入封。高知城は掛川城を模して建てられた。掛川城は徳川譜代大名に受け継がれたが、東海地震で崩落。近年、木造3層4階の天守が復元された。
宿場の面影はなく本陣跡、高札場跡などの表示もない。旧東海道筋にある清水銀行掛川支店は銀行とは思えないほど趣がある和風2階建。この他に白壁や海鼠壁を模した建物が所々に見られる程度。
■袋井宿(27)
静岡県袋井市。本陣3、脇本陣なし。日本橋から232キロ、東海道のほぼ真ん中の宿場。空襲で焼け昔の面影はないが、歌川広重の東海道五十三次袋井出茶の図をモチーフした東海道どまん中茶屋が営業。袋井駅から1キロ程先、旧街道筋にある本陣跡公園に記念碑や説明板が、東の木戸跡に高札場などが立つ。宿場の入口は木戸、見付、棒鼻などと呼ばれた。
東海一の霊場、秋葉山本宮秋葉神社参道の入口にあたる。秋葉大権現と呼ばれ火防(ヒブセ)神として江戸時代は秋葉講が盛んであった。遠州地方は秋葉の常夜灯が多く点在する。
■見付宿(28)
静岡県磐田市。本陣2、脇本陣1。駅前に植わる樹齢700年の見事な大楠を見上げてバスに乗る。途中に遠江国分寺跡がある。平城京に近い近江の琵琶湖に対して、遠い遠州浜名湖を指して遠江(トオトウミ)と呼ばれる。
見付は宿場の入口の見張り所や、富士山が見えた場所が語源。桝形や土塁を設けて宿場を防備した。木戸、棒鼻とも言われた。バスで15分程ある。宿場の面影はなく、旧旅籠大三河屋の脇本陣門が残る程度。明治初期の見付小学校は現存する最古の木造4階洋風校舎。西の木戸が姫街道の追分、女性達は女改めのある新居関所を避けて浜名湖北方を迂回した。
■浜松宿(29)
浜松市中区。本陣6、脇本陣なし。岡崎城で出生した徳川家康。今川氏の人質から解放されると、曳馬城を拡張改修して浜松城と改め本拠地とする。天下統一後、駿府から江戸に移り幕府を開いた。浜松は譜代大名の城下町として、東海道最大6本陣(箱根と同数)を有した。
大正から昭和期にかけて工業都市化、軍事工場(三菱重工業、中島飛行機、スズキ)があったため空襲で焦土化。浜松城も焼けたが3層4階の鉄筋天守が再建された。駅から2キロ程の城下、宿場跡付近は浜松城公園や官庁街になって昔の面影はなく本陣、脇本陣跡碑だけ。駅前で泊まる。
■舞阪宿(30) <6.13>
浜松市西区。本陣2、脇本陣1。浜松から舞阪まで1駅。朝から暑いが、松の香りと潮風が心地よい木漏れ日の松並木を歩く。松並木が途切れると出梁造り、千本面格子の古い家並みが点在する。その中程に江戸時代後期の脇本陣茗荷屋の建物が復元され資料館として見学できる。
程なく浜名湖と太平洋が接する今切湊。昔は橋がなく、次の新居との間は渡し船。雁木と呼ばれる石組階段の船着き場と常夜灯が残る。現在の地形は明応や宝永地震などで舞阪の西端が陥没、弁天島が出現した。海と浜名湖を望む風光明媚な観光地となっている。
■新居宿(31)
静岡県湖西市。本陣3、脇本陣なし。舞阪から弁天島まで歩きJRで新居に向かう。今切湊から1里の渡しは、浜名湖西岸の新居関所の横に着くようになっていた。関所資料館の石垣堀が船着き場として残る。
関ケ原の戦の後に関所が置かれたが、地震や津波、火災で何度か移転している。本陣は飯田家本陣跡だけが残ったが、建て替わって居住されている。紀州藩が利用した卯建造りの旧旅籠、紀国屋は焼失後、再建され資料館になっている。芸者置き場の小松楼は有形文化財、まちずくり交流館として開放ている他、古い蔵などが所々で見られる。
■白須賀宿(32)
静岡県湖西市。本陣1、脇本陣1。海沿いの白い砂洲地にあったのが地名の由来。しかし、地震や津波で内陸部の現在地に移転した。本陣は跡碑しかないが、千本格子や間口の狭い家が所々で見られる。
