
−歴史探訪−

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長岡京遷都によって古墳時代から続いた大和の飛鳥京・藤原京さらに、平城京の奈良時代は終わる。長岡京に遷都した桓武天皇はその10年後、平安京に新たに大規模な都を造営した。以後、明治維新までの千年余、天皇が所在する都であり続けた京都。
武家政治の中心が鎌倉や江戸に移ってからも日本文化の中心地であった。平安京から始まる京都の主な歴史跡を訪ねて時系列的にまとめた。<2015.3.3> |
■平安京創生館
広大な平安京の跡は、所々に石碑が残るだけとなっているため、平安宮造酒司(ミキノツカサ)跡に建つ、京都市立平安京創生館を訪れ平安京の詳細を知ることから始めた。
■平城京の衰退
歴史を戻す。飛鳥時代に天智天皇(38代)と対立した大海人皇子(天武天皇)は壬申の乱で勝利。皇位についた天武・持統天皇(40.41代)は自身の血統である文武天皇(42代)の時に、平城京遷都を計画して唐モデルの宮殿建設を始める。元明天皇(43代)の時に遷都(710年)後、7代74年間続いた。
この間、律令体制を強化するため全国各地に国府を置いた。東大寺大仏殿を建立、国府のある各地に国分寺を建て仏教信仰を高めた。
しかし、仏教の政治関与が強まり、仏僧が天皇政治を主導する強権政治や、支配層の権力闘争、地方の反乱などで律令制は次第に緩む。飢餓、水利環境の悪化や疫病の流行、副都制(恭仁京、紫香楽宮、難波宮)でも混乱。仏教政治からの脱却や、より海に近い難波や淀川流域の地形的優位性が求められるようになった。
■平城京から長岡京・平安京遷都
光仁天皇の皇子で天智天皇のひ孫である桓武天皇は、平城京を脱して新たな土地で天智天皇系による都造りを模索した。桓武天皇は琵琶湖と海を結ぶ淀川水系にあり、水利と海上交通の便利性がよい。難波宮の宮殿を解体して長岡京に宮殿を移設した(784年)。
長岡京はわずか10年で遷都。その理由は諸説ある。桓武天皇の側近で長岡京遷都を進めた藤原種継が遷都反対派に暗殺される。その関与を疑われた早良親王が流罪となるが、無実を訴え断食自死。この後、皇后や近親者の不幸などが続いた。これらを早良親王の祟りと恐れた他に、桂川の水害説、本格的大規模な都とするための準備遷都説などがあり、794年上流の京都盆地に遷都された。
京都市のほぼ中央に所在した平安京。唐の長安をモデルに北の一条大路(一条通)から南の九条大路(九条通)まで5.2×4.5キロを碁盤の目に区画造営された。
北の真ん中に内裏(平安宮)を設け、その入口の朱雀門から平安京の南の入口となる羅城門まで幅84mの朱雀大路が貫いた。朱雀大路の東側を「左京」、西側を「右京」。今も内裏の北側を「上」、南側を「下」と呼ぶ。

(平安京創生館出典)
■神泉苑祭典は祇園祭の起源
これまで、遷都に伴い主要な寺院も同時に移設されたが、難波宮や長岡京、平安京では奈良からの寺院移設は禁止。認められたのは官寺として東寺と西寺だけであった。そのため、これまでの仏教文化の影響が薄れ平安貴族文化に移り変わっていく。
平安京の造営と同時に内裏に接して神泉苑が造成。天皇や貴族たちは舟を浮かべ雅楽や宴を楽しんだ。
その広大な苑池も中世以降は荒廃、徳川家康が二条城を造営した時、苑地の大部分が城内に取り込まれた。そのため現在の苑池は50m四方にも満たないが、御池通の名前の由来になっている。
その頃、京都や全国に疫病が流行したことから、朝廷は神泉苑にあった祇園社に鉾を立て、神輿を出して疫病退散を祈願した(869年)。これが祇園祭の起源になっている。
■平安京の衰退
その頃、金や鉄、馬などの資源を豊富に有する東北地方の蝦夷勢力の反乱が律令体制を揺るがした。
坂上田村麻呂を派遣、武力で一時的に鎮圧するが、反乱は収まらず兵力、資金調達の負担が重くのしかかる。また、広すぎた平安京は区画域に人家が収まらず、平安後期には西側の右京は衰退、南側の羅城門周辺は盗賊の棲家。京都の町は東側の左京が中心になった。

■六波羅蜜寺周辺は源平の舞台
六波羅蜜寺は浄土念仏の空也上人(醍醐天皇の第二皇子説)によって創建。西国三十三所観音札所としても知られる。この六波羅と呼ばれる東山五条周辺は、その後の京都歴史舞台で度々登場する。
平安京後期、朝廷内部の権力争いに武家の軍事力が求められるようになる。有力武家であった平清盛は朝廷との関係を深めて勢力を拡大、この地域一帯は平家一門の屋敷が建ち並んで「六波羅殿」と呼ばれた。
やがて平氏打倒の動きが起こり、後白河法皇の皇子 以仁(モチヒト)王の挙兵から源平の争いとなる。平家は壇ノ浦で滅んで源頼朝による鎌倉幕府が成立(1192年)。その後、京都朝廷が鎌倉討幕の兵を挙げる承久の乱が発生したことから、鎌倉幕府は朝廷や西国武家の監視のため、この地に「六波羅探題」を置いた。
■京都御所
平安京の内裏は何度も火災に見舞われ、鎌倉時代に焼失した後は再建されなかった。内裏が失われた場合に備えて建てられていた臨時の内裏が使われた。
鎌倉中期、臨時内裏の一つであった土御門(ツチミカド)東洞院殿で光厳天皇が即位、北朝最初の内裏となった。これが現在の京都御所。明治天皇の東京行幸まで約550年間にわたり使用され続けてきた。今の建物は幕末の頃に平安様式に倣って改装されたもの。
■南北朝から「花の御所」室町文化

