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       −歴史探訪−
大阪の歴史スポット 

  難波大道  歴史博物館(難波宮.大化改新)  大阪駅と梅田駅 大和川付け替え
  大阪環状線 淀川大改修  大阪(大坂)城  大阪天満宮 
  石山(大坂)本願寺  大阪の歴史回顧 大阪地下鉄 メトロ  四天王寺
         

 四天王寺 日本最古の官寺

 度重なる戦火や災害で古い建物は失われたが、南北に中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並び、それを回廊で囲む飛鳥時代創建当時の「四天王寺式伽藍配置」を残す日本最古の仏教官寺であり、聖徳太子が建立した七大寺の一つ。天王寺の地名の由来となっている。

      

 日本書紀や四天王寺縁起によると、蘇我氏と物部氏の争いで、聖徳太子が崇仏派の蘇我氏の戦勝を祈願して四天王(東方持国天、南方持国天、西方広目天、北方多聞天)を彫った。蘇我氏の戦勝後、四天王を安置する本格的な仏教寺院を聖徳太子の発願で国家事業として593年に建立したとされる。
 ところが、日本歴史上では3年後に完成した蘇我氏の私的寺院の法興寺(飛鳥寺)が、最古の本格的仏教寺院とされている。それは、法興寺は記録や遺跡調査、建築様式などから完成年代が明確になっているが、四天王寺は度重なる戦火などで何度も焼失、再建を繰り返したため遺跡調査や記録が乏しいとされ、同じ聖徳太子が607年に建立した初期の法隆寺(斑鳩寺/若草伽藍)は、四天王寺と伽藍配置や瓦が同じで、ほぼ同時期頃に完成したのではないかと推定されていることなどによる。
 この四天王寺は昭和初期の室戸台風(1934年)でも崩壊。再建直後に米軍の大阪大空襲で炎上した。
 戦後、天台宗から脱離。聖徳太子の化身とされる救世観音を本尊とする全仏的な宗派として和宗を掲げ独立した。現在の建物は1963年の再建。八代目となる五重塔は鉄筋コンクリート造である。
 西方浄土の入口とされる境内の西門に神仏習合の名残の石鳥居が残る。元は木造鳥居であったが鎌倉時代(1294年)に石鳥居が建てられた。春分、秋分の日には鳥居の中心線に太陽が沈む。






大阪駅 と 梅田駅

 ほぼ同じ場所に大阪駅と梅田駅がある。大阪人
は大阪とは言わず、所在地の梅田と呼ぶ。

 JR大阪駅に繋がる私鉄の阪急や阪神、地下鉄は全て梅田駅となっている。
 大阪人にとっては何の不思議もないが、外国人
観光客から梅田(駅)とは大阪(駅)のことなのか?
と聞かれることが多くなった。
 そのため2019年に私鉄や地下鉄の梅田駅を「大阪梅田駅」に変更するようになった。


 なぜ同じ場所に大阪駅と梅田駅が混在するのか。
 1874年(M7)大阪−神戸間の官営鉄道の開通と同時に大阪駅が開業した。駅はもう少し西側にあったが、地元大阪では大阪駅ではなく所在地名の梅田駅と呼んだ。
 実はその5年前、民間で大阪−神戸間の鉄道開業を明治政府に申請したが許可されなかった。この時、東京駅はまだ開業しておらず、東京駅より先に大阪駅を造らせなかったことに大阪は反発。
 政府の主導で後回しにされた不信感から、大阪駅と言わずに梅田駅と呼んだ。その後にできる阪急、阪神や大阪市地下鉄も梅田駅とした。常に東京を優先とする中央政府に対する大阪の反骨心とされている。

 梅田の地名の由来は「埋田」。昔の大阪は海が徐々に堆積物で埋まった湿地帯。梅田周辺も江戸時代に埋立てた田畑や墓地がある寂しい土地であった。埋田の「士」の字は土に返る=死は縁起が悪い。字語呂も良くないことなどから、綱敷天神ゆかりの紅梅や曾根崎天神から梅田になったと伝わる。
 JR大阪駅と阪神梅田駅、地下鉄梅田駅、西梅田駅は梅田に所在する。しかし阪急梅田駅、阪急百貨店は角田、地下鉄西梅田駅は曾根崎に属するが、この付近一帯の繁華街を広義に梅田と呼んでいる。






