法興寺・飛鳥大仏

持統天皇吉野幸行

甘樫丘歴史公園

石舞台古墳

飛鳥板葺宮跡

蘇我入鹿首塚

水を得た稲渕棚田

飛鳥川の飛び石橋
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■飛鳥と明日香
飛鳥と明日香が混在するが、明日香は奈良県高市郡明日香村と呼ばれる地名、自治体名。古事記や日本書紀では飛鳥。万葉集では明日香が使われることが多く、明日香の枕詞として飛鳥を飛ぶ鳥と詠まれていた。
戦後に旧飛鳥村を含む周辺の村々が合併した時、明日香としたが、旧飛鳥村地域や時代を現す場合は飛鳥が使われている。
■法興寺、飛鳥大仏
588年、蘇我馬子の発願によって建立されたと伝えられる日本最古の本格的仏教寺院。
近年の発掘調査によって塔を中心に中・東・西金堂を築き、中門からのびる回廊で取り囲む「一塔三金堂」(高句麗様式)の壮大な伽藍は、法隆寺を上回る規模であったことが明らかとなった。
本尊で日本最古の金銅飛鳥大仏、釈迦如来坐像は渡来一族の鞍作鳥(止利仏師)の制作とされる。火災で損傷したため修復されている。そのため国宝には指定されていないが杏形の目、左右対称の衣文、口元の微笑など飛鳥時代の仏像らしさを今に残している。この素朴な金銅仏を見てから仏像に対する視点が変わった。
■甘樫丘
小高い甘樫丘に登ると二上山を背に畝傍山、耳成山、香久山の大和三山と、飛鳥の里が箱庭のように望める。
この丘の中腹に蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった。乙巳(イッシ)の変(645年)で入鹿が中大兄皇子らに倒された直後、蝦夷はその邸宅に火をかけ自害したとされる。
登り口に向原寺(豊浦宮跡と豊浦寺跡)がある。その頃、百済の聖明王から始めて仏像と経典が贈られた(538年と552年説がある)。蘇我稲目がそれを賜り、この地に寺を造営して安置した。
しかし、仏教論争になり、排(廃)仏派の物部氏によって仏像は難波の堀江に捨てられ寺は焼き払われる。
後、この付近に推古天皇の豊浦宮が造営され、7世紀当初に小墾田宮(オハリダ)に移った跡に豊浦寺が建った。発掘調査の結果、飛鳥寺と並ぶ日本最古の本格寺院といわれる。
その後、物部氏と蘇我氏は神仏崇拝の対立から日本歴史上の大きな権力闘争に発展する。
捨てられた仏像は本田善光が見つけ、藤井寺善光寺から飯田善光寺を経て長野善光寺に安置されたと伝わる。
■石舞台古墳
島庄地区にある石舞台古墳は日本最大級の横穴式方(角)墳。春は桃、菜の花、桜で覆われる。
周辺に点在した古い小古墳を壊して、7世紀初め頃に築造されたことが発掘調査で確認されている。古くから墳丘上部の封土を失い、石室の天井石を露出させていたとの記録もある。
岩の総重量は約2300t、天井石は約77t。当時の優れた土木運搬技術の高さがうかがわれる。
被葬者は7世紀始めの権力者、蘇我馬子の邸宅(島庄遺跡)に近いことから馬子ではないかとされているが特定されていない。
■飛鳥板蓋宮跡(飛鳥京跡)
近年の発掘調査でこの付近には飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後期飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武.持統天皇)の4つの宮殿があったことが裏付けられている。
板蓋宮では権力を誇った蘇我入鹿が乙巳の変(645年)で中大兄皇子、中臣鎌足らによって暗殺された舞台となり、浄御原宮では壬申の乱(673年)で勝利した大海人皇子が天武天皇として即位している。
■蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺西門跡の畑の中にひっそりと建つ五輪の塔が蘇我入鹿首塚と言い伝えられる。
鎌倉から南北朝時代に造られたとされ、入鹿の首塚説の他に飛鳥寺で閑居した聖徳太子の師、高句麗僧の恵慈や、百済僧の恵聡の墓とする説もある。
■稲渕の棚田
冬枯れの棚田の藁積みに薄っすら雪が積る景色。緑が増して緩やかに湾曲した傾斜地に水を得た水田も美しい。
実りの秋、あぜ道に彼岸花が彩りを添える。1年かけて四季折々の情緒ある棚田を巡ってきた。
爽やかなこの日は、持統天皇が飛鳥稲淵から芋ヶ峠を越えて吉野行幸を再現した行列があった。
自然環境と里山に溶け込んだ景観を守ろうと棚田オーナーも募集されているが、休耕田になっている部分が目立つ。
吉野に通ずる奥飛鳥まで足を延ばす。南淵集落は大化の改新の原動力になる儒学者で学問僧の南淵請安が暮らしていた。
栢森集落は万葉集でも詠まれた飛鳥川の飛び石橋や網掛け神事の男綱、女綱など日本の原風景が今なお残っている。
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