
−歴史探訪−

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旅のルーツとされる伊勢参りは今も多くの人達で賑わっている。初めての伊勢が小学校の修学旅行であった。その後も何度か訪れているが、今回は伊勢の成り立ちや伊勢街道と呼ばれる参宮道の歴史を訪ねる旅である。
<2012.3.24, 25> |
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お伊勢さんと呼ばれる伊勢神宮。皇室の祖神とされる天照大神を祀る内宮(皇大神宮)と、衣食住の守り神である外宮(豊受大御神)を中心に百余の別宮・摂社からなる。
江戸時代には「一生に一度は行きたい」とまで言われた。ここに参拝する道は東海道の日永追分(四日市)から始まる伊勢街道や、関宿から津で伊勢街道に合流する伊勢別街道。大阪から生駒暗峠、大和、室生の伊勢本街道。長谷から松阪で伊勢街道に合流する伊勢表街道や他にも熊野街道、伊勢道などがある。いずれも外宮の手前1キロの筋向橋で合流する。
これらのルートで興味のあった東海道関宿から亀山宿を経て、伊勢街道の松阪、斎宮などの主な宿場町を通って伊勢に向かう。全ては歩けないので、紀勢線、参宮線や近鉄線に乗り継いで外宮、内宮を目指す。

■関宿−亀山宿
JRおおさか東線、大和路線、関西線と乗り継いで東海道の宿場町の関で降りる。江戸時代後期の街並が残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。東の追分、伊勢別街道入口に鳥居が建つ。内宮宇治橋の内側の鳥居が20年ごとにここに移される。
関宿から亀山宿まで6キロ、思った以上に殺風景な旧東海道を歩く。亀山に入ると宿場町らしくなるが、城下町でもあるため桝形や坂の多い複雑な街並みになっている。
■城下町と商人の松阪
亀山から紀勢線に乗る。津を通り越して松阪で降りる。豊臣時代に近江日野6万石から12万石の松阪城主になった蒲生氏郷が城下の整備と共に伊勢神宮への宿場町を拓く。旧領日野の近江商人を呼び商工業を普及させ伊勢松阪商人の発祥地となった。
近江の武士を辞めて三井財閥の基礎を築いた三井高利は松阪で商売を学んだ。その三井生家は城下大手通の伊勢街道筋にある(非公開)。その並びに松阪牛元祖の和田金店がある。日本三大和牛(神戸牛、近江牛)とされている松阪牛は松阪固有の牛であると思っていたら、そうではなく丹波や紀州などから黒毛の子牛を集めて、独自に飼育した肉牛であることをここで知った。
松阪城は失火でなくなったが、城下には現存最大規模の武家組長屋の御城番屋敷が道の両側に90mも連なる。
松阪を発展させた蒲生氏郷はその後、奥州の抑えとしして60万石の会津を91万石に加増入封。鶴ヶ城を築城して松阪の松をとり会津若松とした。やはり近江や松阪商人を呼び会津藩を発展させた。

■斎宮跡
松阪から近鉄で斎宮に向かう。伊勢街道最後の宿場であるがその面影はなく、跡地の一角に建つ歴史博物館で往時の様子を知る。
斎宮は天照大神を祀る伊勢神宮に仕えた皇女(斎王)の宮殿。斎王の始まりは大和朝廷の崇神天皇(10代)の時代にさかのぼる。皇居内で天照大神や大物(国)主大神などが同床共殿していたが、「神の勢い激しく同床共殿に堪え難く」世の中が乱れたため、皇居とは別の大和笠縫村(桧原神社など)に移して、皇女の豊鍬入(トヨスキイリ)姫が天皇に変わって天照大神に仕えた。これが斎王の始まりと伝わる。尚、一方の大物主大神は大神神社に移されている。
後の垂仁天皇(11代)の時、さらなる最適地を求めて皇女であった倭姫と共に伊賀、近江、美濃を巡り、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座したのが伊勢神宮(内宮)。倭姫は天皇の名代の斎王として伊勢神宮の天照大神に仕えた。
斎王の宮殿や庁舎など百棟を超える大規模な官庁が内宮から15キロ先のこの地に建ち並んでいた。今は跡地の発掘調査が進められている。
斎宮は天皇が変わるごとに未婚の皇女から選ばれたが、この制度は鎌倉後期の南北朝時代に消滅した。現在は祭主として天皇の子女が務め、天皇の妹で皇室を脱離した黒田清子さんがその任にあたっている。
京都の上・下賀茂神社の葵祭では、嵯峨天皇が伊勢神宮に習って斎王を置いた。後に廃止されるが、近年は斎王代として復活させている。
この日はここでタイムアウト。周囲は何もなく伊勢市駅に向かい駅前のビジネスホテルで泊まる。

