
−歴史探訪−

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西国街道は京都と大宰府を結ぶ山陽道(中国街道)として、律令体制が敷かれた頃に拓かれた道とされる。その後、豊臣時代に朝鮮侵攻の軍勢や物資輸送路として整備された。徳川時代に入ると、幕府は西国大名が京に入ることを禁止、大津宿から伏見宿・山崎宿を経て西宮宿に至る山崎道を設けた。これが通称、西国街道と呼ばれるようになった。 |

その1 夙川(西宮宿)−伊丹(昆陽宿) <2011.4.25>
スタートは阪急夙川。夙川沿の桜並木を下って西国街道に入るとまもなく西宮神社。全国戎神社の総本社、毎年行われる福男選びの競走でも知られる。境内3箇所にカーブがある。特に最後の難関となる拝殿前、直角に曲がっているから転倒などで思わぬ事態となる。
神社の赤門から本町周辺の街道筋に西宮宿の本陣や脇本陣があったが、今はその面影は無い。
阪神高速の向こうに沢の鶴や白鹿などの酒造メーカーがみえる。灘五郷の一つ西宮郷である。ちょっと横道にそれる。酒造会館の横に宮水発祥地の碑が建つ。六甲の花崗岩を透過してミネラル成分を含んだ良質の宮水は酒造りに欠かせない。日本盛酒造り通煉瓦館などで酒造りの詳細を知ることができる。
西宮神社
街道に戻り北上、国道2号線と171号線を越えると広田の森がみえてくる。兵庫第一の古社とされる広田神社は、阪神タイガースがキャンプ前に優勝を祈願することでも知られる。境内にコバノミツバツツジが咲いている。
しばらく行くと「やくじんさん筋」の標識がある。その北側の高台が日本三大厄神として知られる東光寺の門戸厄神。初詣でよく訪れる所である。西国街道の武庫川越え、昔は報徳学園のある一里山町から渡し船であった。下流の甲武橋を渡ると尼崎市。対岸の渡し場付近に、髭の老人が営む茶屋があって髭の渡しと呼ばれたそうである。
広田神社
昆陽里の国道171号線の側に師直塚の石碑がある。足利尊氏の執事として強大な権力を発揮していたが、幕府の政務を取り仕切る尊氏の弟直義との両頭体制は、やがて幕府を二分する紛争に発展する。その戦いに敗れた高師直は京都に護送される途中、この地で討たれている。
まもなく伊丹市の昆陽寺。奈良時代の僧 行基の開祖とされる。行基は布教活動だけでなく畿内の土木や福祉事業なども手がけ、その業績は各地で多数みられる。この周辺でもいくつもの用水池を造ったとされ、昆陽池や端ヶ池が現在も残っている。
国道から逸れてようやく昆陽宿らしき道筋となる。昆陽宿跡に説明板がある。本陣1、旅籠7軒で西宮宿から瀬川・半町宿までの継ぎ宿であったと記されている。この周辺には伊丹市の行政機能が集まり、近畿の防衛中枢を担う陸自第3師団司令部もある。
昆陽寺
伊丹坂を少し下った奥に和泉式部の墓と伝わるお堂がある。和泉式部の墓や伝承地が全国各地に多数あるのは、和泉式部の生き方を語って全国を布教した尼さん達の影響といわれている。
その先の辻の碑(イシブミ)と呼ばれる四つ辻で、西国街道と多田街道が交わる。多田は源義朝、頼朝らを輩出した清和源氏発祥地。猪名川の手前のJR北伊丹まで16キロ、初日としてはタフな距離となった。
その2 伊丹−桜井(瀬川・半町宿)−萱野−豊川 <4.30>
北伊丹から猪名川の軍行橋を渡る。街道を逸れて伊丹空港の方に足を向ける。この空港は戦前、大阪飛行場として開港、戦後は駐留軍の伊丹エアベースとなった。大阪国際空港となっているが国際便は飛来しない。昔から伊丹空港で通っている。空港北端にある下河原公園の隣にエアフロントオアシスと呼ばれる公園が造られた。離発着する飛行機が眺められる。
弁慶の泉碑
ダイハツ自動車の町、池田市に入って弁慶の泉に向かう。街道から少し奥の旧国道の側にある。源義経一行が兄源頼朝によって西国に追放される際、この井戸で水を呑んだと伝わる。その先の瀬川にも弁慶が、自身の姿を水面に映して戦況を占ったと伝わる弁慶の鏡水もある。
中国高速道路の地下を潜り、石橋で阪急宝塚線と箕面線を越えると、旧街道らしい落ち着いた街並みになる。このあたりに西国大名の泊る本陣や庶民の旅籠などで賑わった瀬川宿があった。この先の半町(ハンジョ)にも本陣ができた。本陣跡は残っておらず箕面市の説明板だけ。
