
−歴史探訪−

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日本史に魅せられるきっかけとなったの「飛鳥」と「法隆寺二寺説論争」である。
飛鳥時代初期、推古天皇の摂政であった聖徳太子は政情不安定な飛鳥を離れ斑鳩の地に宮を設けて政務をした。この地域には法隆寺・法起寺・法輪寺など聖徳太子ゆかりの寺院がある。中でも法隆寺の再建説、非再建説、二寺併立説など学術論争が続いている。
斑鳩の秋といえばコスモスと柿であるが、風に吹かれてどこからともなく金木犀の香が漂うのどかな田園に、美しい塔が点在するいにしえの里を巡った。 <2016.10.20> |

■法起寺
スタートはJR大和路線法隆寺。真っ直ぐ1キロほど北上すると松並木の先に法隆寺南大門がある。
ここから3キロほど先、岡本地区にある法起寺を目指す。法起寺の三重塔を背景に見頃を迎えたコスモス、午前中が順光になる。
田畑一面に植えられたコスモス畑に斑鳩巡りの人達が次々と訪れる。絵を描く人、写真を撮る人など様々である。背後の法起寺は637年に創建されている。塔と金堂の位置が法隆寺とは逆の法起寺式伽藍配置と称される。国宝の三重塔は706年に完成したとみられている。
江戸時代と昭和中期に修理されているが、現存する三重塔としては日本最古。高さ24m。初層と二層の間隔が三間に対して、二層と三層の間隔が二間と短いのが特徴となっている。
この地は、聖徳太子の岡本宮があった場所。聖徳太子の遺言に従い山背大兄皇子が寺に改めたと伝わる。

日本最古 法起寺三重塔 法輪寺三重塔
■法輪寺
法起寺から西に少し離れた三井地区にある法輪寺は三井寺とも呼ばれる。山背大兄皇子が父の聖徳太子の病気平癒を祈願して622年に建立したと伝わる。伽藍配置は法起寺と異なり、法隆寺式となっている。
発掘調査で7世紀中期頃の遣構た瓦が出土。三重塔は法起寺と同じ高さ24m。国宝であったが落雷で焼失(1944年)。1970(S50)に再建された。金堂、講堂、南大門は江戸期中期再建されている。
■中宮寺
田園地帯を西に1キロ程で中宮寺の伽藍が現れる。聖徳太子が母の穴穂部間人皇后の宮殿跡を寺院したと伝わる。創建当初は立派な四天王寺式伽藍であったが荒廃。室町時代に復興。江戸時代初期に後伏見天皇の皇女を迎えてから、代々皇室系の門跡となり、昭和期に法隆寺東院夢殿の一角に本殿が移設再建された。
この寺には飛鳥時代の美しい国宝仏がある。有名な本尊如意輪観音菩薩半跏思椎(ハンカシユイ)像はモナリザ、ダビンチに匹敵する東洋の代表とされている。
■法隆寺東院(夢殿)
法隆寺は少しこじんまりした東院伽藍と、大規模な西院伽藍とから構成されている。
東院の中心が上宮王院夢殿と呼ばれる八角円堂。この場所には7世紀初期(610年)に建てられた聖徳太子とその一族の住居の斑鳩宮があった。聖徳太子が没後、山背大兄皇子がこの跡を継ぐが、蘇我入鹿との権力争いに敗れて一族が滅亡した後は荒廃する。
奈良時代になって、聖徳太子の業績を偲んでこの場所に上宮王院が建てられた(739年)。その中心が太子の廟堂となる八角円堂で、かって太子が「夢の中で金仏に出会った」と言い残されてきたことから夢殿と呼ばれるようになる。現在の建物は鎌倉時代に大改造されたもの。
夢殿の本尊の救世観音立像は、聖徳太子の姿を写した等身大像と伝えられ、白布で全体を何重にも巻かれ長年間秘仏とされてきた。明治時代に全国の古美術調査をしてい岡倉天心、フエノロサ(米)によって、始めて白布が取り除かれた。この時、僧侶達は恐れ慄いて逃げ出したと、伝説的に伝わる。現在も秘仏扱いとされ、殆ど拝観することはできない。

