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       −歴史探訪−
暗越 奈良街道

       

  大阪と奈良の県境、生駒信貴山系のど真ん中にある標高455mの暗峠。8世紀の始め難波宮と平城京を結ぶ最短路として拓かれた。奈良時代は役人、防人や朝鮮特使などが行き交いした。中世期にかけても難波と大和との往来や伊勢参りなどで、多くの人々が利用した歴史街道である。 <2017.7.11-12>

       

暗越奈良街道
 いくつかある奈良街道の中で暗峠越は、難波宮平城京の間を東西に結ぶ最短路である。当初は玉造がスタート点であったが、明治時代に当時の大坂の中心の高麗橋に移された。京街道、中国街道、紀州街道、暗越奈良街道、亀岡街道などの起点として里程元標が置かれた。
 高麗橋からは平城京三条まで約30キロ。途中に松原宿が置かれ、大和郡山藩が暗峠に石畳みを敷き本陣や旅籠が設けられた。今は国道(308号)となっているが、暗峠の大阪側は日本一凶悪激坂の酷道。ヒルクライムに挑戦するライダーやサイクリスト達の聖地として全国に知られている。

■生駒山
 大阪と奈良の県境に横たわる。標高642mは東京スカイツリーとほぼ同じ高さ。南北に約30キロと長い。そのほぼ中央を暗越奈良街道が貫く。生駒断層が走り大阪側の勾配が特にキツイ。
 そのため大阪−奈良間の国鉄路線は生駒山を越えることができず、北に大きく迂回する片町線(52キロ)と、南回りで大和川渓谷に沿って迂回する関西線(45キロ)に分かれた。
 その後、近鉄線は生駒山トンネルを完成させて奈良までの最短路線を完成させる。それでも山麓から斜めにカーブしながら登る。

その1 玉造−松原宿
  

 暗峠奈良街道は伊勢参りの伊勢本街道と重なる。玉造稲荷神社が伊勢本街道の出立点であった。玉造駅前東側にあった鶴屋と桝屋の二軒茶屋は旅人で賑わった。今は石碑は建つだけ。ここから国道308号と旧街道が離合を繰り返しながらほぼ真東に街道が延びる。
 玉造は5世紀頃に古代の装飾品のひとつ、勾玉の製造所があったことに由来している。
 中道から今里にかけて細く曲がりくねった旧街道に入る。中道の地名は暗越奈良街道が生駒越えの真ん中の道であることに由来する。
街道南側、片江には落語、浪曲家、漫才師などが住み吉本興業の寮などもあって芸人村と呼ばれていた。
 深江で国道に合流して布施から再び旧街道に入る。おおさか東線を過ぎると小阪。この周辺には近大、商大、妻の母校の樟蔭などの学校が集まっている。歴史作家で知られる司馬遼太郎の自宅や記念館もある。昔の面影を残す御厨(ミクリヤ)は天皇に食べ物をだす台所が地名の由来になった。
 楠根川を渡る。旧大和川が幾筋もの流れになって東大阪の湿地帯に流れていた。昔、この辺り一帯は河内湾、草香江と呼ばれる広大な湖であったが、生駒山や旧大和川からの堆積物で徐々に埋め立てられる。大和川の付け替えで急激に干拓が進み、新田開発によって河内綿の産地に生まれ変わった。
 意岐部(オキベ)で中央環状線、近畿自動車道を潜る。正面に生駒山が近ずく。右手の花園は高校ラクビーの聖地。ラクビー場前から路地に入ると暗越奈良街道で唯一の松原宿。最盛期には多くの旅籠が並んだが明治に入って廃止された。石碑と掲示板だけで昔の面影はない。


■その2 枚岡−暗峠−南生駒
  

 2日目。旧大和川が幾筋にも別れた川のひとつ、恩地川を渡り大阪外環状線を越える。高野山詣で最も賑わった東高野街道を横切る。生駒山はもう目の前、ここから登り坂となる。
 近鉄奈良線のガードを潜ると南側の森が河内国一の宮の枚岡神社。創建は神武天皇の即位頃とされ河内平岡の神を祀る。藤原氏の氏神である奈良春日大社の創建にあたり、ここの神を分霊したことから元春日社と呼ばれるほど由緒ある。

 道端に松尾芭蕉句碑がある。元禄時代の9月9日、菊の節句に伊賀上野の自宅から暗越奈良街道を越えて大坂に向かう最後の旅で詠んだ「菊の香に くらがり越ゆる 節句かな」の句碑がある。
 芭蕉は東北を巡って、奥の細道の編集を4年がかりで仕上げた直後であった。長旅の疲れで体調を崩す中、門人の諍いの仲裁に大坂に行き、東本願寺難波別院(南御堂)前にあった花屋の旅籠で永眠する。辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ回る」の石碑が南御堂境内にある。

  

 コンクリートに丸い溝を切った滑り止めの急な坂道。枚岡駅から標高455mの暗峠まで3キロ。通常きつい坂道には必ずある九十九折が一か所しかなく、ほぼ真っ直ぐに登るから余計に厳しい。
 難所のS字カーブ。最大31%の勾配(100m間に31m登る)、普通の自転車やバイクでは無理。日本全国のライダーやサイクリストが挑戦にやって来るが、一度も足を地に着かずに登るのは至難とされている。
 車も一度停車すると再発進はできない。タイヤのスリップ痕が幾筋も残っている。歩いても真っ直ぐ登れず、斜行歩きになる日本一凶悪激坂、酷道と呼ばれる所以である。

 ここをクリアするともう一つの難所は道幅が1.8mしかない坂。歩く分には問題ないが小型車でもタイヤが道から外れそう。地元の人は慣れているから簡単に通過する。
 ようやく峠の小さな集落に入る。ここから往時の面影を残す石畳となる。昔はここに大和郡山藩の本陣があった。暗峠石碑と道路100選碑があり、峠の茶屋で休息。

 生駒信貴ドライブウェイの狭いガードを潜ると眼下に生駒谷の街と矢田丘陵地が横たわり、大和盆地や大和高原が遠望できる。大阪側と違ってなだらかな坂を下る。小規模な棚田や地蔵尊、石仏がたたずむのどかな道。大和造りの人家が並ぶ集落を抜けると、万葉集や百人一首にもある竜田川が流れる生駒谷。
 竜田川の少し北にある竹林寺。奈良時代に東大寺大仏や多くの寺院開基、治水、架橋、恵まれない人達の慈善事業などに貢献した行基が住んだ寺で、境内に墓が残されている。
 奈良街道は生駒谷から矢田丘陵地を越えて、現在の奈良中心部まで12キロ。その途中には4世紀後半の国内最大円墳(109m)で大和王権の有力者とされる富雄丸山古墳平城京跡がある。

 玉造から南生駒駅まで2日間約23キロ。梅雨の中休みの厳しい暑さ、特に暗峠の激坂は疲労困憊。この日の夜は何度も両足脛が攣って七転八倒。




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