瀬川宿跡
阪急箕面線桜井を過ぎた牧落の辻で箕面・大阪道と交わる。ここに幕府や領主からだされる御触れを掲示した高札場があったと書かれている。道標には「大坂4里半 はっとり天神2里」「みのをみち」とある。みのをみちを北上すると小学校の遠足などでよく行った箕面の滝に通じる。
街道を進むと田畑が広がるのどかな風景になる。千里丘陵のビルや街並みを望むこの辺り、昔ながらの立派な家が多い。その中に赤穂義士として仇討に参加できなかった萱野三平屋敷跡がある。
鎌倉時代から領主であった萱野家はその頃、旗本大島家所領の椋橋庄(豊中)の代官を勤めていた。そのため三平は仇討ちに参加できず自刀した。屋敷は明治時代に萱野家が移転した際、長屋門と土壁の一部や三平が自刀した部屋が保存され史跡となっている。
新御堂筋を越えた新家の辻に勝尾寺の大鳥居がある。西国観音札所勝尾寺の参道は幾筋もあるが、西国街道に面したこの場所が表参道の起点とされている。
萱野三平屋敷
このあたりから小野原にかけて往時の面影を残す道筋が続く。京・伏見道を示す道標や常夜燈、湊川の決戦に向かう楠木正成が水を求めたと伝わる井戸跡などがある。
茨木市に入って大阪モノレール豊川まで13キロ歩いてこの日は終える。
その3 豊川−椿本陣−高槻(芥川宿) <5.11>
豊川からスタートしてまもなく郡山宿。西宮と京都を結ぶ西国街道のほぼ中間にあり、西国街道で唯一本陣跡が残っている。現在の建物は江戸時代中期に建てられ17代当主が住居する。門の脇に椿の大木があり、いつしか椿の本陣と呼ばれ国の史跡に指定されている。
国道を横切って進むと亀山街道と交差する中河原。交差点の石碑道標に「京7里 大坂5里」と刻まれている。耳原(ミノハラ)から名神高速を潜った太田にかけても古い家並がみられる。
郡山宿椿の本陣
太田の山手側、阿武山に京大地震観測所がある。この辺りは六甲有馬から続く高槻有馬構造線と呼ばれる活断層が東西に走る。慶長大地震では伏見城が崩壊するなど、京都や北摂地域に大きな被害をもたらした。その地震観測所で偶然発見された阿武山古墳。出土品から藤原鎌足の墓でほぼ間違いないとされている。
茨木から高槻の北摂丘陵には大小さまざまな古墳が点在する。街道沿いにある太田茶臼山古墳は継体天皇陵(26代)として宮内庁が認定しているが一重濠の上、周濠から5世紀の埴輪が出土していて継体天皇の没年の6世紀前半と合致しないことが明らかになっている。
今城塚古墳
そこから約2キロ東の高槻市に北摂最大で二重濠を巡らせた立派な今城塚古墳がある。高槻市を中心とする10年もの調査で国内最大の家形埴輪、埴輪祭祀場や当時の最先端土木技術などの痕跡が発見された。こちらが継体天皇陵とする学説が主流となっている。古墳公園として整備され、今城塚古代歴史館がオープンしたばかりで多くの人が訪れていた。
<天皇陵の矛盾>
余談になるが近年になって、天皇陵の間違いが次々と明らかになっている。しかし、宮内庁は天皇陵の見直をしする気はない。御陵は祭祀の対象で学術調査はなじまないとの見解を崩していない。
確かに宮内庁は行政機関で学術調査機関ではない。仮に調査機関に委託したとしても調査が必要となる古墳は1千基以上になる。膨大な費用、人材と想像できない程の年数が必要となる。そこで得られた調査結果は古事記や日本書紀と明らかに矛盾した結果になってしまう。日本の歴史を根底からひっくり返す事態になることを、宮内庁は認識しているためである。
高槻城跡高山右近像
街道に戻る。郡家から芥川あたりまで昔ながらの白壁や格子窓の家並みが残る。芥川橋を下った突き当たりに一里塚がある。この付近に芥川宿があったと記されている。
芥川商店街を抜けると、大型店や高層マンションなどが立ち並ぶJR高槻。街道を逸れて阪急高槻に通じる商店街を抜けて高槻城跡に向かう。
高槻城は室町時代に駿府の入江氏の築城に始まり、織田家の武将和田氏、キリシタン大名として知られる高山右近らが城主となっている。城跡公園には高山右近の銅像が立つ。隣接する歴史館で城下町の形成や芥川宿の様子を知ることができる。この日は阪急高槻までの12キロで終える。
