
−歴史探訪−

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熊野街道の大阪府出立点の八軒屋浜から大阪府の最南端となる山中宿まで約78キロ。それを6区間に分けて歩いたのが2010年。その先の紀州路から熊野古道を歩き通すことは無理としても、最終目的地の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山を巡る旅をしてみたいと思ってきた。<2015.6.3〜4> |

■神仏習合の熊野権現
日本列島が形成過程にあった約1千400万年前、地下マグマによる巨大噴火によって、地球上で最大級とされる熊野カルデラができた。その火成岩が長年の風化や浸食によって形成された紀伊半島の熊野は、岩塊や滝を敬い崇めた自然崇拝や神話が生まれた。
熊野の秘境地で、修験者と山岳密教が結びついたのが権現信仰。仏教の本地垂迹説にもとずいて、真実の身(本地)である仏が、人々を救うために神に身を変えて、仮(権)に現れる(垂迹)とする説である。
この神仏習合の始まりは明確ではないが、8世紀始め宇佐八幡宮や氣比大社において神宮寺が建立された。「仏教が主、神道が従」とする本地垂迹説が台頭する。一方、神道側から「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられる。後に、明治新政府は神仏分離令を発して、国家神道に舵を切る。
熊野権現の信仰が盛んになるのは平安時代後期の貴族社会からであり、後に庶民の間にも広がり「蟻の熊野詣」と呼ばれた。京の都、城南宮で出立の儀式を行い、白装束に桧の杖を携え船で淀川を下り、大阪天満橋の八軒屋浜に上陸。熊野権現の分社で、九十九王子の一番
窪津王子からスタート。熊野街道を南下、紀州路を経て紀伊田辺から熊野古道に入る。富田川沿いの中辺路(ナカヘチ)と呼ばれる厳しい山岳ルートを辿る。
いくつもの王子社を詣でながら本宮大社を参拝した後、熊野川を下り熊野速玉大社に。更に海岸線を辿り、那智川を遡って熊野那智大社に詣でる。同じルートを戻って都に帰るまで往復約600キロ、30日を要したそうである。

■紀勢線と路線バス
熊野詣のルートには最も一般的な中辺路の他に、田辺から海岸線沿いに熊野那智大社、熊野速玉大社に向かう大辺路(オオヘチ)。高野山から熊野本宮大社に至る小辺路(コヘチ)。伊勢からの伊勢路などがあった。
今回はJR紀勢線と路線バスを乗り継いで、中辺路ルートで熊野三山を巡る。
大阪から特急くろしお1号で紀伊田辺まで2時間、駅前からバス。富田川沿いの道、徐々に高度を上げて1時間半。熊野川沿いにある道の駅で下車。
ここで早い昼食を済ませて、発心門(ホッシンモン)王子に向かう。4キロの登りを1時間で歩く予定であったが、高低差200mの急な登りは予想外。発心門王子で大休止を余儀なくされた。
■熊野本宮大社
発心門王子は熊野九十九王子(実際は百余社)の92番目の王子社。神仏に帰依する心を発する入口(門)を意味する。王子社の中では五体王子のひとつとされるほど格式が高い。
鳥居と赤い祠があり、熊野古道の石碑や道標が設置されている。
ここから熊野本宮大社の神域とされている。
王子(社)とは、熊野詣の道中(熊野街道・紀州路・熊野古道)に設けられた社。浄土の地で神域でもある熊野三山に詣でるまで、身を清める儀式や道中の安全を祈り、休憩所にもなった。 |
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発心門から熊野本宮大社まで8キロの熊野古道はよく整備されている。緩やかに下る道筋にある93番目の水呑王子では弘法大師の伝説が残る。
木立に覆われた地道や石畳を進むと視界が開ける。幾重にも重なった山並みを見渡す眺望のよい坂道が続く。登りになると急に歩行速度が遅くなる。2キロ程で休憩所があり、そこから階段を登ったところが94番目の伏拝王子。苦難の中辺路をたどった人々が、ここまで来て初めて遠くに本宮大社を望み、伏して拝んだことから名付けられた。
爽やかな木立の中の地道や階段、木の根道が続く途中に蘇生の森の石碑が立つ。毒を盛られ冥土の閻魔大王の裁きによって、眼も見えない餓鬼として俗界に戻された小栗判官、手押し車に乗せられ熊野詣の人々に引かれてたどり着いた本宮湯の峰温泉の湯治で、元の姿に蘇生する浄瑠璃や歌舞伎の物語にある。