少し先の潮見坂、西国から来た旅人は坂の上から始めて太平洋や、天気がよい時は富士山が望めた。この日は晴れていたが見えなかった。
最寄りの新所原駅から5キロ以上ある。湖西市の地域バスを利用したが、往路はバスがなく暑い中を歩くしかない。おんやど白須賀で休息を兼ねて地元の歴史文化に触れ、1時間以上かけて新所原に戻る。
■二川宿(33)
愛知県豊橋市。本陣1、脇本陣1。新所原駅から1駅、二川(フタガワ)で下車。静岡県内の伊豆、駿河、遠江の22宿を巡り、愛知県三河の国に入って最初の宿場が二川。幾度も火災に遭っているが、再建された立派な馬場家本陣跡が残り本陣資料館として見学できる。東海道で昔の面影を残す本陣跡は、この二川と草津しかない大変貴重な遺構である。
隣りは清明屋の屋号を持つ旧旅籠、やはり江戸時代から続く駒屋ともに有形文化財に指定、今も醤油や味噌を製造販売している。開発が著しい東海道で比較的古い建物が多く残っているのに驚く。
■吉田/豊橋宿(34)
愛知県豊橋市。本陣2、脇本陣1。三河吉田藩は徳川譜代大名の城下町。S字蛇行する豊川を背後地に吉田城が建つ。明治政府は吉田の地名が多いため豊川に架かる橋から豊橋と改めた。
七曲りのある大きな宿場であった。空襲で焼け野が原になって昔の面影はないが、城下の東西に総門が復元された。
札木町の丸与本陣跡はうなぎ店。うなぎに抱きつくユーモラスな絵が描かれている。付近は旅籠が建ち並び、品川と共に客引きや飯盛女が多い宿場と言われた。この日もよく歩いて豊橋で泊まる。
■御油宿(35) <6.14>
愛知県豊川市。本陣2、脇本陣なし。豊橋からの旧東海道はJR線から少し離れ、三河高原を走る名鉄線沿いになる。朝6時過ぎ、豊橋駅前のホテルを出発。御油の1駅手前、国府は三河国分寺があった場所。
御油宿は次の赤坂宿の規模が大きかったため、補完宿場として設けられた。道幅の狭い旧街道には味噌、醬油店も営んだ旧旅籠大津屋の海鼠塗蔵や千本格子の古い家が見られるが、本陣は跡碑しか残っていない。
天然記念物の御油の松並木は600m程に約300本が植わる。通勤時間帯と重なり、車が途切れることなく通り過ぎるため風情は台無し。
■赤坂宿(36)
愛知県豊川市。本陣3、脇本陣1。三河の天領地を支配した代官所や陣屋が置かれ、旅籠も80軒と多いため御油宿と分散させた。そのため東海道では宿場間の距離が2キロと最も短い。京に向かう時は御油宿、江戸に向かう時は赤坂宿を利用と定めた時もあった。
本陣跡や問屋場跡、陣屋跡などに宿場の街並みを記したモニュメントや資料館を設置して休憩所としている。江戸時代から続いた旧旅籠大橋屋は近年になって廃業したが、建物は資料館として残る。行灯型の看板を掲げる商家、尾崎屋の古い建物も保存されている。
■藤川宿(37)
愛知県岡崎市。本陣1、脇本陣1。名鉄赤坂から4駅。宿場の入口に棒鼻跡がある。棒が立ち、ここで宿場役人や年寄りらが幕府や公家の使者などを出迎えた。大名行列では隊列などを整えた場所。
昔の狭い道筋に米屋(歴史的建造物)、銭屋、鶴屋などの屋号を掲げた低い二階、千枚格子の古い家が点在する。脇本陣門の奥に再建された資料館で、当時の様子を知ることができる。隣の本陣跡に高札場を移転復元。本陣跡の裏手に高さ3mを越す2段構えの野積みの石垣が残る。本陣跡でこのような城構えのような石垣を初めて見る。
■岡崎宿(38)