法隆寺 東院(夢殿) 法隆寺 西院伽藍
■法隆寺西院
東院から塔頭寺院の長い壁を抜けて西院に向かう。
法隆寺は7世紀初期に創建、西院と東院から構成される。現在の西院は7世紀後半から8世紀初期にかけて再建された世界最古の木造建築で、中国や朝鮮にも残存しない建築様式として往時の姿を今に残し、日本で最初に世界遺産に登録された。パルテノン宮殿(ギリシャ)、サンピエトロ大聖堂(バチカン)と並んで世界三大宗教空間と呼ばれている。
創建は用明天皇(21代)の皇子の聖徳太子が飛鳥を離れて、斑鳩宮(法隆寺東院)を造営した。その隣接地に推古天皇(23代)と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで、薬師如来を本尊とする斑鳩寺を607年に創建したと伝わる。金堂の薬師如来座像の光背銘に刻されていることがその根拠となっている。
本尊は金堂中の間の釈迦如来三尊、東の間の薬師如来、西の間の阿弥陀如来の三体。中門から回廊で囲むように金堂と塔を東西に配置した法隆寺式伽藍配置。五重塔・金堂・中門・回廊が飛鳥時代。大講堂が平安時代。南大門は室町時代の建造物である。
■法隆寺再建説と非再建説の謎
日本歴史の正史である日本書紀に、斑鳩寺の創建記録がなく670年に落雷により焼失したと記録されているだけ。そのため再建説、非再建説、二寺併立説などの論争が続いている。

その論争に大きなインパクトを与えたのが、1934年(S14)から行われた発掘調査で、現在の西院伽藍より南東に大規模な伽藍配置跡が発見された。これが若草伽藍と呼ばれる初期の斑鳩寺跡で670年の落雷で焼失したため、その後、現在の西院伽藍が再建されたとする説が有力となった。
ところが、2001年(H13)に奈良文化財研究所が五重塔の芯柱を年輪年代法で分析した結果、594年に伐採されたヒノキであることが判明、再び非再建論や二寺併立説論争に火をつけた。
(1)その芯柱が伐採から1世紀以上も使用されず、放置されるのは不自然。
(2)芯柱の年代は金堂の薬師如来座像の光背銘に刻されている607年創建の斑鳩寺に近似する。
(3)現在の法隆寺は770年の焼失後に建てられたものではなく、もっと古いのではないか。
その後、2004年(H16)の拡大再発掘調査で、この論争にほぼ終止符がうたれようとしている。
高温で焼かれた壁画や土壁、7世紀初期の飛鳥様式の瓦などが大量に出土した。さらに、若草伽藍跡の寺域が今の西院伽藍に一部が重なることなどが改めて確実となり、西院の再建説が有力になってきている。
607年創建、670年焼失後、聖徳太子信仰が高まりだした天武天皇の711年頃に金堂・五重塔・中門が再建。平安時代に現在の西院伽藍の形が整ったとの説である。
■藤の木古墳
法隆寺南大門をでると西里地区。法隆寺を守り続けてきた宮大工や職人などが住んていた集落、法隆寺や薬師寺などの多くの社寺の復元を手がけた宮大工の棟梁、西岡氏の表札が見られる。
この集落を抜けるとコスモス畑に囲まれた藤の木古墳。1985年(S60)未盗掘の状態で2体の人骨と共に煌びやかな副葬品が多数発見され国宝に指定された。古墳時代後期の円墳のため天皇に次ぐ地位にあり、ヤマト政権を支えた人物で、この頃に蘇我馬子に暗殺された聖徳太子の叔父の穴穂部皇子や、宅部(ヤカベ)皇子ではないかと推定されているが異説もある。
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