度重なる戦火や災害で古い建物は失われたが、南北に中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び、それを回廊で囲む飛鳥時代創建当時の「四天王寺式伽藍配置」を残す日本最古の仏教官寺であり、聖徳太子が建立した七大寺の一つ。天王寺の地名の由来となっている。

日本書紀や四天王寺縁起によると、蘇我氏と物部氏の争いで、聖徳太子が崇仏派の蘇我氏の戦勝を祈願して四天王(東方持国天、南方持国天、西方広目天、北方多聞天)を彫った。蘇我氏の戦勝後、四天王を安置する本格的な仏教寺院を聖徳太子の発願で国家事業として593年に建立したとされる。
ところが、日本歴史上では3年後に完成した蘇我氏の私的寺院の法興寺(飛鳥寺)が、最古の本格的仏教寺院とされている。それは、法興寺は記録や遺跡調査、建築様式などから完成年代が明確になっているが、四天王寺は度重なる戦火などで何度も焼失、再建を繰り返したため遺跡調査や記録が乏しいとされ、同じ聖徳太子が607年に建立した初期の法隆寺(斑鳩寺/若草伽藍)は、四天王寺と伽藍配置や瓦が同じで、ほぼ同時期頃に完成したのではないかと推定されていることなどによる。
この四天王寺は昭和初期の室戸台風(1934年)でも崩壊。再建直後に米軍の大阪大空襲で炎上した。
戦後、天台宗から脱離。聖徳太子の化身とされる救世観音を本尊とする全仏的な宗派として和宗を掲げ独立した。現在の建物は1963年の再建。八代目となる五重塔は鉄筋コンクリート造である。
西方浄土の入口とされる境内の西門に神仏習合の名残の石鳥居が残る。元は木造鳥居であったが鎌倉時代(1294年)に石鳥居が建てられた。春分、秋分の日には鳥居の中心線に太陽が沈む。
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