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-歴史探訪-
東高野街道 南河内 

         

  高野街道は弘法大師空海が開いた高野山への参詣道。中でも京都石清水八幡宮から始まる東高野街道は生駒山西麓の河内から富田林へと続き、高野山まで片道22里(88キロ)。この中でも南河内は訪れる機会が少なかった。八尾、柏原から大和川を渡り道明寺、古市から富田林までの約20キロを巡る。 <2022.9.24~25>

■東高野街道
 高野街道は東・中・下・西と合計4本。いずれも河内長野で合流後、天見峠と紀見峠を越えて高野山に登る。中でも京都から石清水八幡宮、枚方、四條畷の北河内を進み、生駒山西麓を南下する東高野街道は、平安京と河内、和泉、紀州の各国府を結ぶ重要路であった。
 空海が高野山に真言道場を開くと修行僧が往来、平安貴族の高野詣りが盛んになり、鎌倉時代には庶民にも広がった。馴染みの少ない南河内、JR大和路線河内喜志の弓削神社からスタートする。


■弓削神社・弓削寺(由義)遺跡
 河内八尾の渋川、衣摺、弓削一帯は武器作りを本業とする物部氏の本拠地のひとつ。その一族で弓矢を営む弓削氏の氏神が弓削神社。
 東高野街道の外れに弓削氏の氏寺、弓削寺遺跡ある。近年の発掘調査で東大寺と同類の瓦が出土、国分寺に匹敵する七重塔跡も発見された。
 8世紀中期、弓削寺の弓削道鏡は、女帝の称徳天皇(48代)に重用され太政大臣となり、政務を取り仕切る。天皇を利用して西京離宮と称する由義宮を建て、弓削寺を拡大して由義寺とした。さらに天皇になることを企むが、称徳天皇が崩御すると下野(栃木)に追放される。

■柏原の大和川付け替え
 東高野街道を南下すると大和川の堤防。大和川付け替えの功労者、中甚兵衛の銅像や説明碑がある。
 今の大和川は柏原から真西に堺の大阪湾に流れているが、昔は上町台地に遮られて大小さまざまま川に分かれて、東大阪中河内の湿地帯に流れ洪水が頻発、幕府は大和川の付け替えを決める。
 柏原から大阪湾までの14キロを幕府、岸和田、三田、明石、姫路など数藩が工区ごとに延べ240万人を動員して、新大和川が切り拓かれた。<詳細は「大阪の歴史スポット」で記載>

■土師の里

  

◇土師
 大和飛鳥京から藤原京、平城京と堺や難波宮を結ぶ長尾街道筋にある土師の里。この一帯を本拠地として土器、埴輪、古墳土木、葬祭等を司った土師氏が地名の由来になっている。
◇野見宿祢 土師氏の祖で古墳時代の出雲の豪族。3世紀後期から4世紀初期、垂仁天皇(11代)の時代に大和の当麻蹴速と相撲のルーツとなる格闘で、勝利した野見宿祢はこの付近の地を与えられた。天皇や皇后が亡くなった際、殉死の習慣を埴輪に変える制度を提唱した功績で土師姓を賜り、代々埴輪や葬祭を司る。しかし、弥生時代には壺のよな葬祭土器が出土、考古学的にはこれが埴輪の起源とされている。
◇修羅の出土 付近の二ツ塚古墳の堀から大小2組の木製修羅が発見された。古墳造成の巨石運搬に使用した道具とされている。
◇国府遺跡 律令制下では河内国府が置かれた河内国の中心地、付近一帯に役所が立ち並んでいた。


  
           道明寺天満宮(土師神社)                      道明寺(土師寺)

■野見氏から土師氏・菅原氏
 高野街道を隔てて西側に土師氏の氏寺の道明寺。東側に氏神の天満宮(土師神社)が建つ。土師氏は後に各地に分散。その中で大和菅原氏は文官として、遣唐判官や文章博士などを歴任、朝廷の重きを成したのが菅原道真(野見宿祢から17代後)。宇多天皇(59代)の信頼が厚く右大臣になった。
◇土師寺から道明寺 6世紀後期の古い尼寺、菅原道真の叔母(覚寿比尼)が住職をしていた。道真が彫ったと伝わる十一面観音(国宝)が有名。道真の死後、道真の号「道明」から道明寺と改められた。
◇土師神社から菅原道真の天満宮 菅原道真の死後、御所の雷災や皇后、皇子の死などを道真の祟りと恐れ、天神として道真を祀った天満宮が各地に建った。道真ゆかりの土師神社も天満宮が建てられた。
◇道明寺天満宮 道明寺と天満宮が一体化した神仏習合の神宮寺であるが、神仏分離令で道明寺と天満宮は分離。しかし、今までの習慣から道明寺と天満宮は明確に区別されず曖昧、道明寺天満宮と呼ばれている。

■葛井寺から藤井寺
 西国観音霊場の葛井寺。百済の帰化人を祖とする葛井氏が建てた氏寺。葛井氏が衰退後、12世紀に大和橿原の藤井氏が伽藍修復を行なってから藤井寺と呼ばれるようになる。

  
         誉田御廟山古墳(応神天皇説)                   誉田八幡宮(最古の八幡宮)

