表紙に戻る

       −歴史探訪−
倭国から日本国へ 藤原京 と 大宝律令

      

  広くはない飛鳥盆地で天皇が代わる度に宮殿を替えてきたてきた時代から、中国様式の
本格的な宮殿を模索した都を飛鳥の北の藤井ヶ原に造営。天皇を中心とする中央集権国家体制の仕組みを確立するため律令制度(大宝律令)を定め、国名を倭国から日本(日の昇る国、日のもと)と国内外に発した。日本古代歴史の変革期として欠くことができない藤原京を訪れ、律令制度について触れてみた。
<2022.3.30>

        <北><南>

 飛鳥時代から奈良時代に移り変わる過渡期、わずか17年であるが持統、文武、元明天皇の三代の本格的な天皇宮殿であった藤原京。JR万葉まほろば線(桜井線)の畝傍駅から2キロ程。大和三山の畝傍山、耳成山、香久山を配する藤井ヶ原の真ん中、飛鳥川の畔にその遺構を残す。
 訪れたのは、寒かった冬がようやく過ぎた春爛漫の日。大規模宮殿中央の宮殿跡から北方の醍醐池では、菜の花の絨毯を取り囲むように桜が咲く。夏になると蓮、秋はコスモが見られる。

■飛鳥時代からの脱却
 6世紀末から7世紀末までの約100年間の飛鳥時代は、崇神天皇(32代)から持統天皇(41代)まで10代の天皇が変わるたびに新たな宮殿が造営されてきた。その間に仏教が伝来し、豪族間の勢力争いなどが盛んな中、聖徳太子の「大化の改新」や中大兄皇子らによる「乙巳の変」を経て、豪族支配から脱却を図る天皇中心の中央集権国家に移る変革期を迎える。
 天智天皇(38代)が崩御後、「壬申の乱」で勝利した天武天皇(40代)は飛鳥浄御原宮で即位(673年)。中央集権体制の構築に取りかかる。唐の律令制度を参考に「」と「」に基づいた抜本的な制度改革として、新国家に相応しい法典の編纂を刑部新王(忍壁皇子)と、藤原不比等らに命じた(681年)。
 同時に、新体制に相応しい唐様式の恒久的な大規模宮都の造営を、飛鳥を離れた藤原の地で開始。天武天皇の崩御で一時中断するが、天皇の意思を受け継いだ持統天皇(41代)は、完成した藤原京に遷都(694年)。

  

■藤原京
 北西に約4キロ。畝傍、耳成、香久山の大和三山の中間に藤原京があった。発掘当初は約2キロ四方とされていたが、拡大調査で平城京や平安京に近い規模であることが判明した。
 唐の都の長安城を参考に東西路を「条」、南北路を「坊」とする「条坊制」として、北の端の醍醐池から南に猪使門、皇居に相当する内裏、大極殿を置き、国家儀式を行う朝堂院が続く。中央を貫く朱雀大路を設け、東側を「左京」、西側を「右京」として、格子状に整然と区画整理したこれまでにない本格的宮城としたが、羅城門や城壁はなかった。その詳細は、香久山にある奈良文化財研究所藤原京跡資料室で知ることができる。
 藤原京遷都後、持統天皇は退位。皇太子の草壁皇子の子で天武・持統天皇の直系の孫の軽皇子が、文武天皇(42代)として皇位を継いだ(697年)。退位した持統は上皇后として若い文武天皇を補佐した。
 この時、持統天皇退位後、皇太子の草壁皇子が皇位を継がなかった理由は、父の天武天皇が崩御直後、草壁皇子に次ぐ皇位継承者で評判が高かった異母兄弟の大津皇子が、謀反の罪で処刑されたことに対する朝廷内の反感に考慮して辞退したと考えられている。

大宝律令・律令国家
 編纂には持統の皇子の刑部新王(忍壁皇子)をトップに、実務は藤原不比等を中心に、官僚や唐出身者らで構成。唐の制度を参考に日本の国状に沿って検討された。
 20年もの年月を経て新しい国家の仕組みを制定した「大宝律令」が完成。文武天皇によって発令施行(701年)された。これによって、大化の改新(645年)以来めざしてきた、天皇中心とする中央集権支配体制の律令国家が半世紀の時を経て成立したとみなされた。
 その大宝律令とは、律(刑法)6巻、令(行政組織、租税、労役)11巻から成る日本最初の本格的な法令とされ、鞭打ち、懲役、島流し、死刑などの律(刑法)。中央に2官8省、地方は五畿七道として国、郡、里に分け中央から派遣された国司、里長を監督する官僚機構を骨格とする中央集権国家体制とした。人民には田畑を与え(稲)、(ヨウ:労役)、調(特産物)の他に兵役、租税を課した。
 翌702年遣唐使を派遣、従来の倭国から日本国(日の昇る国、日のもと)の成立を宣言している。

■藤原不比等の影響力
 大宝律令の実務主導者の藤原不比等は、中大兄皇子と共に乙巳の変、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の次男。持統天皇の女官で敏達天皇(30代)の祖系にあたる橘三千代と再婚、皇太子の草壁皇子の側近として頭角を現し、地位を確立する。
 さらに、不比等の長女の宮子を入内させ文武天皇の皇后に。天皇と宮子の間に首(オビト)皇子が生れ、成人して聖武天皇(45代)となると、不比等の次女の光明子(コウミョウシ)を聖武天皇の皇后(光明皇后)にした。生れた皇女は後に孝謙天皇(46代)・称徳天皇(48代)となるなど、不比等の宮廷内での影響力は強大化する。
 藤原京は次第に欠陥が露呈してきたため平城京への遷都を主導。完成した平城京では大極殿の東に広大な不比等邸を建てた。光明子が光明皇后になると邸宅を皇后宮に改築。聖武天皇が総国分寺として東大寺を創建すると、皇后宮に総尼国分寺とする法華寺を創建。さらに、京都山科の藤原鎌足邸宅にあった寺を、平城京が見下ろせる高台の移して氏寺としたのが現存の興福寺であり、春日野に広がる春日大社は氏神である。
 不比等は晩年に大宝律令を補完した「養老律令」の編纂に取りかかる。この律令が施行(720年)される直前に亡くなるが、藤原氏繁栄の基礎を固めた。
 不比等から10代後、平安時代中期の藤原道長は、天皇の外祖父として摂政政治を頂点に導いた。「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」と有名な和歌を残している。

藤原京の終焉・平城京遷都

 藤原京は三代17年で新たな平城京に遷都する。その理由には諸説ある。
 (1) 大和三山に囲まれた窮屈な地形で、汚水の流れなどインフラが劣化、衛生状態が悪くなった。
 (2) 633年の朝鮮半島白村江の戦(日本-百済連合軍と唐-新羅連合軍)で唐に大敗後、遣唐使が途絶えていたため唐の様子が伝わらなかった。704年に派遣した遣唐使の情報から、藤原京は長安の都形式とは異なり百済の造りに近いことが判明した。
 (3) 武力を持つ物部氏や蘇我氏などの旧勢力を一掃しきれず、律令支配が十分に行き渡らなかった。
 この様な状況から、草壁皇太子妃の元明天皇(43代)は、藤原京から離れた奈良盆地に唐の長安城を模した新しい都を造成して遷都(710年)した。




                              表紙に戻る