
−歴史探訪−

|
日本最古の道とされる山辺の道や、中世期に拓かれた京街道・熊野街道・西国街道など多くの歴史街道を歩いてきたが、最古の官道とされる竹内街道は行きそびれていた。交通量が多く歩道が整備されていない峠などがあるため避けてきたが、古墳時代や聖徳太子ゆかりの史跡、河内源氏発祥地など由緒ある場所が点在、歴史街道を知る上で竹内街道は避けて通れない。何日かに分けて巡った。
|
|
■竹内街道

飛鳥時代の政治の中心であった大和と河内・和泉を結んだ日本最古の幹線道路(官道)。日本書記に推古天皇の613年「難波より京(飛鳥京)に至る大道を置く」とある。天武天皇の672年にも「河内から丹比(タジヒ)道と大津道(長尾街道)が飛鳥京や藤原京に続いた」と記録に残る。
官道として整備されたのは7世紀の始め頃であるが、石器時代には二上山の石の搬出道で、和泉や丹比野(タジビノ)、磯長・科長(シナガ)と呼ばれた一帯は、古墳が多く高い技術をもった渡来人も住んでいたとされる。その後、二上山から大和盆地を東西に横断する横大路、その延長線上に竹内街道が続き、住吉津(堺)に伸び、難波宮に通じる難波大道、難波津から瀬戸内海や大陸へと繋がった1400年の悠々の歴史を伝える道である。
竹内街道の名は近世になってから。以前は「丹比道」と呼ばれ、堺から始まる。堺は和泉、河内、難波、摂津の境にあり、港町で漁業と物流の拠点。ここから、大仙古墳(仁徳天皇陵説)北端や羽曳野の誉田(コンダ)御廟山古墳(応神天皇陵説)を通り、河内源氏発祥地や太子町の聖徳太子陵、孝徳天皇陵を経て竹内峠を越え、大和葛城市の竹内集落を下った長尾までの27キロである。
■堺(大仙古墳)−羽曳野(古市) <2016.5.12-13>
丹南、丹比、丹治などの地名が今も残る丹比道。堺、百舌鳥古墳群の中心、日本最大の大仙古墳のある三国ヶ丘から出発。竹内街道の出発点はここから西に約2キロ、堺の中心の大小路であるが、2010年の熊野街道で通っている。車の往来が激しい中央環状線も飛ばし、旧街道らしくなる向陵町からスタート。
所々で竹内街道、横大路などの道標や石碑、歴史の道案内などがある。3キロ程で金岡神社。住吉の神を祀るため住吉大社がある西向きに鎮座している。境内に旧地名の「大道」の石碑が残る。この付近から難波宮まで真北に約14キロの「難波大道」が拓かれ、大和の飛鳥京や藤原京を繋ぐ要路であった。
大泉緑地を横切った野遠で四天王寺を出発点とする「下高野街道」と交差する。この付近から車の往来が激しい細い道が2キロ程続く。岡の四つ辻は「中高野街道」との追分。「右 大坂ひらの 左 さかい」寛政9年(1797年)の道標や竹内街道の案内図などがある。この周辺には丹南遺跡や河内鋳造所跡の岡遺跡が残る。東大寺大仏、鎌倉大仏や梵鐘などの製作に関わった河内鋳物師が多く住んでいた。

翌日、前日と同じ河内松原の岡の四つ辻からスタート。丹比、丹治の地名が残り、所々に緑の一里塚がある以外は旧街道らしさはない。野々上の交差点に野中寺の高灯篭と道標がある。少し北上するとその野中寺。聖徳太子と母の用明天皇の皇后や太子妃の陵墓がある叡福寺の「上ノ太子」に対して、「下ノ太子」と呼ばれる寺で聖徳太子が建立した古刹。
広い境内の一角に「お染久松」の墓所がある。江戸時代中期の実話、大坂瓦町油屋のお染と丁稚の久松の心中事件を、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曾根崎心中」として発表した。
近畿自動車道を過ぎると羽曳野の軽里。軽皇子(孝徳天皇や文武天皇の皇子名)にちなんだ地名。道筋にある野中ボケ山古墳は仁賢天皇(24代)陵とされる。他に豪族の古墳とされる小口山古墳、峯ヶ塚古墳などが点在する。
やがて、大きな濠を持つ軽里大塚古墳(白鳥古墳)が現れる。景行天皇(11代)の皇子、日本武尊陵と伝わる。三種の神器の草薙剣を携えて東征を終えた後、荒ぶる伊吹山を鎮めるために向かうが、鈴鹿で亡くなる。鈴鹿から飛び立った白鳥が河内に飛んで天に昇った。これが白鳥古墳と伝わり、羽曳野の地名の由来になった。ただ、日本武尊が実在すれば4世紀前期、この古墳は5世紀後期のため年代が一致しない。