愛知県岡崎市。本陣3、脇本陣3。徳川の祖、岡崎松平家の本拠地。徳川家康誕生地の城下町。駿府で人質から解放された後、岡崎にもどり浜松、駿府、江戸と移っている。東海道で3番目の規模であった岡崎城は明治の廃城令で解体。昭和後期に3層3階の天守が再建された。
空襲で宿場跡は残らず、本陣跡碑などが立つだけであるが、岡崎城下の二十七曲りは東海道最大、3キロにも及ぶ。ここを全て歩くため岡崎の手前の名鉄男川で降り、二十七曲り、岡崎城、江戸時代創業まる屋八丁味噌の蔵通りなど、岡崎公園駅まで約7キロを歩いた。
■知立宿(39)
愛知県知立市。本陣1、脇本陣2。乗り慣れない名鉄、特急や急行の乗り継ぎに戸惑いながら知立に向かう。知立松並木を歩くため1駅手前の牛田で降りる。知立まで3キロ弱の道のり中、500m程続く松並木がある。伊勢湾台風で被害を受けたが徐々に復活、170本程が植わる。
名鉄知立は大規模な高架工事中、駅前北側に旧街道が通るが宿場の面影はなく本陣、問屋場跡碑などが立つだけ。観光交流センターで往時の様子知る。江戸時代は池鯉鮒(チリフ)を仮名としたそうで、知立神社の池に鯉や鮒が多くいたことがその由来とされる。
■鳴海/有松宿(40)
名古屋市緑区。本陣1、脇本陣2。鳴海宿は熱田(宮)宿、岡崎宿に次ぎ規模が大きいため、知立と鳴海の間宿として有松宿が設けられた。
鳴海宿は高札場を復元。江戸側の見付付近に古い街並みを少し残す程度。有松宿は綿花の産地を生かして、宿場の副業として有松絞が盛んであった。江戸時代の大火や地震後、道路幅や家々の間口を広げ、塗籠壁、海鼠壁とし、虫籠窓や梁、柱にも土壁や漆喰を施した重厚な卯建造り、蔵造りに建て替え、火災や天災に強い建物にした。近年、電線の地下化など、江戸情緒を思わせる伝統的建物保存地区に訪れる人も多い。
■熱田/宮宿(41)
名古屋市熱田区。本陣2、脇本陣1。名古屋都市部に近くなる。名鉄神宮前で降り、ここから熱田宿まで2キロ程。旅籠数254軒は東海道最大。航空機の軍事工場があったため空襲で殆ど焼け、脇本陣格の丹羽家が唯一残って有形文化財となっている。その先、堀川の河口にあるのが宮の渡し跡。常夜灯、時の鐘を復元した公園として整備されている。桑名宿まで7里あったため七里の渡しとも言われる。
熱田神宮の門前町で宮宿とも呼ばれた。景行天皇の時代、東征から帰った日本武尊が妻の宮酢媛に預けた神剣草薙剣(三種の神器)を祀って神体とした。空襲で延焼、伊勢神宮年式遷宮の古材で再建された。近くに日本武尊陵と伝わる白鳥陵がある。同じ熱田区内の誓願寺は源頼朝の誕生地、母は熱田神宮宮司の藤原氏の娘。
八丁蔵通り
東海道は震災や激しい空襲を受た。その後、急速に開発が進んだが、丸子、岡部、日坂、二川宿では数少なくなった昔の建物や街並みがよく保存、復元。藤川宿では城構えのような本陣石垣が保存されていた。有松宿では伝統的建造物群保存地区の豪華な塗籠造りも見ごたえがあった。島田、金谷や舞阪、御油、知立の松並木、吉田七曲り、岡崎二十七曲りなど5日間よく歩いた。これで東海道宿場の約2/3を通過。実歩行距離は130キロ程になる。暑い日が続き汗びっしょり真っ黒に日焼け。
真夏期を避けたため近江石部宿までの10宿120キロ程を残していた。5か月後、少し秋らしくなって伊勢の国の入口となる桑名宿から再開。
■桑名宿(42) <11.5>
三重県桑名市。本陣2、脇本陣4。関西線桑名駅からスタート。昔は熱田宮の渡しから桑名湊まで7里の伊勢湾を4時間で横断する船旅であった。宮、桑名ともに「七里の渡し」と呼ばれている。陸路の25キロより早いが、海が荒れると宿賃が負担になった。