大阪地下鉄 メトロ

 大阪市営地下鉄は1933年(S8)、御堂筋線の梅田−心斎橋間2キロで初開業した。今では堺筋線、中央線など8路線、営業距離は130キロに延びた。長年民営化をめぐる論争が続いたがOsaka Metro(大阪高速電気軌道株式会社)として民営化された。

         

 御堂筋線、開通当初は僅か1両編成であったが、当時としては驚きの12両が停車できる長いホーム。駅幅も広く、高すぎる天井など市議会でオーバースペックであると厳しく叩かれた。
 地下鉄の上を通る御堂筋も「飛行場か!」と言われたが、当時の関市長は将来を見越して断行した。
 その結果、今日まで地下ホームの拡張は行われず、車両長さ19m、10両編成が楽に発着できている。
 大阪より早く1927年(S2)開業している東京の地下鉄。短くて狭いホーム。車両長さ16m、6〜7両編成が限界、ホーム天井も低く圧迫感がある。ラッシュ時の運転間隔は2分を切る綱渡りダイヤである。

 私鉄の都心乗り入れを阻害した大阪市営モンロー主義(市内は公営、郊外は私営とする相互不干渉)に対する批判もあるが、碁盤の目に南北を「筋」、東西を「通」として路線を交差させた。

 大阪地下鉄に戻る。地下鉄漫才で有名な春日三球・照代の「地下鉄の車両はどこから地下に入る」という漫才ネタがあった。
 当時は国鉄梅田貨物駅からトラクターと牛に牽引され、御堂筋本町まで2キロを4時間がかりで運ばれた。
 本町の地上開口部から2脚2本のクレーンで車両を吊って、地下に下ろした新聞写真が残っている。この時の車両は今も森ノ宮車庫に保管されている。 






JR大阪環状線 

ようやく323系新型車両投入 <2016.10>
 東京から大阪に来た人達が驚くのが、大阪環状線の車両の古さ。山手線では27年前に姿を消した国鉄時代の古い車両が、大阪環状線でまだ走っているためである。

 JR西日本では私鉄と競合する東海道線と山陽線に新型車両を優先的に投入。大阪環状線はドル箱にもかかわらず車両は長らく据え置かれていた。
 ようやく重い腰をあげ、今年度から順次新型車両に切り替えることになった。
 その理由は車両ドアーの統一である。古い環状線の車両は4ドアーであるのに対して、東海道・山陽・関空快速・大和路線は全て3ドアー。ドアーの不統一が駅ホームドアー設置の障害になるためである。
 323系新型車両は東海道・山陽線や関空快速で使用されているステンレス製の225系をベースにスピードを抑え、環状線用の座席仕様にした。イメージカラーはオレンジで変わらないが、全面色ではなく部分的になった。
 大阪環状線のカラーがオレンジになったのは、昔の国鉄時代に中央線と大阪環状線に、揃ってオレンジ色の101系車両を投入したことから始まる。

大阪環状線の成り立ち <2013.10>
 大阪−京橋−天王寺−西九条−大阪間の22キロの市中部19駅を40分程で一周する内回りと外回りがある。民営鉄道から始まったこの大阪環状線の成り立ちは極めて複雑である。
 1889年(M22)大阪鉄道が湊町(JR難波)−天王寺間で開業。後に天王寺から京橋−大阪(梅田)に延ばす。
 更に西成鉄道が大阪−西九条間で開業している。
 明治時代後期にかけて、大阪鉄道と西成鉄道はともに国有化、大阪−京橋−天王寺間は城東線と呼ばれ、東海道線大阪駅と関西線を繋ぐ役割を担った。 
 天王寺や湊町を起点とする関西線は奈良や和歌山方面に延びた。大阪−西九条間の西成線は大阪築港や河口周辺の工業地帯の臨港線であった。しかし、西九条−天王寺間には線路は敷かれず環状線を形成しなかった。
 昭和の時代になってからも、環状線化の計画は何度もあったが、この区間にある安治川、木津川は船舶の往来が多く巨大橋梁を架ける困難さや、市電と市バス網が張り巡らされ、地下鉄御堂筋線もあって環状交通の必要性が高まらなかった。

