表紙に戻る

湘南海岸 稲村ヶ崎


  旧東海道の薩埵峠を歩いてJR蒲原駅に着いた。その時、駅でふと見た江ノ島 鎌倉ナビ誌。
表紙の湘南海岸、稲村ヶ崎の夕景に引き付けられた。
夕富士と江ノ島、波打ち際のシルエットにほんのり紅色の美しい夕景色にすっかり魅せらた。
翌日は伊豆河津に行くため三島泊りを予定していたが、天気がよいのでPR誌のような夕景が見られるはず、予定を変更して湘南海岸に行くことにした。
                 <2017.2.21>


       

 直ぐに東海道線の時刻表を調べた。夕刻までに余裕で湘南海岸、稲村ヶ崎に行けることが分った。
 三島のホテルは閑散期のため空いているから予約していない。藤沢のホテルは分からないが、数が多いから大丈夫だと思う。
 蒲原から沼津、三島、熱海と乗り継いで藤沢に、江ノ電に乗り換えて湘南海岸に向かう。
 江ノ電は初めて乗る。湘南海岸沿いに鎌倉までの10キロ程を結ぶ、小田急グループの路面併用鉄道。地元から観光客まで幅広く愛されている。

 単線で山間や住宅街を曲がりくねって走る。線路ギリギリに家が建つ、線路の直ぐ前が玄関口。どうして家に入るのか不思議なぐらい。江ノ島駅を過ぎると湘南の明るい海が開ける。
 鎌倉高校前の無人駅の交差点はカメラマンの聖地。ちょと立ち寄ったが、人がいっぱい。


  
 

 ここから2駅程、稲村ヶ崎の小さな駅で下車する。湘南道路に平行して七里ヶ浜海岸が弓形に広がる。その先端、海にせり出した断崖が稲村ヶ崎
 相模湾越に富士山を望む名勝地。江ノ島と富士山は午前中が順光。午後は逆光となるが、天気の好い夕方は夕陽に染まる。
 既に湘南海岸の西半分は逆光になって非常に眩しく、富士山は霞んで見える。一方、反対側の稲村ヶ崎は夕陽が射して輝いている。もう少し日が沈むまで周辺を散策。
 海浜公園として整備された稲村ヶ崎海岸の入口に新田義貞徒歩伝説碑がある。
 南北朝時代、新田義貞が鎌倉北条軍との戦いで鎌倉を包囲したが、山と海に囲まれた天然の要害のため苦戦を強いられる。
 太平記では、新田義貞軍は稲村ヶ崎の波打ち際から鎌倉の由比ガ浜に侵入しようとしたが、波が高くて渡れなかった。潮が引いた時、干潟から鎌倉に侵入して鎌倉軍を攻略したと伝わる場所。
 この海浜公園の奥にもう一つ、海に向かって寄り添う2人の像と、七里ヶ浜ボート遭難事故慰霊碑が建つ。明治時代終盤、逗子開成中学校の生徒11名、小学生1名が乗ったボートが、突風にあおられ転覆、全員が遭難する海難事故が発生した。
 捜索によって友と抱き合い、兄が弟を抱きかかえた状態で収容され、人々の涙を誘い「真白き富士の嶺」や「七里ヶ浜哀歌」などで語り継がれた。

       

 夕景を見物にきた人達や、三脚を立てたカメラマンが方列を成し始めた。
 陽が傾くに従って西の空がオレンジ色に染まり、眩しく海に映る。押し寄せる波、引き返す波、その度に輝きが変わる。日没して暗さが増すと、浜辺や人のシルエットが一段と美しくなる。
 だが18時を過ぎると物凄く寒くなる。夜間の防寒対策まで準備してこなかった。
 まだ多くの見物人やカメラマンが残っているが引き上げる。海岸沿いに走る湘南国道、車のテールランプが繋がる絵になる景色を見ながら駅に向かう。


      

 藤沢行の江ノ電の車内で先程の写真をチエックしていたら、陽気な3人組のアメリカ人が覗き込んできた。Beautiful!を連発。何処で撮った(Where)と聞いてきた。
 それにSONYのこのカメラにも興味があるらしい。彼らがスマートフォンで撮った東京、横浜、鎌倉の写真を見せてくれた。我々が撮る風景場面と違い、驚くほどユニークである。
 彼らとやり取りしているうちに藤沢に着いた。ホテルを探さなくてはならない。最初に訪ねた相鉄フレッサインに空き部屋があった。


     

 翌日は、午後から下り坂の天気予報になっている。午前中の稲村ヶ崎は富士山や江ノ島方向が順光になる。青い海と白い富士山が望めるはずである。
 朝起きて河口湖と薩埵峠のライブ映像を確認したら晴れている。ホテルの窓から見上げる藤沢の空も晴。朝食を済ませて出発したが徐々に薄い雲が広がってきた。
 稲村ヶ崎に着いた頃には西の空から薄雲に覆われ始め、富士山頂付近に雲がかかり始めていた。天気は西から確実に崩れてきている。上空は晴れているが、富士景色は思ったほどすっきりしなかった。




                           表紙に戻る