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       −歴史探訪−
古代ロマン 飛鳥を巡る 

        

  仏教伝来から藤原京までの約150年間に、豪族支配から天皇中心の律令国家へと移り変わる舞台となった飛鳥。日本最初の本格寺院飛鳥寺跡や最古の仏像、古墳など多くの文化遺産が点在するこの地に引きつけられたのが歴史探訪の原点となった。
その飛鳥を再び訪れるのは40年ぶりぐらいになる。当時は発掘調査の最盛期であった。現在も発掘は続き、周辺の整備や宅地開発も進んで当時の素朴さは失われつつあるが、最近の飛鳥の四季折々を訪ね歩く。 <2010年>。

     


         法興寺・飛鳥大仏

          持統天皇吉野幸行

            甘樫丘歴史公園

             石舞台古墳

          飛鳥板葺宮跡

            蘇我入鹿首塚

         水を得た稲渕棚田

          飛鳥川の飛び石橋
■飛鳥と明日香
 飛鳥と明日香が混在するが、明日香は奈良県高市郡明日香村と呼ばれる地名、自治体名。古事記や日本書紀では飛鳥。万葉集では明日香が使われることが多く、明日香の枕詞として飛鳥を飛ぶ鳥と詠まれていた。
 戦後に旧飛鳥村を含む周辺の村々が合併した時、明日香としたが、旧飛鳥村地域や時代を現す場合は飛鳥が使われている。

■法興寺、飛鳥大仏
 588年、蘇我馬子の発願によって建立されたと伝えられる日本最古の本格的仏教寺院。
 近年の発掘調査によって塔を中心に中・東・西金堂を築き、中門からのびる回廊で取り囲む「一塔三金堂」(高句麗様式)の壮大な伽藍は、法隆寺を上回る規模であったことが明らかとなった。
 本尊で日本最古の金銅飛鳥大仏、釈迦如来坐像は渡来一族の鞍作鳥(止利仏師)の制作とされる。火災で損傷したため修復されている。そのため国宝には指定されていないが杏形の目、左右対称の衣文、口元の微笑など飛鳥時代の仏像らしさを今に残している。この素朴な金銅仏を見てから仏像に対する視点が変わった。

■甘樫丘
 小高い甘樫丘に登ると二上山を背に畝傍山、耳成山、香久山の大和三山と、飛鳥の里が箱庭のように望める。

 この丘の中腹に蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった。乙巳(イッシ)の変(645年)で入鹿が中大兄皇子らに倒された直後、蝦夷はその邸宅に火をかけ自害したとされる。
 登り口に向原寺(豊浦宮跡と豊浦寺跡)がある。その頃、百済の聖明王から始めて仏像と経典が贈られた(538年と552年説がある)。蘇我稲目がそれを賜り、この地に寺を造営して安置した。
 しかし、仏教論争になり、排(廃)仏派の物部氏によって仏像は難波の堀江に捨てられ寺は焼き払われる。
 後、この付近に推古天皇の豊浦宮が造営され、7世紀当初に小墾田宮(オハリダ)に移った跡に豊浦寺が建った。発掘調査の結果、飛鳥寺と並ぶ日本最古の本格寺院といわれる。

 その後、物部氏と蘇我氏は神仏崇拝の対立から日本歴史上の大きな権力闘争に発展する。
 捨てられた仏像は本田善光が見つけ、藤井寺善光寺から飯田善光寺を経て長野善光寺に安置されたと伝わる。


■石舞台古墳
 島庄地区にある石舞台古墳は日本最大級の横穴式方(角)墳。春は桃、菜の花、桜で覆われる。
 周辺に点在した古い小古墳を壊して、7世紀初め頃に築造されたことが発掘調査で確認されている。古くから墳丘上部の封土を失い、石室の天井石を露出させていたとの記録もある。

 岩の総重量は約2300t、天井石は約77t。当時の優れた土木運搬技術の高さがうかがわれる。
 被葬者は7世紀始めの権力者、蘇我馬子の邸宅(島庄遺跡)に近いことから馬子ではないかとされているが特定されていない。