 架橋建設技術が進んだ1961年(S36)、安治川橋梁、木津川橋梁の完成と同時に環状化を形成するが、西九条では地上駅と階上駅で乗り換えが必要であった。それから3年後、東京山手線が環状化されてから43年後の1964年(S39)になって、ようやく西九条の階上で線路が繋がり、現在のような完全環状化が完成した。
 その大阪環状線、山手線に比べて車両が古すぎる。ドル箱路線であるにもかかわらず半世紀も前の国鉄時代の古い103系が使用されている。くすんだ橙色のカラー車体は大嫌いである。






 大阪(大坂)の歴史回顧

大阪の成り立ち
 大阪市立自然博物館の資料によると、大阪は約200万年前頃から始まった活断層による地震の繰り返しで、徐々に周囲の山地が盛り上がり、北摂山地・生駒山地・金剛山地・和泉山地が形成され、平野部が低くなってここに海水が流入した。
 約700万年前頃、人類の起源とされるアフリカ猿人が、約100万年前頃に原人に進化。その一部がアフリカを脱出して、ジャワ原人や北京原人となり、大陸から日本列島に渡ってきた原人が住みついたと推定されていて、約3万年前頃の地層から石器が見つかっている。
 周囲の山地から土砂の堆積物によって海は次第に湿地帯、陸地へと移行しながら新しい地層が形成されていく。これが現在の大阪である。

■大阪の歴史は4世紀末にさかのぼる
 日本書紀によると、4世紀の応神天皇(15代)の難波大隅宮の記録があり、4世紀後半の仁徳天皇(16代)の難波高津宮が上町台地付近にあったと伝えられている。「難波」の語源由来は、速い潮の流れから「波速(ナミハヤ)」がなまったとされる。
 7世紀に孝徳天皇(36代)が、今の難波宮跡に日本最初の本格的な宮殿規模の難波長柄豊崎宮(前期難波宮)を造営した。ここで大化の改新の政治が行われ、孝徳天皇が崩御後、平城京に遷都する。その後、聖武天皇の時に前期難波宮とほぼ同じ場所に後期難波宮ができた。その後、桓武天皇の時、長岡京、平安京と都は移り変わる。大阪(難波宮)は奈良(平城京)や京都(平安京)よりも古い本格的な宮殿都市であった。

寺内町から城下町
 戦国の戦乱で荒廃したが、本願寺を復興した本願寺8世蓮如上人が、上町台地に大坂御坊を建て石山本願寺の寺内町を形成した。後に、ぼぼ同じ場所に豊臣秀吉が、大坂城を築城して城下町ができあがる。
 大坂城が落城して江戸に徳川幕府ができたが、瀬戸内海と内陸の接点、貿易の玄関口として「天下の台所」と呼ばれ全国の物流、金融の中心地であった。商人、町人による独特の食文化や歌舞伎、浄瑠璃などの元禄文化が形成された。
■明治維新から近世
 明治新政府の大阪府設置で「大坂」から「大阪」に変わった。その理由は「坂」の字が武士が謀反を起こすと解釈できることや、「士」は土に返る=死は縁起が悪いなどが理由とされている。
 大阪商人は江戸末期に旧各藩や大名に貸した、3500両(35億円)もの債務を明治政府が帳消しとしたため、貸し倒れの大損失を受けるが、英国の大工業都市に匹敵する「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど成長。産業モノづくりの気質が根付いた。
 汚い大阪弁。実は河内弁で、芸能人が面白おかしく歪曲して創り出した。良くも悪くも気取らない庶民的な感覚、型にはまらない合理主義は数々の新技術、新商品を産みだした。その大阪発のヒット商品は「大阪くらしの今昔館」で数えきれないほど展示されている。

