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歴史探訪-
天下分け目 関ケ原の戦い

       

  関ケ原は岐阜県美濃の西端、近江に接する伊吹山と、鈴鹿山系に挟まれた小台地で中山道、北国街道、伊勢街道が交わる重要路にある。ここを主戦場として行われた天下分け目の野戦を征した徳川家康が江戸幕府をひらく分岐点、日本歴史上避けて通れない出来事である。 <2023.10.2>


■関ケ原の由来と壬申の乱
 関ケ原の地名は壬申の乱(672年)で設置された不破関に由来する。大化の改新の後、天智天皇の後継を巡って大友皇子(天皇の長子)と大海人皇太子(天皇の異母弟)の覇権争いが起き、大友皇子が東国から兵力を募ることを遮るためや、畿内の反乱者の逃亡を防ぐため不破関、鈴鹿関、愛発関(越前と近江の国境)を設けた。

 吉野山で挙兵した大海人皇太子は伊賀、美濃を北上。近江宮の大友皇子軍は中山道を北上して関ケ原で戦闘となる。大友皇子軍は敗北。勝利した大海人皇太子は飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位。律令体制と中央集権制を進めた。

■関ケ原の地形配置
     

 関ケ原は東西10km、南北3km、標高150m前後の台地。この中に標高300~400mの小山が点在する。駅前で電動アシスト自転車を借り、古戦場記念館と歴史民族学習館で情報収集してから周辺を巡る。


■戦い背景と序盤
 豊臣秀吉後、幼い豊臣秀頼を補佐する主要大名(徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝ら)と、豊臣側近の五奉行(浅野長政、石田三成、大谷吉継、増田長盛、長束正家ら)の集団運営となる。
 しかし、大名間の覇権争い。豊臣側近の行政派や朝鮮出兵時の豊臣家臣間の対立などが起こる。

 重きをなしていた前田利家が病没後、伏見にいた徳川家康は大坂城に乗り込み、独断決定や多数派工作を進めたため、反発した上杉景勝は会津に帰国して挙兵する。

 1600年6月、家康は会津上杉征伐のため大坂城を離れ東国に向かう。この家康の留守中に石田、大谷らが毛利輝元を担ぎ出して西軍が挙兵。
 7月末、家康は上杉征伐を中断して江戸に戻り、先鋒隊として重臣の井伊、本多軍、豊臣恩顧でも親徳川の福島、池田軍らを西進させる。家康も9月1日、3万余の手勢で江戸を出発。9月13日岐阜城に到着。大垣城の石田、宇喜多軍らの西軍と対峙する。
 西軍は関ケ原の松尾山を堅固な山城要塞にしていて、ここに西軍総大将の毛利輝元を大坂城から迎える予定であったが、14日突然、小早川秀秋軍1.5万が松尾山の守備隊を追いだして占拠してしまう。
 小早川は毛利の親戚、分家にあたるが、秀秋は豊臣秀吉の正室高台院の甥、高台院と共に東西どちらにも去就を明らかにしていない。石田三成は秀秋を味方にする説得しようとしていた矢先であった。
 さらに、東軍は大垣城を飛ばして近江佐和山城を落とし、大坂城を目指しているとの流言が広がり、西軍は14日急いで大垣城を退去、関ケ原に向かった。これを見届けた東軍は後追いして関ケ原に迫る。この急な展開に秀秋を説得できないまま15日を迎える。

  

■本戦突入
 西軍は北国街道、中山道が交わる地点に石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、島津義弘軍ら4万が中心。伊勢街道の南宮山に先鋒体の吉川広家軍、本陣の毛利秀元軍、その後方に長宗我部盛親、安国寺恵瓊(エケイ)、長束正家軍ら2.8万。成就がはっきりしないが松尾山の小早川秀秋軍1.5万を含めて、合計8万余になる。
 西軍総大将の毛利輝元は吉川や家臣団の反対を押切り、強硬派の石田や安国寺に担がれ、豊臣秀頼の警護を名目に7月末、大坂城に3万余で入城。養子の秀元を関ケ原に派遣、自身は大坂城から動かなかった。
 一方の東軍は桃配山に徳川家康の本隊3万、その全面に4.5万、後方に1.5万。合計9万。中山道経由の徳川秀忠軍3万余は、信州上田で真田の抵抗に遭い関ケ原に着くのは遅れた。

