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歴史探訪−
ミステリー! 本能寺の変 

        

  戦国時代も終わりが近い1582年6月2日、家来が主君を討つ本能寺の変は日本中世史上最大のミステリーとされている。2020年のNHK大河ドラマ候補になっている。近辺のゆかりの歴史場所を訪れてみた。 <2018.6.1>


■織田信長の甲州征伐から西国出陣準備
 本能寺の変が発生する3か月前、織田信長は甲州征伐で武田勝頼親子を自害させ信濃、甲斐、駿河を制圧。この時、後方支援をした徳川家康に今川領の駿河を与え、4月21日に安土城に凱旋している。
 これで近畿、北陸、甲・信州をほぼ支配。東海の徳川や相模の北条とは同盟、九州の島津、大友も友好関係にある。敵対している越前の上杉には柴田勝家。関東の領地拡大に滝川一益。中国の毛利には羽柴秀吉の軍勢をそれぞれ派遣。四国の長曽我部に対しては神戸(織田)信孝の軍勢を派遣するため泉州で準備中であった。

 西国大勢力の毛利に対して羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにしていたが、こう着状態の上、後方の毛利本隊が動き出したため信長に援軍を請う必要に迫られていた。
 信長は朝廷と自身の冠位交渉、四国の長曽我部とは硬軟織り交ぜた瀬戸際外交を行っていた。
 5月15日から徳川家康と元武田の重臣 穴山梅雪らを安土城で饗応。京都や大阪、堺見物を進め、再び京都で落ち合う予定にしていた。 
  
 5月17日、備中の羽柴秀吉から援軍要請が届いた。明智光秀にその先陣を命じ、信長自身も出陣するため29日に京都本能寺に移った。
 本能寺の変の前日、6月1日は公家や長男の織田信忠らと茶会をしている。朝廷との冠位交渉や家康らとの再開、明智光秀と神戸信孝らの出陣検分をして、西国に出陣するものと思われた。

明智光秀
 光秀は清和源氏末裔の下級武士、土岐明智氏の出身とされる。斎藤道三や将軍足利義昭の家臣から織田信長の家臣に抜擢された。信長の正妻(斎藤道三の娘濃姫)と光秀は従妹、足利将軍や朝廷との人脈があり、茶道や和歌などもできる文武両道の知将とされている。

 光秀の重臣、丹波谷川黒井城主の斎藤利三の娘(福)は、毛利小早川家の重臣の稲葉正成の正妻。
 この稲葉正成は後の関ケ原の戦いで徳川方として功績を残している。福は後に、徳川3代将軍家光の乳母となり、大奥筆頭の春日局と呼ばれた人物
。更に、斎藤利三は四国の長曽我部とも遠縁にある。
 光秀は丹波福知山城主から亀山(亀岡)城主、近江大津坂本城主などに抜擢。丹後宮津城主(長岡)、大和郡山城主(筒井)、茨木城主(中川)、高槻城主(高山)、伊丹城主(池田)など畿内の有力武将を従えていた。


 明智光秀に中国出陣の指示が下った時、毛利領の伯耆、出雲の後方をかく乱して、出雲、石見領を与える代わりに近江、山城、丹波領を召し上げるとされ、これが謀反の動機とする見方もあるが、虚偽説もあり定かでない。出陣準備のため坂本城に帰って5月26日に丹波の亀山城に入る。


本能寺の変
 光秀は6月1日夕刻1万3千の手勢で亀山城を出陣する。西国に向かうには南下するが、何故か西国と反対の京都に向かった。
 信長の軍勢検分説の他に、従軍武士の記録には「徳川家康を討ち取るためでは」とあり、宣教師のフロイスも同様の記録を残している。
 明智軍記に記載の「敵は本能寺にあり」は、後で付け足されたとされている。

 当時の本能寺は現在地とは異なり四条堀川にあり、広大な敷地が堀と石垣に囲まれ、要塞のような寺構えで、周りに30余院を擁した大伽藍であった。

 2日未明、明智兵が本能寺を包囲して四方から攻め込み火をかける。本能寺には150人程の兵がいたが、制圧に4時間もかかっている。相当堅牢であったと考えられる。

 信長は抗しきれず本能寺の奥殿で自害、焼死したが遺体は明智軍に渡らなかった。阿弥陀寺の清玉上人が、本能寺の僧侶の協力を得て寺に持ち帰ったとされている。
 京都の妙覚寺にいた織田信忠は救援に向かうが、信長の自害を知り二条御所で籠城の末、多勢の明智軍に包囲され自害。信忠の遺体も上人に引き取られた。河原町今出川寺町の阿弥陀寺に信長親子、側近の森蘭丸や本能寺の変で亡くなった人達の墓がある。