おまけ付きキャラメル:1927年(S2)グリゴーゲンから生まれた江崎グリコのキャラメルに、大阪造幣局で造られた銅製メダルのおまけを付けたがのが始まり。その後、子供が喜ぶ豆玩具になった。戦中、戦後の物資不足で一時中断するが、開発された玩具は3万種類55億個にもなる。
ホルモン焼き:大正時代から鳥獣肉や内臓などの、もつ鍋料理として存在していたそうだが、1937年(S12)大阪の洋食店北極星が始めてホルモン焼きをメニューにした。ホルモンはドイツ語の体内生理活性物であるが、大阪弁の「捨てるもん」、「放るもん」が語源となったなど諸説ある。
折る刃式カッターナイフ:板チョコとガラス切りがヒントになって、刃先をポキポキ折ることで切れ味を持続させるカッター。日本転写紙(NT)で働いていた岡田氏が発案して、NTカッターとして1959年(S34)発売した。後に折る刃がブランド名、会社名となるオルファ(株)を設立。国内シェアー60%、海外市場もほぼ独占している。
インスタントラーメン:1958年(S33)日清食品のチキンラーメンが発売された。その当時住んでいた高槻の自宅の近くに日清食品高槻工場があった。家の向かいに創業者の甥夫妻が住んでいて、発売までの苦労話を伝え聞いていた。その様子はNHK朝の連続放送テレビ「まんぷく」で放送(2018年)された。
回転寿司:東大阪市布施駅前の立ち食い寿司店、元禄産業が大勢の注文をさばくため、アサヒビール吹田工場のビール製造ベルトコンベアーをヒントに、一環50円の回転寿司店としたのが始まり。1970年の大阪万国博覧会に登場して一気に知名度が高まり、フランチャイズは一時全国200店舗にもおよんだ。
プレハブ住宅:1959年(S34)大和ハウスが戦後のベビーブームで急激に家族が増え、手狭になった住宅問題を解消するため、数時間で建つ子供の勉強部屋「ミゼットハウス」を発売して爆発的にヒットした。これがフレバブ住宅の原点となっている。
米飯保存食:1932年(S)尾西食品の創業者が、米の澱粉加工技術の開発とその工業化に成功。米に水を加えるだけで米飯にする乾燥飯を軍用保存食として生産化した。戦後「アルファ米(澱化)」として、非常用食や登山携帯、航空機食、乳幼児食など各方面に用途拡大。平常食としても利用が広がっている。
レトルト食品:1967年(S43)大塚食品はカレー粉の在庫に困ったことがきっかけとなって、パック入りボンカレーを世界で初めて販売した。これがレトルト食品の元祖とされている。
自動改札機:1968(S42)阪急電鉄と立石電機(京都市)の共同開発。大規模団地千里ニュータウンの乗降客で混雑する北千里駅の改札を効率的に裁くため、世界初の定期専用自動改札機10台が設置された。ほぼ同時期に近鉄電車阿倍野駅では切符専用の自動改札機が導入された。
カプセルホテル:1979年(S54)ニュ−ジャパン観光が梅田曽根崎の繁華街で、サウナと箱型簡易ベットを組み合わせた簡易ホテルを開業したのが始まりる。






大阪(大坂)城 

     

 日本三大名城(姫路城、熊本城)、大阪城のある上町台地付近は、4世紀末に仁徳天皇の難波高津宮があったと伝えられている。7世紀に孝徳天皇が日本最初の本格的な宮殿規模の前期難波宮(難波長柄豊崎宮)、8世紀に聖武天皇が後期難波宮を造営したことが発掘調査で確認されている。
 その後、1469年に浄土真宗の蓮如上人が、石山本願寺を築いて寺内町を形成したが、織田信長と11年間もの長の戦いの末、明け渡し炎上消失している。
 本能寺の変の翌年、この場所に豊臣秀吉が初代大坂城の築城を開始。淀川(大川)の水を引き込んで二重堀とした。外堀は最大90mに及ぶ。城域は現在の4倍以上あったとされ、完成には15年。天守閣の高さは約40m、天下統一を誇示するかのような豪華さを極めた。城外にも空堀を築き、寺院を集め、関の目や七曲がりを置き防備を固めた。
 秀吉亡きあと、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康。難攻不落の大坂城は正攻法では落とせない。1614年の大坂冬の陣の後、堀を埋め立てる策略で豊臣大阪城を丸裸にして、翌年の大坂夏の陣で落城させた。
 大坂城の再建に乗り出した徳川幕府は10年の歳月をかけ、今までの地盤から10m近く積み上げ約58mの天守閣を築く。それらを諸藩大名に課した。この徳川大坂城は明治維新の戦火や落雷で焼失してしまった。