■古市−上ノ太子
近鉄古市駅前にでる。東高野街道と交わる交通の要路として栄え、代官所などが置かれていた。また、この付近には40数基の古市古墳群があり、百舌鳥古墳群と共に世界遺産に指定されている。
古市駅隣、日本武尊を祀る白鳥神社を少し過ぎた蓑の辻が東高野街道との交差点。東高野街道には土師氏、菅原氏ゆかりの由緒ある道明寺天満宮や古墳が多く点在する。
この先から道幅が狭く交通量の多い166号線。竹内峠、高見峠を越えて伊勢松阪に至る旧伊勢道路である。
石川を渡ると川向道標、駒ヶ谷道標や説明碑、伊勢灯篭、常夜灯などが点在する。徐々に登り勾配が増し、やがて聖徳太子像が建つ上ノ太子駅までで一旦終える。
■河内源氏 発祥地(壷井) <2019.8.15>
これまで行きそびれていた竹内峠に挑む。竹内街道から少し南の太子町壺井に、河内源氏の氏神 壺井八幡宮や氏寺の通法寺跡、鎌倉幕府を開いた源頼朝の直系の祖にあたる源氏三代の墓などを巡る。
源氏の成り立ちは、平安時代初期の嵯峨天皇(52代)が皇位を継承できなかった皇子達に源氏姓を与え、皇室を離脱して各地に下向させたことから始まる。それらを嵯峨源氏と呼び、地方に土着して武装勢力化する。
後の清和天皇(56代)も皇子に源氏姓を与えて、下向させた清和源氏の中で最も繁栄したのが源経基。子供の源満仲が兵庫県川西市多田郷を支配する武士団を形成。これが多田源氏で、その3人の子供らが摂津源氏、大和源氏、河内源氏へと独立した。

太子町壺井に居を構えた河内源氏の源頼信。孫の源義家が河内の氏神である石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家と名乗る。それから4代後の源頼朝が鎌倉幕府を開いて、河内源氏の総氏神を壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移した。河内源氏はさらに下野源氏(足利)、上野源氏(新田)、甲斐源氏(武田)などに派生して武家社会を形成していく。
■河内源氏と壷井八幡宮 特別企画展 <2026.1.20>
大阪歴博物館で特別企画の「河内源氏と壷井八幡宮」が開催されている。現地には2019年に訪れているが、八幡宮に今も伝わる重要文化財や貯蔵品などは窺い知ることができなかった。今回の特別展では普段は未公開の貴重な文化財が多数出展されている。
1043年源頼義が千手観音を本尊に氏寺として通法寺を創建。東北地方の前九年合戦で勝利して、石清水八幡宮の神霊を勧請して創建、氏神としたのが壷井八幡宮。木造の「僧形八幡神像」「男神像」「神功皇后像」「童子形像」の他、八幡宮と一体運営した通法寺の資料などがみられる。
織田信長の河内侵攻で被害を受けたが、江戸時代に入って徳川綱吉の重職で、河内源氏の流れを引く甲斐源治武田氏一門の柳沢吉保が復興を指導して仏閣社殿が完成。「河内源氏の宗廟」と位置づけらた。
|
■叡福寺(太子町)
竹内街道に戻り、聖徳太子ゆかりの叡福寺を訪れる。この寺の境内に聖徳太子陵と宮内庁が認定している叡福寺北古墳(磯長墓)がある。円墳の内部は奥棺、中棺、西棺となっていて、太子と母である穴穂部間人皇女(用明天皇の皇后)、太子妃の膳部菩岐々美郎女の三体が複葬されている。この墓を守護するため推古天皇が叡福寺を創建したとされ、現在の伽藍は豊臣秀頼による再建である。
■磯長古墳群(太子町)

