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歴史探訪−
近江路 大津宿 & 草津宿 

       

  滋賀県近江は京の都から旧東海道、中山道、北国道に通じる要路上にあり、宿場町や城下町が点在する。また商人のルーツ、近江商人の発祥地である。その中でも最も往来のあった京三条から草津宿までの旧東海道・中山道の27キロを巡る。昔の人であれば1日もかからない距離であるが、長らく勤めてきた石山、瀬田に立ち寄ったり、石山寺にも足を延ばしたい。三条から大津宿・膳所までと、石山から草津宿までの2回に分ける。

     

■京都三条−大津宿 <2016.2.4>
 暦の上では春であるが時々小雪がちらつく寒い日、京阪三条から三条通りを進む。
 東山の蹴上には発電所とインクラインがある。発電所は大津から京都に引かれた琵琶湖疎水の水力を利用した日本最初の営業用水力発電所。インクラインは琵琶湖疏水の水路高低差が40m程あるため、船を台車に乗せて巻き上げた傾斜軌道である。
 日ノ岡から旧街道の細い道に入る。天智天皇陵のある御陵(ミササキ)から山科商店街を抜ける。逢坂山の登り口、四ノ宮までが三条通りで、嵐山の渡月橋から約16キロも続く長い通りである。
 その先、髭の茶は東海道と伏見街道の追分。徳川幕府は大名が参勤交代の時、京の公家と接触するのを禁止。京に入らせず、ここから伏見宿を経て大坂に至る京街道を設定、東海道を延長して57次としている。


 追分から逢坂山の急勾配は国内鉄道路線で3位の61‰(パールミル)。パーミルは1/1000(0.1%、1000mで1mの勾配。国内最高は箱根登山鉄道の80‰、高野線、鞍馬線、有馬線は50‰)。この山間の隘路に国道1号線、名神高速、京阪京津線が並走する。今の東海道琵琶湖線は東山と逢坂山のトンネル内を走るが、急勾配でトンネル掘削ができなかった頃は山を越えられず、山麓を大きく迂回していた。


  

 琵琶湖ブルーの京阪京津線車両。山科まで地下トンネルを走り、地上にでて東海道と並走する。地下鉄駅ではホームドアー機能が必要とされ、逢坂山の急勾配・急カーブは登山鉄道並み。大津市街地では路面軌道。そのため多機能な装備が必要とされ、日本の私鉄で車両価格が一番高い。

 逢坂山は主要路の要衝。京の入口として逢坂の関が設けられた。天下の三関(不破、鈴鹿、逢坂)と称せられ「これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」と、読んだ蝉丸法師の歌は百人一首にある。峠には蝉丸神社や茶屋、鰻で有名な「かねよ」店などがある。
 逢坂山を下ると大津宿。明治天皇聖跡碑のある場所に本陣があったことを示す説明板がある。3階建ての立派な本陣であったと記載されている。

 路面軌道の突き当りが京阪浜大津駅。その先が浜大津港。北国道・中山道・東海道の物資が集散する琵琶湖の海路拠点、宿場町として賑わった。

■大津宿−膳所
 大津宿の中心、札の辻(京町)から大津祭曳山展示館、本願寺大津別院、滋賀県庁を過ぎて古い街並みが残る膳所(ゼゼ)へと道は続く。
 天智天皇が大津京に遷都(667年)したとき、食物を供した御厨(ミズシ)所、陪膳(オモノ)所から御膳所に転じたと伝えられる。江戸時代に本多家7万石の膳所城があったが、明治維新で取り壊しになっている。
 街道沿いに義仲寺(ギチュウジ)がある。平安末期、木曾義仲(源義仲)は、平家討伐の兵を挙げて都入りしたが、都の秩序回復などに失敗して源頼朝と対立、源範頼、源義経軍との宇治川・瀬田川の戦いで敗れ、琵琶湖畔で討たれる。室町時代末期に近江守護職佐々木氏が義仲寺を建て供養した。
 松尾芭蕉はここを度々訪れている。奥の細道を終えて大阪で倒れたが遺言によって、この寺にある木曽義仲の墓の隣に埋葬された。芭蕉の辞世の句や数多くの句碑が境内にある。
 膳所から瀬田の湖岸沿いは、近江八景の一つの「粟津の晴嵐」と呼ばれた松並木が連なる景勝地。晴れていても琵琶湖の強風に枝葉がざわめく様子から表現された。