<大阪城の建築費用>
 1931年(S6)に再建された大阪城天守閣の建築費用は、当時のお金で47万円であった。

 大林組が豊臣時代の本丸と内堀を現在の技術で再現した場合921億円。二の丸、櫓や門構え、石垣を加味すると1千億円を超えると試算している。
 徳川時代の大坂城は、豊臣時代の大坂城とほぼ同じ規模であったが、費用は2千億円に近い。新しい建築方式で、内外装が豪華であったためとされている。
  
 昭和初期に大阪市民の寄付で徳川時代の石垣の上に。鉄筋コンクリートの3代目大阪城が再建されたが、太平洋戦争の空襲で多聞櫓、二番櫓、三番櫓など多くの櫓を失っている。
 1959年(S34)に行われた学術調査で、9m下に豊臣時代の石垣があることが明らかとなった。大阪の陣から400年の節目、地中に眠る豊臣大坂城の石垣を掘り起しすプロジェクトが始まった。






石山(大坂)本願寺

 山科で本願寺を復興した本願寺8世蓮如上人は、1496年上町台地に大坂御坊を建て隠居所とした。
 蓮如上人の後、戦乱に巻き込まれた山科本願寺は1532年に焼失、その拠点を大坂御坊に移し石山本願寺と改め寺内町を形成した。
 しかし、石山本願寺は織田信長と11年におよぶ石山合戦の末に炎上。この跡地に豊臣秀吉が大坂城を築いた。大坂冬の陣と夏の陣で落城後、徳川2代将軍秀忠の頃、従来の基礎を再構築して徳川大坂城が再建された。
 そのため本願寺の場所は明確になっていないが城内あったことは確実とされ、大阪城南西端にある六番櫓の手前に石山本願寺推定地の石碑が建てられている。

       
      石山本願寺(大阪歴史博物館展示資料)






大阪 天満宮

 大阪天満宮は天神を祀る。
 菅原道真が大宰府で亡くなった(901年)後、道真が参拝した社殿が霊光を放ったと伝わり、その場所に天満宮が建てられた(949年)。これが大阪天満宮の始まりとされている。

 当代随一の学者で、宇多天皇の信任が厚かった菅原道真。右大臣に昇進するが、身分が高くないため左大臣の藤原時平や後の醍醐天皇らに敵視され、大宰府に左遷流罪されて失意のうちに亡くなる。その後、京の都では後醍醐天皇の皇子の病死、疫病の大流行、御所の落雷など天変地異が相次いだ。
 朝廷はこれらを菅原道真の祟りと恐れ、道真を赦免すると共に大宰府の道真の墓所に大宰府天満宮を建てた。京都では火雷神を祀る北野に天満宮を建て天満宮天神の称号を贈るなど、各地で天神社が建てられた。

     

 神道は日本古来の民俗信仰、自然信仰、日本神話などと関連しながら徐々に形成されてきたが、恨みを抱いて死んだ菅原道真の霊を鎮めるため、始めて実在した人物を、天におわす天神や火雷神信仰と菅原道真と結び付いて神道信仰となった。
 その後、豊臣秀吉を祀る豊国神社、徳川家康を祀る東照宮など権力者(人)を祀る神社ができた。それが明治維新とともに楠木正成を祀る湊川神社をはじめ、人を祀る新しい神社が次々と建てられ、やがて靖国神社や明治神宮ができる。






淀川 大改修

 大阪を代表する淀川。琵琶湖から瀬田川、宇治川となり、京都の鴨川や桂川と重なって、大和から下る木津川が山崎付近で合流。淀川と名前を変えて大阪湾に流れる。淀川はこの流域の形成と発展に大きな役割を果たしてきた一方、度重なる洪水との戦いでもあった。