 9月15日朝、両軍が正面衝突。西軍は東軍を取り囲む様な状態でやや有利に進みながら、一進一退の膠着状態となる。ここで、西軍は南宮山の毛利秀元や長宗我部らが、東軍後方に攻撃を仕掛けようとしたが、その先鋒隊の吉川に進路を遮られて動けなかった。
 吉川は、事前に東軍と通じて、毛利の戦闘不参加と引き換えに毛利領安泰の密約を徳川方と交わしていた。また、松尾山の小早川秀秋も西軍からの脱離を家康に伝えていたのである。
 正午、小早川軍が松尾山を下りて西軍を攻撃したため総崩れに陥る。家康が鉄砲を撃って督促したかどうかは確証はない。南宮山の吉川、毛利、長宗我部は動くことなく、勝敗は半日で決着した。結果的に実参戦は西軍4万に対して東軍9万の大差になった。

■戦後処理
 敗走した石田、小西、安国寺らはは捕まり、京六条河原で斬首。大谷は戦場で自害した。
 毛利に対する処分は吉川広家の努力で、毛利領土安堵の確約を得て帰国。変わって家康、秀忠が大坂城に入城する。しかし、その後に輝元の戦意を示す書状が発覚したため毛利は改易、領土没収になる。吉川には周防、長門2国を与えられた。
 困った吉川は再度、家康に懇願の結果、毛利は安芸山陽、山陰(120万石)からの周防、長門(30万石)に減封。吉川は岩国(3万石)になった。
 敗走した島津は唯一減封されなかった。薩摩に匿われていた宇喜多は江戸引き渡し後、八丈島流罪。上杉は会津(120万石)から米沢(30万石)に減封。土佐の長宗我部はお家取り潰し。大坂の陣で捕らえられ処刑。

 一方、徳川家臣は譜代大名として江戸を守る重要藩の城主に。東軍として参戦した豊臣恩顧の武将、池田は姫路城主。福島は広島城主。黒田は福岡城主。浅野は和歌山城主。加藤は熊本城主(清正の死後、細川が城主)など、西国外様大名ながら加増された。

      

■関ケ原の戦いで生れた「宰相殿の空弁当」
 吉川広家に進路を遮られ、動けなかった毛利秀元のもとに長宗我部、安国寺が参戦督促の急使を送った。困った秀元は「兵卒に兵糧を食させている最中なり」と言って時間稼ぎをした。秀元の官位が正三位参議(宰相)であったことから、大事な時に動かない口実、指揮官の言い訳などの例として使われた。

■続く遺恨
 長州藩は毎年の新年挨拶は「倒幕の機はいかに」から始まった。一方、領土安泰の薩摩藩は公武合体を主張して長州とは軍事衝突(蛤御門の変)するほど違いがあった。
 その後、薩長同盟を結び、西国に押し込められ度重なる普請工事などに自費動員された、薩長土肥を中心とする外様大名の反旗で関ケ原から260年後、徳川幕府は崩壊する。

 明治政府の閣僚経験者の半数以上が薩長土肥で占められ、内閣総理大臣も薩長出身者が圧倒的に多くなった。尊王でありながら敵対視された会津藩は、追い打ちをかけるように戊辰戦争(会津征伐)で敗れた。

 1990年萩市長が会津を訪れ、和解の姉妹都市を申し込んだが「まだあれから(戊辰戦争)140年しかたっていない」と拒絶された話は有名である。




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