■石山−瀬田 <2016.2.12>
  

 一週間後、JR石山駅。会社勤めで35年間も乗り降りした懐かしい駅。長年ネックになっていたJRと京阪が2階デッキで繋がるようになった。その階上デッキに松尾芭蕉や紫式部像がある。階下の狭いバスターミナルでは各社の路線バスが入り乱れ朝夕の混雑は変わっていない。
 昔から東レの街といわれた石山。1926年(T15)三井物産から分社、石山からスタートした。事業場の一番奥まで歩くと30分もかかるほど広大な敷地。高度成長期には今の3倍の9千人もの従業員がいたが、合理化や分社化が進み場内は様変わりしている。

 石山商店街を抜けると瀬田の唐橋。宇治橋(宇治川)、山崎橋(淀川)とともに日本三大古橋といわれる。

 壬申の乱、源平の合戦、応仁の乱など、ここを舞台に歴史に残す合戦が繰り広げられてきた。「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、唐橋を監視するために膳所城を築城、橋の管理は幕府直轄とした。

  

 唐橋の周辺は近江八景「瀬田の夕照」で知られる景勝の地、旅館や保養所などが多い。
 近江八景とは、粟津の晴嵐、瀬田の夕照、石山の秋月、矢橋の帰帆、三井の晩鐘、唐崎の夜雨、堅田の落雁、比良の暮雪である。室町時代に近衛政家が和歌八首を詠んだことが始まりとされる。

 瀬田の唐橋から2キロほど下流に西国三十三箇所観音札所の石山寺がある。建立は聖武天皇の発願。長谷寺、清水寺と並ぶ観音霊場で平安期には枕草子、更級日記など多くの文学作品に登場する。紫式部が名月の石山寺を訪れて源氏物語を着想したと伝わる。

■草津宿 旧東海道・中山道の追分

 石山寺から瀬田の唐橋にもどり草津をめざす。
 官幣大社、建部神社を過ぎると瀬田。東レの瀬田工場がある。紡績工場から脱皮、新設した開発センターの人工気象室で働いた懐かしい場所。
 昔このあたりは、近江国庁があり近江の中心地であった。

 旧街道は国道1号線を横切る。草津宿から1.5キロ程手前、南草津の矢倉の辻に、江戸時代後期に建てられた大きな矢倉道標がある。
 ここが急がば回れの、ことわざになった分かれ道「勢多へ廻ろか、矢橋へ下ろうか、ここが思案の姥が餅」と詠まれた。
 昔、京都・大阪方面に向かう旅人は、茶店名物の姥が餅を食べながら思案した。 ここから湖岸に少し下ると、近江八景の一つ矢橋の帰帆(港)があり、5キロの船旅で大津宿まで歩かずに行ける。 

 陸路では瀬田の唐橋を渡って大津宿まで12キロの遠回りになる。海路は楽で早道であったが、時に琵琶湖の強風で船が転覆したり、船留めになる。陸路は遠回りになるが安全で確実のたとえになった。

 ほどなく草津宿。東海道と中山道の追分。2軒の本陣と脇本陣、70軒以上の旅籠があって宿場町として賑わった。中でも東海道でも最大級、田中邸本陣跡が残る。建坪468坪、39室268畳、見学ができる。
 本陣の先、草津川トンネルの手前の三差路が東海道と中山道の追分。道標には「右 東海道 いせみち」「左 中仙道 みのみち」と刻まれている。その先の覚善寺の門前にも東海道と中山道石碑は立つ。
 東海道は草津川から野洲川に沿ってさかのぼり、石部宿・水口宿・土山宿から鈴鹿越えで伊勢路に続く。京都から53次・約492キロである。
 中山道は草津川のトンネルを潜り、商店街を進み守山宿から米原・関ケ原宿を経て美濃路へと続く。69次、約534キロ。東海道は川が何か所もあり増水で川留めとなる。海路(熱田−桑名、新居−舞阪)も天候に左右されるのに対して、山岳路の中山道は長く険しが川留めが少ない。宿賃も安く、通行量の多い東海道のバイパスとなった。


 草津宿の本陣をモチーフした和風デッキに改装された草津駅で近江路は一旦終える。草津宿から先の旧東海道や旧中山道はいつかトライしてみたい。
 草津駅から新快速で大阪駅まで50分。狭軌軌道にもかかわらず最速130キロの高速で快速や各停を次々抜き去る。勤めていた頃は何とも思わなかったが、久々に乗ってスピード感が怖い。当時と時間軸が違っている。今はそんなに飛ばさなくてもよいのにと思う。





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