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歴史探訪−
奈良の都 平城京 & 西ノ京
710年に奈良盆地にひらかれた平城京は74年間日本の首都であった。歴史上では奈良時代や南都と呼ばれる。その中心となる宮殿は近鉄奈良線西大寺の東側一帯にあり、国営史跡公園として遺跡の調査と保存、復元が進められている。
宮殿の中央から南北に貫く朱雀大路の東側(左京)は現在の奈良の中心地、JRや近鉄駅、県庁・市庁舎、東大寺、春日大社などがあり観光客で賑わっている。
一方、西側(右京)は西大寺、喜光寺、唐招提寺、薬師寺などの大寺院が建ち並び「
西ノ京
」と呼ばれる。
その中心が薬師寺。なかでも創建当時から唯一1300年の時をつないできた東塔。痛みが酷いため解体修理されていたが、このほど12年ぶりに白鳳時代の姿を取り戻した。待ち望んだ東西両塔がそろった西ノ京から平城京跡までの歴史道を巡った。<2022.5.27>
■東西両塔そろう薬師寺
近鉄橿原線の西ノ京で降りて大池に向かう。池の向こうに薬師寺金堂、東塔、西塔、そのバックに春日山や若草山が広がる眺望スポットとして観光パンフレットなどでもよく登場する場所。
これまで解体修理中の東塔の巨大カバーのため眺望は台無し、若草山の山焼きや花火なども遮られて見ることができなかった。
薬師寺は天武天皇(40代)の発願で、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して薬師如来を本尊として、697年に飛鳥(畝傍)で建立(本薬師寺)したことに始まる。平城京遷都(710年)で現在地に移された。
南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、回廊に囲まれた中に東塔と西塔を配する白鳳伽藍は南都七大寺の中で随一を誇った。しかし、戦国時代に東塔を残して焼失。昭和になって順次再建された。
唯一残った白鳳時代の東塔。三重塔であるが各層間に小さな屋根、裳階(モコシ)を付けるため、六重に見える独特の建築様式。
現在、国内で東塔・西塔が揃うのは、薬師寺と當麻寺しかない。
■鑑真の唐招提寺
土壁や松並木が続く道を北上すると唐招提寺。753年に来日した唐の帰化高僧 鑑真(ガンジン)の邸宅を寺として創建(763年)された。
聖武天皇(45代)は、奈良時代の仏教界の乱れを正すため遣唐使を派遣、鑑真の来日を要請した。鑑真は唐の玄宗皇帝の反対を押し切って弟子らと出航したが捕まったり、暴風雨などで何度も失敗。6度目の挑戦でようやく来日した。苦難の密航で失明するが、東大寺の戒壇院を建て戒壇制度を確立。唐招提寺で生涯を終える。境内に鑑真廟と御影堂が建てられている。
現在の唐招提寺伽藍は平安時代のもの。その後の戦乱や火災で焼失することなく当時の姿を残している。
■喜光寺(菅原寺)は試し大仏殿
菅原の里に東大寺大仏殿を小ぶりにしたような喜光寺がある。奈良時代の高僧で建築、架橋、土木工事や社会事業などに貢献した僧 行基の創建(721年)。行基が東大寺を建立するための活動拠点であり、東大寺大仏殿の模型として建てられた試しの大仏殿とも呼ばれる。
一方、用明天皇(31代)の勅願寺として創建されたとの記録があり、菅原の里にあることから菅原寺と呼ばれていた。その後の神仏分離令で喜光寺と菅原天満宮に分離された。
■菅原道真誕生地
喜光寺の隣が菅原天満宮。菅原道真誕生地、日本最古の天満宮とされている。
4世紀始め、垂仁天皇(11代)の時代に出雲の豪族 野見宿祢と、大和の豪族 當麻蹴速が相撲のルーツとなる格闘をして野見宿祢が勝利した。垂仁天皇に仕えた野見宿祢は垂仁天皇の皇后が崩御した時、陵墓に殉死者を埋める代わりに土器で造った人馬を埋めることを提案した。これが埴輪の起源とされ、この功績で「土師」姓(古墳、石材、土器、葬祭を司る)を賜ると日本書記に記されている。
その土師氏の一族がこの菅原地区に住んで菅原姓を名乗る。それから3代後(野見宿祢から16代後)、菅原道真がこの地で誕生したと伝わる。ただ、京都菅原天満宮にも道真誕生の産湯跡があり、出生の正確な資料はないとされている。
■西大寺の大茶盛
1キロ程北上すると西大寺。称徳天皇(48代)の発願により、平城京の西方に東大寺と対峙する西大寺が創建(765年)された。当時は100余もの塔頭を持つ大伽藍であったが再三の火災で焼失、鎌倉時代以後に再建された本堂、愛染堂などが残るだけとなっている。
毎年1月に行われる大茶盛。30cm径、数キロもある大茶碗を3人がかりで飲む行事が有名である。
■奈良の都 平城京
西大寺の東方に広がる平城京跡。710年、元明天皇(43代)は律令制に基ずく新たな中央集権国家とするため藤原京から遷都した。唐の長安を参考にして約5キロ四方。その入口に羅城門があり、長さ4キロ、幅20mの朱雀大路が南北に中央を貫いた。
朱雀大路の突き当たりの北の端に政治の中心となる平城宮が置かれ、その正門が朱雀門。約1キロ四方の平城宮内には大極殿のほか天皇の住居である内裏と、その周囲には役所が立ち並んだ。
現在も遺跡の調査が進み、朱雀門や大極殿などが復元されているが、この世界遺産を分断するように近鉄電車が走る。そのため線路移設の協議が続いている。
■藤原京からの平城京へ遷都
持統(41代)、文武(42代)、元明(43代)と3代16年間の短い藤原京。律令制度を整備した高級官僚、藤原不比等は自分の娘を文武天皇の皇后として入内させ、天皇との姻戚関係を強化した。
朝鮮の都城を模した古い藤原京は、大和三山を取り込んだ窮屈な地形、排水などのインフラの劣化や、武力を持つ物部氏や蘇我氏などの豪族がひしめく危険な飛鳥に近すぎる。
藤原不比等は異権力の排除と孫にある首(オビト)皇子(後の聖武天皇)のため、唐の長安を模した新しい都の造成を必要としていた。おりしも飢餓、疫病が流行した藤原京を廃して平城京に遷都した。