叡福寺 聖徳太子陵 用明天皇陵
叡福寺の東側に聖徳太子の父である用明天皇陵(31代)。さらに南の丘陵地に古墳群が並び、一帯は磯長古墳群と呼ばれている。古墳群西側の敏達天皇陵(30代)は、母(欽明天皇の皇后)の陵に追葬されたと日本書記に記録が残る。東側の推古天皇陵(33代)は内部に二つの石室があることから、一つは子供の竹田皇子ではないかと推定されている。
古墳群を回って、竹内街道に戻る途中に小野妹子墓と伝えられる小塚があって華道の池坊家が管理している。
聖徳太子が京都六角堂を建立した時、小野妹子が出家して六角堂の住職になった。このお堂に絶えず花を供えていた寺坊が池坊流の祖とされ、池の側に住坊があったことから池坊と呼ばれるようになったと伝わる。
竹内街道を横切る飛鳥川の対岸に小規模な孝徳天皇陵(36代)がある。乙巳の変の後、孝徳天皇は中大兄皇子らとともに大化の改新を進めるため、本格的な宮殿規模の難波宮を造成して都を定めた。しかし、皇太子の中大兄皇子は飛鳥に戻り、天皇は失意の内に亡くなった。
この後、孝徳天皇のプリンス有間皇子は従兄弟の中大兄皇子との政争に巻き込まれ、19歳の若さで処刑、悲劇の皇子と呼ばれた。
■酷道 竹内峠

竹内峠の登口にある「近つ飛鳥太子道の駅」で休憩。飛鳥は奈良大和と河内羽曳野に存在する。古事記に反正天皇(18代)が難波から大和石上神宮に詣でる時に泊まった場所を、難波からみて距離の近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」としたと記されている。近つ飛鳥が河内飛鳥、遠つ飛鳥が大和飛鳥である。
竹内峠の酷道166号線には歩道がなく、細い溝蓋や白線上を歩く。大型車はぎりぎり通過するため、暫く立ち止まり避難する程危険。気温35度、車の排ガスにも悩まされ、2キロを50分もかかって峠に到達。
峠は雄山(517m)と、雌山(474m)からなる二上山の登山口になっている。雄山には天武天皇の皇子で陰謀によって謀反の疑いをかけられ、自害させられた悲劇の大津皇子の墓がある。
奈良県に入ると下り坂となる。危険な国道からようやく離れて旧街道を下ると、大和棟造りの伝統的な家屋が点在する。歴史作家の司馬遼太郎の母方の実家が、この竹内集落にあって幼少期を過ごしている。著書の「街道をゆく」の原点になった竹内街道。著書のなかで「国宝に指定されるべき道であろう」と記している。

二上山 大和棟 竹内街道道標
松尾芭蕉が伊賀に帰る途中、滞在した場所に建てられた休憩所跡で小休止。竹内街道の終わりが近い、当麻町長尾の辻に「右 よしの こうや つぼさか」「左
大和 いせ はつせ」などの道標が並ぶ。その先の長尾神社で竹内街道は終わり、横大路に続く伊勢・初瀬街道や吉野・高野街道、長尾街道などに分かれる。
長尾街道を北上すると中将姫と当麻曼荼羅で知られる当麻寺や、相撲のルーツとなる当麻蹴速塚がある。この暑さに閉口、近鉄大和磐城駅で終える。
三国ヶ丘から上の太子までの区間を巡ってから3年後、酷道区間の竹内峠を尻込みしてきたが、娘がお盆休み期間中に妻の介護を変わってくれたため決行、久しぶりの歴史回顧となった。
台風が通り過ぎた直後、二上山を越えて奈良盆地に入るとフェーン現象で38度の猛暑日。休む場所が少なく店舗もほとんどなかった。真っ赤に日焼け、久し振りに長距離を歩いたため足に豆ができるほど厳しかった。

|
|