桑名駅から渡し場、城跡、七曲がりなど4キロ程を巡る。桑名湊には伊勢神宮の一の鳥居と常夜灯が立つだけで湊の面影はない。渡し場周辺にあった宿場は、空襲や伊勢湾台風で多くを失った。塚本本陣跡や隣の駿河屋脇本陣跡が再建され料亭として営業している程度。
■四日市宿(43)
三重県四日市市。本陣2、脇本陣1。関西線で四日市に向かう。関西線と近鉄線の間に宿場があったが、四日市大空襲で焼失。そのためか東海道で最も冷淡な旧宿場と言われるほど何もない。
江戸時代から続く井筒屋餅店の店蔵が再建されが、その先あたりにあったとされる本陣、桑名藩代官所、陣屋跡など表示さえなく、「すぐ江戸道、京いせ道」の複製石碑が立つだけ。1号線を越えると狭いアーケード街の旧東海道が300m程続き、近鉄線を少し過ぎた市街地あたりから少し古そうな民家を所々で見かけるだけ。
■石薬師宿(44)
三重県鈴鹿市。本陣3、脇本陣なし。四日市宿から11キロと距離があり、関西線や近鉄線からも離れる。四日市駅前から三重交通バスに乗る。
伊勢国分寺があった場所。宿場地名になっている石薬師寺は弘法大師空海ゆかりの巨石の薬師如来を本尊とする。秘仏のため見物できない。
本陣跡が資料館として復元。街道筋に万葉集研究、国学者で歌人の佐佐木信綱の生家と記念館がある。唱歌「卯の花の 匂う垣根に時鳥 早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ」の作詞者。近江守護職佐々木氏が祖であることをここで知った。
■庄野宿(45)
三重県鈴鹿市。本陣1、脇本陣1。次の庄野宿まで都合よくバス便がない。交通量の多い1号線と離合集散しながら5キ程ロ歩く。旧街道になると田畑が広がる。庄野は長閑な鈴鹿川畔の小さな宿場。宿場入口に宿場碑と説明表示板が立つ。本陣跡は鉄筋コンクリートの真新しい郵便局に建て替わりがっかり。江戸時代に油問屋を営んでいた旧小林家の主屋(指定文化財)の一部を創建当時に復元した資料館に、本陣、脇本陣に残っていた資料などが集められた。その中に浅野内匠頭、大岡越前守、千姫などの宿泊台帳が見られる。関西線加佐登駅までプラス1キロを歩く。
■亀山宿(46)
三重県亀山市。本陣2、脇本陣2。シャープ液晶テレビ「アクオス」で一世を風靡した亀山は関氏の城下町。徳川時代に幕府が丹波亀山城の解体を命じたが、間違えて伊勢亀山城を取り壊してしまったとの逸話が残る。その後、再建されたが明治の廃城令で石垣と櫓を残して取り壊された。
宿場は江戸口門と京口門の間の2.5キロ程の城下内にあったため、見通しの悪い坂道が多い。幕府直轄地のため大名達は泊まるのを避けた。古い商家や加藤家家老屋敷跡が再整備されているが、本陣跡などは立札だけ。この先にホテルがなく亀山駅前のホテルで早めの宿泊となる。
■関宿(47) <11.6>
三重県亀山市。本陣2、脇本陣2。東西の追分間2.5キロの街道筋に宿場があった。今なを生活を営み、江戸時代後期の面影を色濃く残す200軒程の建物が軒を並べる。旧東海道では唯一、伝統的建物保存地区に指定されている屈指の宿場。東の追分は伊勢別街道の入口。ここに建つ鳥居は、20年ごとに取り換えられる内宮宇治橋の鳥居が移されたもの。宇治橋の鳥居は内宮年式遷都で解体された柱が使われているから、合計60年間使用されていることになる。一度訪れているが、次の坂下宿は関駅前からの地域バスになる。バス待ち時間に再訪。
■坂下宿(48)
三重県亀山市。本陣3、脇本陣1。京まで残り70キロ。最後の難所、鈴鹿峠を控えて賑わった。中でも本陣の大竹屋は東海道随一の大きさと言われた。旅籠も数多くあったが、土石流で流失したり道路拡張などで往時の景観は失われ、今は閑散とした小集落。
