
−歴史探訪−
堀辰雄の晩年の随筆「浄瑠璃寺の春」を読んだが中学3年の国語の教科書であった。
浄瑠璃寺と馬酔木に興味を持ってその数年後、浄瑠璃寺の春を訪れている。それから
およそ半世紀ぶりぐらいの懐かしい訪問になる。 <2009.4.17>

■当尾の里
浄瑠璃寺のある木津市当尾地区はかっての山城国。京都の中心部から遠く離れ、地理的、文化的にはほとんど奈良。平城京や恭仁京宮もに近く、南都仏教の影響を受けてこの丘陵地周辺には、多くの寺院塔頭が建ち並んで尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれ、当尾(トウノ.トウオ)になったと伝わる。
その後、兵火でほとんど消失、奇跡的に浄瑠璃寺と岩船寺が残った。付近は石仏、磨崖仏が多く日本歴史風土百選に選ばれている。
大和路快速で加茂。ここから岩船寺に向かう。付近の石仏、磨崖仏を訪ねながらのどかな山村道を浄瑠璃寺まで歩く。妻は初めて訪れる場所。

■岩船寺
加茂からバスで15分程、丘陵地を少し登った岩船寺前で降りる。
奈良時代中期、聖武天皇の勅願によって行基が創立した阿弥陀堂がこの寺の前身。
当初は今の場所よりもう少し南の奈良県内にあったとされている。
鎌倉時代に現在地に移設、三十与もの塔頭が建ち並んだが、現在では池の背後に化粧直しされた朱色の三重塔(室町時代)と、十三重石塔(鎌倉時代)が残るだけの静かな佇まい。6月になると紫陽花が咲き多くの人で賑わう。 |
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■石仏の道
岩船寺から浄瑠璃寺にかけての丘陵地に石仏や磨崖仏が点在する。そのほとんどは鎌倉から室町時代にかけて造られたもで、銘彫のある石仏も多く貴重な歴史遺産になっている。
岩船寺から細い山道を下った岩壁に三体地蔵仏が彫られている。いずれも手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像で三体を過去・現在・未来に割り振ったと考えられている。地蔵菩薩は地獄の苦しみや、子供を救済する守り神、道祖神として信仰された。その先に大きな弥勒の辻磨崖仏もある。
笑い仏と呼ばれる阿弥陀三尊磨崖仏。ほほ笑んだ観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩の三体が並んで彫られている。鎌倉時代後期から長年間ほほ笑み続けている当尾を代表する石仏。その横で半身が土の中に埋まった地蔵菩薩は眠り仏と呼ばれている。

不動明王や二面磨崖仏、愛宕の灯篭と呼ばれる常夜灯などを通り過ごした先、ヤブ中の地蔵三尊磨崖仏は、地蔵菩薩、観音菩薩が並んで彫られ、もう一つの阿弥陀如来を彫った石を並べて配置。当尾地域で最も古い鎌倉中期のものとされている。いろいろな石仏と出会いながら浄瑠璃寺に向かう。
■浄瑠璃寺(九体寺)
浄瑠璃寺の参道に馬酔木(アセビ)が植わる。堀辰雄の紀行集「大和路・信濃路」の中の「浄瑠璃寺の春」。
堀は病身を押して夫人と共に訪れ「憧れの馬酔木の花」と表現しているスズランのような白い小さな小花を房状に付ける。馬が食べれば酔うことから名付けられたが、鹿も食べない。
堀が記した「馬酔木より低い門」、素朴で小さい山門。静かな境内の中央苑池の西側に西方浄土の阿弥陀堂では九体阿弥陀如来が並ぶ。東側の三重塔に東方浄土の薬師如来を配する平安時代の代表的な浄土式庭園である。
本尊は薬師如来と阿弥陀如来。寺名は薬師如来の「東方浄瑠璃世界」の浄瑠璃寺であるが、地元では九体の阿弥陀如来から九体寺と呼ばれている。
建物は平安時代後期の様式を残し、平安時代の三重塔として唯一残る貴重な国宝。

阿弥陀堂の阿弥陀如来九体仏が一直線に並ぶ荘厳さは魅了される。浄土宗や浄土真宗の仏説観無量寿経の阿弥陀如来の九品往生(上品上生、上品中生、上品下生。中品上生、中品中生、中品下生。下品上生、下品中生、下品下生)の浄土を意味する。これが上品、下品の言葉の由来になった。
平安時代の京都では阿弥陀如来九体仏が並ぶ九体堂や浄土式伽藍が多くあったが、戦乱などで消失。完全な形で残るのは浄瑠璃寺が唯一になった。
バス停まで、浄瑠璃寺道と呼ばれる小路に三体磨崖仏、笠の阿弥陀磨崖仏、お地蔵さんなどが点在。1丁(約109m)ごとに建てられた丁石笠塔婆も所々で残る。塔婆とは本来は釈迦の仏骨を納めた塔。後に中国や日本に伝わると三重塔、五重塔などに変化するが、鎌倉、室町時代の真言密教では空・風・火・水・地を表すとされる五輪塔が多く建てられた。高野山に行けば特に多く見られる。
当尾も開発が進み50年程前に訪れた時の素朴さは失われているが、石仏の表情や浄瑠璃寺境内のやすらぎのある雰囲気は変わっていない。穏やかな春の一日であった。
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