やがて中辺路と高野山からの小辺路が合流する分岐点が現れる。石碑に「右こうや十九り半 左きみい寺三十一り半」と刻まれている。高野山まで約77キロ。紀三井寺まで約124キロとなる。昔はここに関所が設けられていた。今は三軒茶屋が建ち休暇所が設けられている。
再び木立の中に入る。石畳道の下りを2キロ程で一般道にでる。いよいよ本宮大社の森が見える。
鳥居をくぐると95番目の祓殿(戸)王子。本宮を参拝する前に、身を祓い清める場所であったとみられている。旗が並ぶ石段を登り鳥居と神門をくぐると本殿。バスを降りてからここまで4時間を超えた。
■熊野本宮大社

熊野本宮大社の創建は3世紀中期〜後期、崇神天皇(10代)の時代に熊野川の中洲、現在の大斎原(オオユノハラ)の地に社殿が建てられたと伝わる。明治時代中期の大洪水で十二殿の大半を流出。残った四殿が高台の現在地に移設された。
熊野三山は天照大神や瓊瓊杵尊など共通の十二神を祀るが、その筆頭とされる熊野本宮大社の主祭神、家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)は阿弥陀如来とされ西方浄土。熊野速玉大社の熊野速玉男大神(ハヤタマオノオオカミ)は薬師如来で東方浄土。熊野那智大社の熊野夫須美大神(フスミノオオカミ)は千手観音菩薩で南方浄土の地であるとされて、熊野の神々と仏教が深く結びついた。
また、熊野本宮大社は来世、熊野速玉大社は過去、熊野那智大社は現世を救済するとされた。
■本宮旧社地 大斎原
本宮大社を後にして熊野川の畔にある旧社地の大斎原に向かう。広大な中洲の中央に高さ34m、日本一の大鳥居と石祠がある。
本宮大社に残る古い地図によると、旧社地は1万坪。木立に囲まれ入口に楼門がそびえ、幾棟もの社殿や神楽殿が建ち並んでいた。参拝者は熊野川に入り身を清めて参拝したと伝えられている。船着き場もあり、船で熊野川を下り新宮の熊野速玉大社に向かった。
本宮大社前から新宮行のバスに乗る。蛇行しながらゆうゆうと流れる美しい熊野川を眺めながら国道を下ること50分。新宮の手前の権現前で下車。
■熊野速玉大社

この日、2番目に訪れたのが熊野速玉大社。熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神とする。その内、熊野夫須美大神は西隣の神倉山大岩に祀られていた神で、景行天皇(12代)の時代に現在の新社殿に移された。これが新宮の地名になった。
新宮から紀勢線でこの日の宿泊地である紀伊勝浦駅に向かう。駅から少し離れた古いビジネスホテルであるが海に面して建つ。翌朝は日の出のきれいな空と海が見られた。
■熊野那智大社
朝、勝浦駅から熊野那智大社を目指す。熊野那智大社まで10キロ程の間に浜王子(97番)、佐野王子(99番)、浜の宮王子(99番)、市野々王子(100番)があるがバスで通過、大門坂の入口で下車。
熊野古道の代表的な景観を残す大門坂。その石段の途中に最後の多富気王子(101番)がある。大門坂は距離にして僅か600mであるが、背の高い不規則な石段が300段程。更に熊野那智大社に通じる500段近い石段が続く。登り切ってようやく那智熊野大社の社殿。妻が元気な頃、姉との2人旅でここを登っている。

熊野那智大社の主祭神は熊野夫須美大神。創建は定かでないが、かっては那智滝を神体として祀られていた。仁徳天皇(16代)時代に那智山中腹の現在地に遷されたと伝わる。
熊野三山は共通の十二殿であるが、滝の神体である大巳貴命(オオナムチノミコト)を加えた十三殿となっている。大巳貴命は素戔嗚尊から6世孫の大国主命。古事記、日本書記や各地の風土記などで呼び名が異なるが、出雲と関係があったと推定される。