地域バスが数時間置きしかない。折り返しのバスが出発するまで僅か20分しか滞在時間がなく、駆け足になった。唯一残った松本本陣跡の門が法安寺の玄関に移設され、本陣、脇本陣跡は石碑が立つだけ。馬の水飲み鉢、芭蕉碑などが見られる。
■土山宿(49)
滋賀県甲賀市。本陣2、脇本陣なし。以前は鈴鹿峠越えのJRバスがあったが廃止された。鈴鹿峠を越えを避けて関西線の柘植で草津線に乗り換え、滋賀県近江の貴生川から地域バスとなる。
鈴鹿峠登り口、甲賀族の土山氏が治めていた宿場。2キロ程の旧街道筋の両側に古い民家が建ち並ぶ。漆喰塗壁、格子造りの土山家本陣跡は民家として今も残る。大黒屋本陣跡は公園。高札場の標石、案内板などが多い。伝馬館、扇屋伝承館で当時の様子が見学。茶の香りが漂う宿場風の土山道の駅で復路のバス待ち休憩。
■水口宿(50)
滋賀県甲賀市。本陣2、脇本陣1。土山宿からの帰りのバス、途中の水口宿江戸側見付けで下車。京側見付けまでの間に宿場があった。
宿場の中心部では平行的に三筋から成る珍しい宿場。今もその面影を残し、三筋の合流点に水口曳山祭りのからくり時計が設置。本陣、脇本陣の建物は明治の宿場制度の廃止で無くなり跡碑が立つ。
水口は城下町でもある。豊臣時代の城は関ケ原後炎上。三代将軍徳川家光の上洛の宿とするため再築城され、水口藩の居城となるが明治維新で廃城となる。近江鉄道の小さな水口石橋駅から貴生川に戻る。
■石部宿(51)
滋賀県湖南市。本陣2、脇本陣1。貴生川から草津線で石部に。宿場は駅西方1キロ程先にあった。京三条から38キロ、京立ち石部泊と言われていたが、幕府と膳所藩直轄の本陣が置かれていたため、大名達は泊まるのを避けた。本陣は焼失して跡碑のみ。脇本陣跡は住居として使用(非公開)、他にも古い住居や商家など宿場の雰囲気が残る。隣接する歴史民族資料館で大名駕籠、関札、宿場資料や小島本陣復元模型などから江戸時代の宿場を知ることができる。京側見付けのクランクにある「田楽茶屋」は歌川広重の東海道五十三次の浮世絵に描かれた茶屋を再現した店舗。
■草津宿(52)■大津宿(53)から京三条
京都三条から草津宿までは2016年に歩いて「近江路」として記録している。参勤交代が盛んにると、東海道は山科から大坂高麗橋まで延長。伏見、淀、枚方、守口の各宿を新たに置いて57次とした。この延長街道は2009年から始めた歴史探訪の原点であり「京街道」として記録に残している。
旧東海道57次を巡るのに19日の延べ日数を要した。約545キロあるが、この内、高麗橋から草津宿間は歩き通したが、それ以東は乗り物に乗って移動することが多く、一部の宿場を飛ばしている。
それでも、延べの積算歩行距離は約245キロ。旧東海道の約半分の距離を歩いた計算になる。ただし、最寄りの駅と宿場間を往復したり、寄り道した距離も含んでいる。
旧東海道は昔の面影を残す所が少ないのは承知していたが、関宿の重要伝統的建物保存地区や土山、二川、日坂、岡部、丸子宿など予想外に歴史跡を残していた。再生された有松宿も特徴的であった。旧東海道ならではの海や川渡し、川留めの様子なども印象に残った。
景色では江尻港や薩埵峠からの富士山と海は格別。箱根杉並木や舞阪、御油の松並木など風情を残している。行く先々によって保存状態に違いがあるが、宿場歴史資料館、記念館や説明表示板などから先人達の暮らしや想いに触れ、多くの知見を得ることができた。

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