■古市古墳群
 古市には100基以上の古墳がある。藤井駅前からレンタサイクルで代表的な古墳を巡る。
 河内最古の津堂城山古墳は4世紀後期の2重豪前方後円墳で大王級とされる。国内2位の大きさの誉田(コンダ)御廟山古墳(15代応神天皇陵説)は5世紀前期。古墳周囲には従属するように被葬者の武具、装飾品、祭祀具などが埋葬された陪塚と呼ばれる小規な古墳がある。
 誉田古墳の隣、応神天皇を祀る誉田八幡宮は6世紀中期、欽明天皇の勅命で創建された日本最古の八幡社。八幡社として名高い8世紀初期創建の宇佐八幡宮より古い。
 景行天皇(11代)の皇子の日本武尊陵と伝わる白鳥古墳。三種の神器の草薙剣を携えて東征を終えた後、伊吹山を鎮めに向かうが伊勢鈴鹿で亡くなる。鈴鹿から飛び立った白鳥が河内に飛んで天に昇ったとされ、これが白鳥古墳。調査では5世紀後期頃の古墳。日本武尊が実在すれば4世紀前期のため、時代が一致しない。
◇天皇陵の矛盾
 古市古墳群を古い年代から順に並べると、
 津堂城山古墳(4世紀後期被葬者不明)→15代応神天皇陵(誉田御廟山古墳)→21代雄略天皇陵(島泉古墳)→19代允恭天皇陵(代市野山古墳)→日本武尊陵(白鳥古墳)→14代仲哀天皇陵(岡古墳)となる。
 亡くなった順番は、日本武尊(4世紀前期)→14代仲哀天皇(4世紀中期)→15代応神天皇(4世紀後期)→19代允恭天皇(5世紀中期)→21代雄略天皇(5世紀後期)となり、明らかに順番が逆転。天皇陵では他にもこの様な事例が多数ある。

■寺内町 富田林
  

 古市を過ぎると羽曳野。壷井には河内源氏発祥地で源氏三代の墓がある。さらに進むと富田林。戦国時代末期、宗教自治都市の寺内町が残る。
 浄土真宗京都興正寺の証秀上人が、富田林に興正寺別院を建て河内布教の起点とした。堀割水路、木戸門で囲い、夜間は閉門。外周を土塁で巡らせた宗教自治区。山科や大坂本願寺は織田信長に抗戦したため焼き討ちされたが、富田林門徒は対立を避けて生き延びた。
 江戸時代に入ると幕府直轄地となり、富田林商人の商業都市として栄えた。江戸時代中期の杉山家(酒屋)、葛原家(タバコ)の三階建ての巨大蔵はひときわ目をひく。大阪では唯一の重要伝統的建造物群保存地区となっている。

 天皇陵の年代矛盾が指摘されている。宮内庁は学術調査機関ではないため見直しの意向はないが、仮に調査機関に委託したとしても、対象となる古墳は約1千基。膨大な費用、人材、想像できない程の年数が必要となる。そこで得られた結果は日本書紀、古事記、天皇家や日本の歴史を根底からひっくり返すことになる。宮内庁もどうにも手が付けられない。




              続 高野街道 奥河内

  2022年に富田林で終えているが、その先、もう少し巡ってみたい。特に、大阪府最南端で奥河内と呼ばれる地区は東・中・下・西の高野4街道が合流する。大阪府の最南端の三日市宿まで延長して高野街道を終えることにした。 <2025.4.29>

  

 近鉄線の富田林滝谷不動駅からスタート。1キロ先に弘法大師が拓いた日本三大不動尊、滝谷不動尊に少し寄り道してから東高野街道に向かう。新旧道の離合を繰り返しながら緩やかに登ってやがて河内長野。
 この駅の少し手前の延命子安地蔵尊で西高野街道と合流するが、合流碑は駅前に設置されている。
 駅前を過ぎると道はカラー舗装され、旧街道らしい漆喰塗の虫籠窓格子、土蔵の酒蔵が並ぶ室町時代創業の天野酒造。鋳物を取り扱う豪商の吉年(ヨドシ)邸は黒漆喰の虫籠窓格子の巨大主屋に接した袖蔵を始めて見た。中庭の楠は樹齢500年を越し高さ20mもある巨木。
 急な別久坂(ビックリ)を登ると、楠木正成築城の烏帽子形城跡の丘陵地が続き、遠くに葛城山や金剛山を望む。

  

 三日市宿では高札場を復元。木造建ての交番は旧代官所跡。本陣のあった油屋は一時、尊王攘夷派天誅組の拠点になったと説明碑が立つ。江戸時代後期の河内木綿商家の八木家住宅など古い家並みを過ぎると、南海高野線の三日市駅前。三日市宿碑、楠木正成親子の石像などがある。
 駅の少し先には高野山まで32キロあることを示す、江戸時代の高野山女人堂八里道標石碑が立つ。この先、大阪府と和歌山県との境界の天見峠、紀見峠へと続く。
 東高野街道は三日市宿で終えるが、河内長野で合流する西高野街道を少し巡ってみた。堺からの西高野街道は、狭山で四天王寺からの下高野街道と合流。さらに与津ノ辻(千代田)で守口・平野からの中高野街道と合流する。

 奥河内の三日市宿では、住居の玄関に灯篭を置いたり、面格子に三日市宿再生スローガンの木札を掲げたり、道路のカラー舗装や各所に案内板の設置など、宿場町の保存に努めている。
 高野街道で所々で見かけた地蔵尊。疑獄の苦しみから救う菩薩とされる。真言宗や天台宗の六道思想(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の救済菩薩として、道標の代わりに設置された。




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