■中国大返し、天王山の戦い
 本能寺を引き上げた光秀は5日に安土城に入った。遠方の織田の有力武将が引き返すには相当の日数がかかるとみて、8日坂本城、9日は京都で朝廷にもてはやされ、有力武将の取り込み工作が遅れた。
 一方、毛利と対峙していた羽柴秀吉が本能寺の変を知ったのは3日夕刻、明智光秀が毛利に送った密使を捕らえて知ったとされているが定かでない。これを伏せて4日に毛利と和睦。備中高松城主を切腹させ、水攻めにしていた堤防を切って撤退「中国大返し」と呼ばれる歴史上屈指の最速軍行が始まる。
 最近の調査から、織田信長の主力援軍を迎えるために途中の主要な城に大軍を受け入れる食料、宿泊施設などを準備してきたのが、この時に活用されたといわれている。

      

 備中高松城の撤退は梅雨の中、約80キロ先の姫路城に7日入城。遅れる殿や重装備の兵を待ち、体制を整えて9日朝、姫路城出発。同時に弔い合戦を大儀名分に、各方面に多数派工作を行っている。
 9日明石城、10日兵庫城、11日尼崎城、12日摂津富田まで進んで、翌13日の山崎天王山まで約200キロを8日間、1日25キロの移動。重装備の大軍は梅雨期のため困難を極めたと考えられるが、重装備類は海路で運ばれたとの説もある。
 中国大返の2万の秀吉勢は戦力として整わなかったが、四国出陣で待機中の神戸信孝、丹羽長秀や明智配下であった中川(茨木)、池田(伊丹)、高山(高槻)など畿内近隣の精鋭が秀吉に加担、4万に達した。

 光秀が秀吉の接近を知ったのは10日。急いで準備にかかるが、姻戚関係にある細川(丹後)は中立。筒井(大和)は洞ヶ峠を決め込むなど1万6千しか集まらなかった。
 12日から13日にかけて名神高速道路山崎JTC真下の小泉川を挟んで対峙するが、既に天王山や山崎の要所は地元の中川、高山勢らに陣取られ明智勢は劣勢。13日の夕刻、秀吉勢の総攻撃で明智勢は殲滅。世に言う「三日天下」で終わる。

   

■不明な謀反動機
 謀反の動機は未だに解明されていないが、光秀が懇意にしている足利将軍、長宗我部や朝廷に対して不敬すぎる信長の対応の他、光秀の野望、遺恨、恐怖、突発説などが指摘されている。
 光秀は信長の敵対勢力の足利幕府、毛利、長曽我部や朝廷との交渉役に抜擢、行政能力も長けたが、信長の力が強くなるに従って力ずくに変化、光秀の立場は次第に苦しくなくなってきた。
 信長の筆頭重臣で最大軍団の佐久間親子でも必要な役目を終えると追放。非戦闘員の僧侶さえ焼き殺す非情さやなど、律儀な光秀にとって恐怖。いつか自分も除外されるとの気持ちが生じた可能性が指摘されている。
 その頃、主な重臣達は地方に遠征中。近くには神戸(織田)信孝と光秀配下の北摂勢だけ。京都には小勢力の織田信忠しかいない。戦国時代にあって謀反の野望が生まれても不思議ではない。

■手際がよすぎる羽柴秀吉、徳川家康の不思議
 本能寺の変で最も勢力を伸ばした羽柴秀吉。中国大返しはあまりにも手際がよすぎる。本当に信長の援軍を必要としたのか。秀吉陰謀説もある。
 徳川家康は堺を見物していた2日の日中、早くも信長の死を知り最強の重臣50名らに守られ、伊賀の服部半蔵らの案内で京田辺、信楽(泊)、伊賀越え、亀山、白子から船などで4日岡崎に帰城。手際がよすぎる。

   ■安土城焼失
 主を失った豪華絢爛な安土城本丸天守は6月15日突然焼失する。

 初めて天守を持つ6層の独創的な城はわずか6年で失われる。野盗や土民による略奪放火ではないかとされているが原因は不明のまま。
 JR琵琶湖線安土から2キロ北の標高199mの安土山に石垣を残すだけであるが、周辺の城郭資料館、考古学博物館、信長の舘などで詳細を知ることができる。
 安土城再建の動きがある。東海道線や新幹線の車窓から眺められる日が来るかも知れない。



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