後醍醐天皇が全国の武士に討幕の綸旨を発した「建武の中興」が引き金となって鎌倉幕府は滅びる。天皇による親政が始まるが、光明天皇(北朝2代)を擁立した足利尊氏が室町幕府を設立(1336年)。このため後醍醐天皇は京都を脱出、吉野に南朝を置いて南北朝時代に入る。
室町幕府は3代将軍足利義満の頃になって南北朝統一。足利将軍の邸宅と幕府庁舎の豪華な「花の御所」が北小路室町に造営された。しかし、戦乱で焼失、石碑が残るだけとなっている。
その東に足利3代将軍が創建した禅宗の相国寺がある。その頃に造成された金閣寺と銀閣寺はともに相国寺の塔頭寺院。これまでの公家文化と武家文化や禅宗の影響を受けて、漢詩、山水画、庭園造成を始め現代日本文化の基礎が形成された。
■応仁の乱から戦国時代突入
将軍家や室町幕府内の勢力争いから応仁の乱(1467年)が勃発。京都はその主戦場となり、貴重な建築物や文化財は大きな被害を受けた。相国寺北隣の御霊神社に応仁の乱勃発地の石碑がある。
応仁の乱をきっかけに戦国時代に突入。統一を目指した織田信長は本能寺の変で自害したが、当時の本能寺は周りに30余院を擁した大伽藍で全国に多くの末寺を持ち、種子島との繋がりもあった。本能寺を定宿としていた織田信長はいち早く種子島から鉄砲を導入、戦国時代の戦い方を変えた。
■京都の復興 豊臣から徳川幕府
桃山時代を築いた豊臣秀吉は伏見城から大坂城に拠点を移したが、平安宮跡に時の政庁となる聚楽第を建て京都市街地の整備を進めた。
その後、天下統一を果たした徳川家康は江戸幕府(1603年)を開く。京都には二条城を建て、御所の警護と上洛時の滞在場所とした。3代将軍家光は伏見城の遺構を二条城に移し本格的な城郭としたが、天守、本丸は落雷によって焼失しているため二の丸御殿のみ現存する。
■幕末の京都
国政の中心は江戸、商業の中心は大坂に移ったが、
京都には各藩の藩邸が置かれ、朝廷や各藩との外交の
場所として独自の地位を保っていた。
幕府は朝廷との交渉や監視、治安維持にあたる「京都所司代」を置いた。西国大名が京都朝廷と接触することを避けるため、参勤交代などで京都に入ることを禁じたが、幕末になるとその統制も崩れる。
情勢が緊迫、最高治安機関として会津藩主の松平容保を「京都守護職」として派遣。配下に京都所司代、町奉行、見回役、新選組らが、治安維持や過激派対策にあたった。その京都所司代跡が現在の京都府庁。
■新選組と壬生寺
14代将軍徳川家茂の上洛に際して、将軍警護のため募集した武装組織「壬生浪士組」が「新選組」に合流。最盛期は200名を超えた。拠点の壬生寺には新選組隊士塚や近藤勇像がある。
■明治維新
勤王・尊王・攘夷・佐幕と日本全国で様々な動きが繰り広げられた。
急進派の長州藩と京都守護職(会津藩)の蛤門の戦いの後、薩長同盟が成立、15代将軍徳川慶喜は二条城二の丸御殿の大広間に重臣や諸大名を集め大政奉還を決定。朝廷内の親幕派による幕府主導の政治を模索した。
対して急進派公家の岩倉具視らは薩摩、安芸、土佐、越前藩兵らを伴って参内、御所を閉鎖して「王政復古」を宣言するクーデターを起こした。これによって、江戸幕府の廃止、摂政、関白らの廃止、廃藩置県などを盛り込んだ明治新政府が発足する。 |
二条城における体制奉還図(明治神宮記念絵画館出典  |
1867年の大政奉還の翌年、戌辰戦争に発展する鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が天皇家の菊の紋を金色で描いた錦の御旗を掲げた。これによって母が公家、親天皇であった15代将軍徳川慶喜は一挙に朝敵にされてしまう。
1年半続いた戊辰戦争が終結。江戸城明け渡し後、明治天皇は江戸城に入って皇居とした(1869年)。この時、京都を都として残す形にして、江戸は京都に対して東の京という意味で東京と改められ、「東京遷都」ではなく「東京奠都(テント)」とされた。遷都は前の都は廃止して新たな都を設ける。対して、奠都は新たな都とするを意味して、京都の都は廃止されず、ちょっと東京に行ってきますの意味で「東京行幸」と発表されている。
以後も東京が首都と正式宣言されていない。天皇皇后の玉座は今でも京都御所紫宸殿に置かれ、新天皇の即位式のたびに京都御所から輸送される。
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