■外宮
翌日は外宮の入口、伊勢神宮の門前町として発展してきた山田からスタート。
外宮の創建は内宮の鎮座から約500年後とされる。古事記や日本書記にはその記録はないが、社史によると雄略天皇(21代)の時代に天照大神の食事を司る豊受大神(天照大神の姪)を丹波から招いて祀ったとされる。
内宮は皇祖神として天皇を絶対化させたのに対して、外宮は瑞穂(稲)を基盤として日本民族統一の役割を持たせたとされている。
■参宮道
山田の外宮から宇治の内宮までのバスは頻繁にあるが、5キロ程の伊勢街道を歩く。途中にこんもりした倉田山の麓に伊勢神宮の別宮の一つ倭姫宮が建つ。垂仁天皇の皇女で天照大神の鎮座地を定め、斎宮を勤めた倭姫を祀っている。その隣の小さな古墳(尾上御陵)が倭姫陵と伝えられている。この付近には博物館、神職養成、神道研究を目的とする皇学館大学などがある。
参宮道の中程、古市に江戸時代の面影を残す麻吉旅館が残る。伊勢で最も賑わった古市一帯は吉原(江戸)、島原(京)、新町(大阪)、丸山(長崎)と並ぶ5大遊郭に数えらた。
参宮道の終盤に猿田彦神社がある。猿田彦は日本神話において、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊を高千穂に導いた後、五十鈴川の川上に鎮座した。その子孫(太田命)が倭姫に五十鈴川のほとりの地域を献上したのが内宮とされる。

<内宮神明造り 伊勢神宮資料抜粋>
■内宮
皇室の祖神、天照大神を祀る皇宮皇大神宮。大和の地から伊勢は太陽が昇る東の方向にある。山に囲まれた大和の小盆地に比べ海を臨む五十鈴川のほとり、温暖で山海の食材にも恵まれ祖神の永住の地として最適と考えられた。大和王権が東国に勢力を伸ばす拠点として伊勢を重要視したとの見方もある。
宇治橋の前後の大鳥居を潜ると内宮の神域となる。この大鳥居は内宮正殿の棟柱が遷宮後に再使用される。さらに20年後には伊勢別街道の入口となる東海道関宿の東の追分と、東海道桑名七里の渡し場の鳥居に移される。内宮の棟柱は姿を変えて60年間にわたって使われる。
神殿を20年ごと移し替える遷宮。制度化されたのは天武、持統天皇の頃からとされ、地面に直接柱を立てる高床式の神明造り。柱の腐食、穀物の備蓄更新、建築技術伝承などのためと考えられている。
神体の八咫鏡(ヤタノガガミ)は天孫降臨の際に授けた三種の神器の一つ。崇神天皇の時に分身(レプリカ)を天皇の側に置き、本来の鏡は草薙剣とともに各地を経て伊勢神宮の神体として祀られた。
内宮の参拝後、内宮の門前町おはらい町を少し覗く。昔から伊勢の入口となる外宮の山田の方が賑わい、内宮のある宇治は一時さびれたが、地元名産店の赤福を中心に内宮門前町の活性化に取り組み、おかげ横丁や伊勢の伝統的は街並を再建したおはらい町などを設けて、山田を凌ぐようになった。

■二見浦
内宮からバスで二見に向かう。かっては伊勢神宮参拝後の定番コースとして賑わった店舗街や旅館は見る影が無い程の寂れように驚く。白砂青松の美しい二見浦海岸沿いに建つ老舗旅館、朝日館は小学校の修学旅行で泊まった。その時の木造館や子供達がまだ小さい頃に泊まった新館など閉鎖されていた。
がっかりしながら夫婦岩のある二見興玉神社に行ってみた。沖合に沈む猿田彦大神の化身とされる興玉神石を祀る。夫婦岩はその神石を拝むための鳥居の役目とされている。
二見からバスで鳥羽、復路は近鉄特急で鶴橋まで乗り換えなしで一直線、2日間の伊勢路を終える。
■熊野詣と伊勢参り
平安時代に流行した熊野詣は肉魚を絶ち、道中の王子各社で儀式を行いながら険しい山道を辿り来世の幸、極楽浄土を求める苦難の修行の旅であった。蟻の熊野詣は厳しさ故にその後は衰退した。
対してお伊勢参りは所期の目的から徐々に変わって、日々生きている感謝・お礼の旅になった。
元来、伊勢神宮は天皇国家の政治を祈る神域で私幣禁断であったが、平安時代に特権階級を中心に伊勢信仰が広まり、平清盛や鎌倉幕府からの寄進が続いた。おりしも蒙古の襲来を退散させた神風が伊勢信仰を高めた。
室町時代に入ると御師(御祈祷師)と呼ばれる人達を通じて檀家(講)が全国に広がった。江戸時代には階層を問わず誰もが伊勢に行きたい場所になる。御師が率いる伊勢講の一行は今日の団体旅行のルーツ。やがて門前町のど真ん中に遊郭ができるほど神域は変質する。
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