 淀川改修の歴史は古く4世紀の仁徳天皇の時代まで遡り、古事記や日本書記に「茨田堤」の記録が残っている。

 渡来人の協力を得て、淀川の流れを河内湖に導く茨田堤が築かれた。これが日本最初の大規模治水事業とされている。
 現在、茨田堤の面影は淀川から3キロ程南、京阪大和田駅の北にある堤根神社境内に、僅かな土盛りを残すだけとなっている。

 その頃には「難波の堀江」と呼ばれる河内湖の排水路掘削が行われている。
 古代の大阪は上町台地のすぐ西側まで難波の海(大阪湾)が迫り、上町台地の東側は広大な湖を形成して河内湖(湾)や草香江などと呼ばれていた。河内湖は上流からの土石が次第に堆積していくが、上町台地に遮られた東大阪一帯は淀川や大和川などからの流入が続き、水はけの悪い湿地帯であった。
 日本書記では「高津宮の北を掘って、南の水(河内湖)を西の海(大阪湾)に入れる」との記録があり、難波の堀江は今の大川か寝屋川付近ではないかと考えられている。

  淀川から分流する寝屋川の太間配水機場付近に「茨田堤碑」が、太間天満宮の境内には茨田連杉子の「絶間伝説碑」などが残っている。
 豊臣時代に入ると宇治川と巨椋池を分離した「太閤堤」が築かれ、伏見城下に宇治川を引き込んで、太閤堤は新たに奈良街道として整備された。
 更に秀吉は淀川治水と、大坂への最短路を確保するため、枚方から長柄付近まで「文禄堤」を築いた。枚方宿周辺1キロ程に今もその面影を残している。

 徳川時代に入ると土木商人の河村瑞賢が、淀川河口の九条洲を開削、川筋を広げている。その後、淀川に流入していた大和川が切り離される「大和川付け替え」で淀川の洪水は一旦減少する。
 しかし、明治18年淀川大洪水で大阪市内に大きな被害が発生したことから、淀川の大規模改修が行われる。


新淀川の開削
 その頃の淀川は曲がりくねった細い神崎川、中津川、中島川などに分流して、毛馬から中之島に蛇行流入する現在の大川、安治川が淀川本流とされていた。

 そこで、オランダの技術支援を受けて、毛馬から蛇行していた中津川の川幅を広げ、ストレートに開削して大阪湾に流す新淀川が14年の歳月をかけて1909年(M42)に完成。旧淀川は大川と名前を変えた。
 そのため、毛馬・中津・十三・海老江地区は新淀川で埋まり街は南北に分断された。
 新北野や海老江公園にの淀川改修記念碑がある。 
 






大和川 付け替え

 現在の大和川は奈良県境の大阪府柏原市からほぼ真直ぐ西に下り、大阪湾に流れている。
 昔の旧大和川は柏原から北西や北方に、いく筋もの支流に分かれて東大阪の河内湖付近の湿地帯に流れ、京橋付近で淀川に合流していた。上町台地で遮られた東大阪周辺の湿地帯は、度重なる洪水に悩まされていた。

 河内湖や湿地帯の排水は、仁徳天皇時代(古墳時代中期)の「難波の堀江」掘削の他、桓武天皇時代(平安時代初期)に和気清麻呂が天王寺で掘削を試みたが、上町台地の固い地盤に遮られ中断している。
 天王寺公園の「河底池」はその跡とされ池を跨ぐ橋は和気橋、この付近には河堀や堀越の地名が残る。

         

 江戸時代に入っても繰り返される洪水で年貢が納められない事態が続いたため、元禄時代に至ってようやく幕府は付け替えを決定する。
 工事は柏原から西に大阪湾までの14キロを、幕府、岸和田、三田、明石、姫路藩らが工区を分担。延べ240万人を動員、8か月の驚異的なスピードで掘削された。しかし、地盤の硬い浅香山台地では進まず、この部分だけが曲がることになる。工期、経費がかさんだことから「浅香の千両曲がり」と呼ばれた。
 付け替え運動の中心的役割を果たし、工事の普請御用も勤めた地元今米の庄屋「中甚兵衛」は、その功績が認められ名字帯刀を許された。東大阪市の今米公園に記念碑が、柏原市安堂の治水記念公園に中甚兵衛の銅像が大和川に向かって建っている。
 大和川の付け替え後、河内湖は急速に縮小、新田開墾によって河内綿や稲作地帯に変わる。現在、河内湖の痕跡は、大東市の小さな「深野池」として残るだけとなっている。