那智大社の境内に青岸渡寺が並び建つ。明治の神仏分離令によって仏堂は廃されたが観音堂だけが破壊を免れた。その後、天台宗の青岸渡寺と号して、西国33箇所の一番観音札所となっている。
朱色の三重塔の向こうに那智の滝を望む景観は、熊野那智大社と青岸渡寺の神仏習合の一体感を表した名残りである。三重塔は平安末期に建てられたが江戸時代に倒壊、近年再建された。神仏習合の本地仏であった千手観音菩薩を安置している。
■八咫烏(ヤタカラス)
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熊野三山のいたるところに八咫烏の旗やモニュメントが見られる。
初代神武天皇が日向高千穂から東征を開始。瀬戸内海を経て紀伊半島を南下、6年の歳月を要する苦戦であったが、天照大神が授けた八咫烏に導かれて紀伊熊野から北上、大和の橿原宮を皇居とした。
八咫烏や八百万咫鳥と読まれるカラスの三本足は天・地・人を表し、中国では太陽に棲む導きの神、太陽の化身とされる。役目を終えた八咫烏は後、熊野那智大社に戻り鳥石(カラスイシ)になって、熊野那智大社本殿の横の社に祀られ、熊野三山に仕える存在として信仰を集めた。 |
八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークである。明治時代に日本に初めてサッカーを紹介、普及に務めた中村覚之助氏の家系が、那智社の氏子であったことから、サッカーボールをゴールに導く神として八咫烏が使われた。
■那智大滝
落差133mは一段の滝としては日本一。華厳の滝、袋田の滝とともに日本三名瀑。
滝そのものが熊野那智大社の別宮である飛龍神社の神体。滝の神である大巳貴命は大地の神である大国主命の別名である。
毎年12月末に行われる、滝のしめ縄張替行事はよく知られている。7月に行われる那智の火祭り、熊野那智大社の大巳貴命が滝前の飛龍神社に里帰りする行事である。
那智の滝の成り立ちは、熊野カルデラの痕跡と言われる。1千400万年前の火山噴火によってマグマが上昇、直径41キロと推定される日本最大の巨大カルデラの跡。
屈斜路カルデラは26キロ、阿蘇カルデラは18キロであるから熊野カルデラの巨大さがわかる。世界的にも最大級規模に属する。
■神仏分離令
明治新政府は天皇は国を造った天照大神の子孫である。その天皇と外来の仏が一体となった神仏習合を改め、国を造った神を祀り、神につらなる天皇を敬う方針を打ち出したのが神仏分離令である。
江戸時代、檀家制度、寺請制度をもとに幕藩権力を担っていきた仏教寺院に代わって、国の宗教を神道と定めた。神主を兼任していた僧侶に対して還俗を命じ、仏像を以って神体とすることを禁止、神仏混合的な神号や神体を一掃した。如来や菩薩などに仏教的神号の禁止、神主は仏教に係わらないなどを命じた。
しかし、神仏分離令は予想を越える廃仏運動となった。檀家制度に悩まされた人や、権力に癒着してきた僧侶に反感を覚えていた人達が、寺を廃し仏像は破壊せよと拡大解釈。この時、多くの寺院や貴重な仏像が破壊されたり、海外に流出した。
■アクシデント
紀伊半島は何度目かの再旅(フタタビ)である。
初めて瀞峡や紀伊勝浦、那智などを訪れた50年程前は、天王寺から名古屋まで紀勢線のレールが繋がって間もなくであった。
その頃は、天王寺から新宮まで6時間もかかった。夜行列車のため海の景色は全く見えなかった。
今回、電車とバスで山岳地を中心に熊野古道のハイライト部分を歩いて熊野三山を巡る目的は達成したが、もうひとつ、旅の締めくくりとして紀伊半島の美しい海岸線の眺めを、くろしおオーシャンアローの車窓から楽しむことであった。
新宮駅の改札で思わぬ事がおきた。3日前、京橋駅のみどりの窓口で乗車券と特急券を買ったが、復路の特急券が期限切れになっていて通過できなかった。購入時の控えを持っていたので調べてもらった。しばらくして女性駅員が「発行ミスです、誠に申し訳ありませんでした」と、特急券を再発行して丁寧に対応してくれた。これで最後に気まずくなった旅が救われた。
ほっとした気持ちでオーシャンアローに乗る。白浜あたりまで美しいコバルトブルーの海岸線が続く。景色のよい場所では列車の速度を落としてくれる。景勝地の橋杭岩も望めた。海岸線が過ぎるとウトウトしていた。気が付けば天王寺駅であった。
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