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歴史探訪−
三種の神器 と 皇位継承 

      

  継宮明仁天皇から浩宮徳仁(ナルヒト)天皇に皇位継承され、2019年に元号が「平成」から「令和」に変わった。皇室の皇位継承の中で欠くことができないのが「三種の神器」。高千穂や出雲、古代大和政権があった場所などを訪ねると必ず日本神話の天叢雲剣(草薙剣)や八咫鏡が登場する。そこで三種の神器と皇位継承につい
て整理してみた。 <2021.4.12>


T.三種の神器
 三種の神器とは、歴代天皇が継承してきた宝物の天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)、八咫鏡(ヤタノカガミ)、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)である。
 古来、天皇は王冠を冠らない代わりに三種の神器が天皇の証とされてきた。

 日本神話において天照大神が、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を地上に降臨(天孫降臨)させる際、授けたとされ、瓊瓊杵尊のひ孫の初代神武天皇から継承されてきた。
 「日本書記」では八尺瓊勾玉と八咫鏡は、天の岩屋に籠った天照大神を誘い出すのに使用された神器。天叢雲剣はスサノオ(素戔嗚尊、須佐之男)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したとき、その尾の中から得た剣とされている。
 剣、鏡、勾玉を尊ぶ風習は古代からあり古墳などから数多く出土している。
 剣は武器や力。鏡は太陽。勾玉はよくわかっていないが宝物、装飾品、魔除けなどと考えられている。
 これらは皇室特有のものではなく、支配層を象徴するものであった。
 儒学の伝来後、剣は勇、鏡は知、勾玉は仁の三徳とする解釈もされた。

◆天叢雲剣
 日本武尊が東征で、敵が放火した草をこの剣でなぎ払い、難を逃れたことから「草薙剣」と呼ばれる。

 崇神天皇(10代)の時、この剣を守るため分身(レプリカ)が作成された。これを天皇の側に置き、本来の草薙剣は天照大神の神魂の八咫鏡とともに笠縫村から伊賀、近江、美濃、尾張などを経由して崇神天皇の皇女倭姫が五十鈴川のほとりに祀った。これが伊勢神宮の起源と伝わる。
 景行天皇(11代)の時、東征に向かう景行天皇の皇子、日本武尊に伊勢神宮斎宮の倭姫がこの草薙剣を託した。東征を終えた日本武尊は尾張で、妃の宮酢媛(ミヤズヒメ)に剣を預けて、伊吹山で荒れる神を鎮めるために出向くが、病に倒れその帰路に亡くなる。妃は託された草薙剣を尾張に祀った。これが熱田神宮の始まりと伝えられている。
◆八咫鏡
 鏡造りの祖、伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)の作成とされる。天照大神が神魂を込めた最も重要な神器。草薙剣と同様、崇神天皇の時に分身のレプリカを天皇の側に置き、本来の鏡は草薙剣とともに各地を経て伊勢神宮の神体として祀られた。

◆八尺瓊勾玉
 玉造の祖とされる玉祖命(タマノオヤノミコト)の作成とする以外に諸説ある。三種の神器の内、唯一天皇の側に置かれた。勾玉と八咫鏡は天照大神が洞窟に隠れた天岩戸騒動の時に用いられた。


          

 崇神天皇の時、草薙剣と八咫鏡が天皇の側から離れたのは、天照大神の神魂が天皇と同居するのは恐れ多く、皇居とは別に神事ができるふさわしい場所に祀るためとする他に、疫病が広がり国内が乱れたことや、三種の神器の盗難を恐れ、本物がどこにあるのかわからないように各地を転々としたなど諸説ある。
 後の源平の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに三種の神器は関門海峡に沈む。大規模な捜索で箱に入った八尺瓊勾玉とレプリカの八咫鏡は見つかるが、草薙剣のレプリカは発見できなかった。そのため、伊勢神宮から贈られた別の宝剣が使われた。
 御所、伊勢神宮ともに何度もの火災によって三種の神器は焼け、損傷しているのではないかとされる一方、見てはならないものと伝わる。冷泉天皇が見ようとして止められたとか、明治天皇が見たいと希望したとも伝わるが定かでない。正月に飾るお鏡餅の丸い鏡餅は鏡、ミカンは勾玉、串柿は剣に見立ていると言われる。

U.皇位継承
 皇位継承の行事として剣璽等継承(ケンジトウショウケイ)の儀、即位礼正殿の儀、大嘗祭がその代表とされている。
◆剣璽等継承の儀
 剣は草薙剣。璽(ジ)は印章を表すが、ここでは八尺瓊勾玉を指す。この儀は新天皇が三種の神器を引き継ぐ皇室の行事であるが、これに国印である「国璽」と天皇印である「御璽(ギョジ)」を追加して国事行為として行われる。そのため国事行為とすることに賛否の見解がある。

 剣と玉は平素は天皇の寝室の隣「剣璽の間」に安置されているが、もう一つの八咫鏡は皇居内の宮中三殿と呼ばれる天照大神を祀る賢所に置かれている。
◆即位礼正殿の儀
 天皇に即位したことを披露する儀式で、国外の国王、元首や各界代表者を招いた国事行為として皇居正殿で行われる。天皇と皇后が昇る玉座「高御座(タカミクラ)と御帳台(ミチョウダイ)」は、その都度、京都御所の紫宸殿から皇居に運ばれる。

−天皇の玉座が京都御所に残る理由−
 維新後、明治天皇は江戸城に入って皇居とした(1869年)。この時、京都を都として残す形にして、江戸は京都に対して東の京という意味で東京と改められた。
 形式的には「東京遷都」ではなく、ちょっと東京に行ってきますとの意味で「東京行幸」と発表されている。以後、東京が首都と正式宣言されず、天皇の玉座は京都御所に置かれたままになっている。 


◆大嘗祭
 新天皇が天照大神などに新穀を供え、五穀豊穣や国民の安寧を祈る儀式、皇室の内輪の行事として行われる。7世紀にこの儀式の形が定まって天武天皇の時代から行われているが、形式は少しづつ変化しているらしい。




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