      
               中甚兵衛像                       浅香の千両曲がり






 大阪歴史博物館 難波宮と大化の改新

◆大阪歴史博物館
 上町台地にある大阪城公園と難波宮跡地に歴史博物館が2001年(H13)建てられた。ここで大阪の古代から現代までの歴史、都市のあゆみ、発掘物や歴史資料などを一堂に知ることができる。
 歴史博物館10階には難波宮大極殿の原寸大が復元され、地下には発掘遺構が保存されている。建物の窓から大阪城と難波宮跡公園が見下ろせる。横を走る阪神高速東大阪線の高架橋は難波宮の遺跡を守るため、地下に杭を打ち込まない盛り土道路にしている。

   

◆難波宮
 難波宮は飛鳥時代から奈良時代にかけて置かれた、日本始めての本格的な唐様式の宮殿である。
 645年の「乙巳の変」後、前期難波宮で「大化の改新」の施策が行われた重要な場所。発掘調査で、大阪城南側の法円坂や大阪歴史博物館周辺に「前期難波宮(長柄豊崎宮)」と、「後期難波宮」の新旧宮殿が重なるように存在したことが明らかになっている。

◆乙巳の変
 7世紀、領土拡大を狙う唐の強い影響を受けていた日本では、天皇家と蘇我氏を中心とする豪族らの権力争いが続く不安定な状態にあった。特に、聖徳太子や推古天皇の死後、蘇我氏の権力が強まったことから、天皇中心の統一した国家体制を確立する必要があった。
 皇極天皇(35代)の飛鳥板葺宮で蘇我入鹿、蝦夷が中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足らに滅ぼされる乙巳の政変(645年)が起きた。

   

◆大化の改新
 脱蘇我氏によって天皇復権を果たし、即位した孝徳天皇(36代)は中大兄皇子を皇太子として、元号を大化と改めた。翌年、大化の改新の詔として(1)天皇中心の国家体制一元化。(2)土地の個人所有権廃止。(3)難波宮と地方国司の制定。(4)戸籍、班田収授、新税制度などを発した。
 この改革に相応しい本格的な宮殿規模の難波長柄豊崎宮(652年)が完成した。これが「前期難波宮」である。

         

 その後、壬申の乱(672年)を経て聖武天皇(45代)によって、焼失した前期難波宮とほぼ同じ場所に「後期難波宮」(726年)が造営された。この後、造営遷都した「平城京」(744年)と複都制であった。
 翌年、紫香楽宮に移り、同年には再び平城京に戻るなど頻繁に遷都を繰り返した。784年には桓武天皇(50代)が都を「長岡京」に移した。この時、難波宮を解体して長岡京に運んだ記録が残っている。






難波大道 (なにわだいどう)

 645年の乙巳の変で天皇復権を果した孝徳天皇は、皇太子の中大兄皇子らとともに難波に日本で最初の本格的な宮殿規模となる前期難波宮(長柄豊崎宮)を建設した。その南門の朱雀大路から真南に一直線に伸びる約12キロの道が「難波大道」とされている。
 推古天皇の613年「難波より都に至る大道を置く」と、日本書紀に難波大道の記録が残る。1980年(S55)の発掘調査で道幅18mの遺跡が発見されている。
 この頃の政治の中心、飛鳥から大和盆地を横断した横大路、更に堺まで日本最古の官道「丹比道(タジヒミチ)」と記録される竹内街道や、大津道が開かれ難波大道と繋がった。
 住吉津や難波津から、瀬戸内海貿易、大陸貿易、遣隋・唐使との交流路となった。難波宮や四天王寺造営資材の運搬路などにも利用されたと考えられている。

 現在、大阪市住吉区と東住吉区や、堺市と松原市との境界は難波大道を基に直線的に境界区分、周辺には大道の地名が幾つか残っている。






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