■飛鳥板蓋宮跡(飛鳥京跡)
 近年の発掘調査でこの付近には飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後期飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武.持統天皇)の4つの宮殿があったことが裏付けられている。
 板蓋宮では権力を誇った蘇我入鹿が乙巳の変(645年)で中大兄皇子、中臣鎌足らによって暗殺された舞台となり、浄御原宮では壬申の乱(673年)で勝利した大海人皇子が天武天皇として即位している。

■蘇我入鹿の首塚
 飛鳥寺西門跡の畑の中にひっそりと建つ五輪の塔が蘇我入鹿首塚と言い伝えられる。
 鎌倉から南北朝時代に造られたとされ、入鹿の首塚説の他に飛鳥寺で閑居した聖徳太子の師、高句麗僧の恵慈や、百済僧の恵聡の墓とする説もある。


■稲渕の棚田
 冬枯れの棚田の藁積みに薄っすら雪が積る景色。緑が増して緩やかに湾曲した傾斜地に水を得た水田も美しい。
 実りの秋、あぜ道に彼岸花が彩りを添える。1年かけて四季折々の情緒ある棚田を巡ってきた。
 爽やかなこの日は、持統天皇が飛鳥稲淵から芋ヶ峠を越えて吉野行幸を再現した行列があった。
 自然環境と里山に溶け込んだ景観を守ろうと棚田オーナーも募集されているが、休耕田になっている部分が目立つ。

 吉野に通ずる奥飛鳥まで足を延ばす。南淵集落は大化の改新の原動力になる儒学者で学問僧の南淵請安が暮らしていた。
 栢森集落は万葉集でも詠まれた飛鳥川の飛び石橋や網掛け神事の男綱、女綱など日本の原風景が今なお残っている。


          亀石                  酒船石                 猿石
   

■不思議な石造物
 
飛鳥には古墳と共に多くの石造物があるが、謎に包まれたモノが多い。

 亀石:川原地区の道沿いにある。7世紀頃の製作と考えられている。川原寺の領域の境界を示す標石など諸説ある。
 酒船石:村岡地区の竹藪にある花崗岩の石造物。酒や薬造りの道具ともいわれるが定かでない。その東側に水を引くための設備が見つかっており庭園施設との説もある。
 猿石:吉備姫皇女(孝徳天皇の母)の墓内に、7世紀頃とされる4体の石造物が置かれている。渡来人像ではないかといわれている。橘寺には善相と悪相とされる二面石もある。
 鬼の俎雪隠:天武.持統天皇陵の陪塚(バイチョウ)の石棺ではないといわれている。

■由緒ある寺院
           岡寺                  橘寺                  川原寺跡
   

 西国観音信仰の岡寺は明日香村岡地区の急坂を登った山腹にある。
天智天皇の皇子で早世した草壁皇子が住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したと伝わる。5mの本尊如意輪観音坐像は日本最大の塑像。
 橘寺は聖徳太子の創建。石舞台から少し下った仏頭山麓の田畑の中に建つ。太子の誕生地で太子の父の用明天皇の別宮を寺に改めたと伝わる。
 川原寺は飛鳥板蓋宮跡の西側にあった。天智天皇の頃に創建され、飛鳥三大寺(法興寺、大安寺)に数えられる大規模を誇ったが日本書記には創建に関する記述がなく、平安末期に焼失した後、歴史の表舞台から姿を消した謎の大寺として長年論議されている。                   

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飛鳥の古墳 <2021.6> 
 古代史と深い関わりを持つ飛鳥の古墳。発掘調査で新たな知見もでてきた。コロナの拡大や膝の骨折で閉じこもりがちになっている。この機会に整理してみた。

■蘇我氏と四角(方)墳
 飛鳥時代は歴史年表では、推古天皇(33代)が飛鳥豊浦宮で即位した592年からとされる。崇仏派の蘇我氏は排(廃)仏派の物部氏を倒した。蘇我氏は物部氏の拠点のある東大和の山辺を避けて、自分の拠点である飛鳥に皇居を置いた。
 豊浦の甘樫丘には蘇我蝦夷と入鹿の邸宅が並んでいた。その西方に小山田古墳と菖蒲池古墳がある。前者が父の蝦夷が生前に築いた一辺80mもある巨大四角(方)墳。後者は子の入鹿の古墳とされている。
 島庄の丘陵地には石舞台があり、蘇我馬子の古墳と伝わる。少し山手、都塚古墳は馬子の父の稲目の古墳とされている。いずれも巨大な四角(方)墳である。
 蘇我氏の血を引く用明天皇(31代)の春日向山太子陵も、推古天皇太子陵もいづれも四角(方)墳で蘇我氏の古墳と共通している。それまでの天皇陵は日本固有の前方後円墳が主流であった。方墳は隋、唐でみられ、仏教崇拝で渡来人との結びつきが強い蘇我氏の影響があったと考えられる。

         小山田古墳(四角墳)             牽牛子塚古墳(八角墳)           高松塚古墳(極彩色円墳)
   


■乙巳の変から八角墳
 天皇と結びついて強くなり過ぎた蘇我宗家の蝦夷、入鹿は、乙巳の変(大化改新)で倒されたのが645年。この頃を境に7世紀後半にかけて飛鳥時代の天皇陵は八角墳に変わる。
 蘇我氏によって皇位についた舒明天皇。崩御後は甘樫丘小山田の四角(方)墳に葬られたが、後に八角墳の桜井段ノ塚古墳に改葬されたと伝わる。これが記録上の最初の八角墳である。
 その後、皇極(35代).斉明(37代)天皇の飛島牽牛子(ケンゴシ)塚古墳、天智天皇(38代)の山科陵、天武(40代).持統(41代)天皇の飛鳥野口合葬陵、文武天皇(42代)の飛鳥中尾山古墳、被葬者は不明ながら飛鳥岩屋山古墳と八角墳が続く。尚、宮内庁では文武天皇陵は飛鳥檜隅安古岡上陵(円墳)としているが、考古学的には上記の飛鳥中尾山八角墳とされている。
 八角墳はいずれも蘇我宗家の血統から遠い天皇陵で、乙巳の変後、蘇我氏宗家の影響を排除し、中国古来の道教思想にある天下八方を治める中央集権国家の天皇の陵型として取り入れられたと考えられている。
■極彩色壁画の円墳
 飛鳥の古墳で見逃せないのが高松塚古墳とキトラ古墳。いずれも壁面に彩色壁画を施した極めて珍しい円墳である。円墳は4〜5世紀頃から経済力のある権力者の墓として最も多いが、これまで壁画を施した事例はなく、発見時の驚きは大きかった。
■高松塚古墳
 1972年(S47)発見。その詳細は隣の壁画館で知ることができる。極彩色の飛鳥美人像、金泊の天井図、銅鏡などから古墳時代後期、7世紀後半から8世紀始めに造られたとされている。
 被葬者は特定されていないが、人骨鑑定では40代から60代の男性とされ、天武天皇の子の忍壁皇子か高市皇子と推定されている。そのなかでも、忍壁皇子(706年没)が有力視されている。身分の低い女官を母とする皇子であったが、天皇の信頼が高く、藤原不比等と共に大宝律令制定の中心を担った人物である。
■キトラ(亀虎)古墳
 1983年(S58)高松塚の南の阿部山で発見された。ファイバースコープから石室の壁に彩色壁画の亀、虎、龍、十二支、天文図などが確認された。高松塚より数年前の古墳とされ金、銀を使った副葬品や豪華な装飾を施した木棺などから、やはり天武天皇の皇子の高市皇子説(696年没)が有力であるが、この地を拠点として天武.統天皇の太政官を勤めた阿部御主人(アベノミウシ)説もある。
 この頃の天皇陵は八角である。天皇に次ぐ高い位にあった皇子は大規模円墳になるが、特に功績のあった皇子や権力者に対して豪華な壁画や装飾品で飾ったのではないかと考えられている。
                  



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