その4 高槻(芥川宿)−山崎宿−長岡京 <5.15>
JR高槻からスタート。高槻からは西国街道とJR、阪急が近接するためアクセスは格段によくなる。
駅北方の高台が上宮天満宮。大宰府に次いで建てられ、北野天満宮より古いことから上宮天満宮と呼ばれている。駅東側地区で大規模開発が行われている。関西大学キャンパスが建ち、高層マンションや総合病院も建設中。道幅も広がり旧街道の面影は全く無くなった。
大名行列の様子が刻まれた桧尾川の橋を渡る。梶原の中ほどに一里塚跡の説明板がある。高槻は中心部を除くと表示や説明板が極端に少ない。狭くて車の往来が多い道路が続く。
桜井の駅碑
桜井の駅の森。古代律令制度の成立に伴って幹線道路の道筋に中央との情報伝達のため馬を配置した役所(駅)跡。この駅を有名にしたのが太平記。西国から京をめざす足利尊氏の大軍を迎え撃つため、兵庫に向かう楠木正成が嫡男正行に遺訓を残し、河内に引き返らせた楠公父子の桜井の別れの場所。乃木陸軍大将自筆の楠公父子訣別之所碑や明治天皇碑がある。
1キロ程先の集落の中に後鳥羽天皇の離宮跡に建てられた水無瀬神宮。境内の離宮の水は大阪府で唯一の名水百選。ポリタンクを持った人が列をなしている。この先のサントリー山崎蒸留所と通じる京都盆地の地下水脈で、伏見にも繋がり琵琶湖の水量の8割程に匹敵する巨大な水瓶が存在する。
山崎離宮八幡宮
水無瀬川を越えると大阪府と京都府の境となる山崎。摂津と山城の国境碑がある。JR山崎の手前にある離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社で、嵯峨天皇の離宮に八幡神を祀ったのが始まりとされる。
平安時代に神職が胡麻の搾油用具を造って朝廷から製油、販売の独占権を得る。国盗り物語の斎藤道三はこの山崎の油売り商人から身を起こした。
まもなく山崎宿。参勤交代の西国大名は京に入らせず、山崎宿から渡しで対岸の橋本、伏見宿から大津宿の間を往来した。大山崎歴史資料館で休憩を兼ねる。
山手側には天王山、サントリー山崎蒸留所、アサヒビール山荘美術館、山崎聖天など寄り道する場所が多い。京都外環状道路が建設中で旧街道は途切れがちになっている。
勝竜寺城跡公園
長岡京市に入る。神足商店街の手前からJRを潜ると勝竜寺城跡公園。勝竜寺城は南北朝時代、細川氏によって築かれた。明智光秀の娘タマが細川忠興に嫁いで過ごした。城内に2人の銅像がある。
本能寺の変の後、山崎天王山の戦いでは明智光秀がここに本陣を構えた。しかし、備中高松城攻めから急いで引き返してきた羽柴秀吉軍に敗れ、坂本城に落ち延びる途中で討ち取られている。
逆臣の娘となった、タマは丹後に幽閉されるが後、大阪玉造の細川屋敷に戻りキリスト教の洗礼を受けてガラシャと呼ばれた。関ケ原の戦いの前哨戦で、石田三成に細川屋敷を囲まれ自害。ガラシャの墓は淀川区東中島の崇禅寺にある。街道筋の神足商店街に戻り、JR長岡京まで14キロで本日の行程を終える。
その5 長岡京−東寺 <5.26>
長岡天神からスタート。菅原道真が左遷され大宰府に向かう途中、立ち寄って名残惜しんだことから見返り天神とも呼ばれる。本殿は昭和初期に平安神宮から社殿を移設している。参道を覆う霧島ツツジは5月連休過ぎに咲き終えてしまった。
一文橋
一文橋にさしかかる。架け替えや補修のため、通行人から1文づつ徴収したのが橋の名前の由来。橋の四隅が一文銭になっている。この西方に牡丹で名高い乙訓寺や紅葉の名所の光明寺がある。
向日町に入る。このあたり一帯の地中に長岡京の遺跡が眠る。天皇が政治を司る大極殿や国儀を行う朝堂院などの宮跡が周辺住宅の中に点在する。長岡京は桓武天皇(50代)が新しい体制を求めて平城京から遷都した。難波宮の宮殿を解体、渡辺の津から淀川の水運を利用して運び、1年足らずで長岡宮を造営している。その規模は東西4、南北5キロと広大であったとされる。
街道を隔てた西側に奈良時代創建とされる向日神社がある。本殿は室町時代の建築様式を残し、東京の明治神宮の原型になっている。
長岡京大極殿跡碑
向日町の三差路で西国街道と丹波道、愛宕道に別れる。「江戸期古道名」の石碑が建つ。ここから西国街道の道筋は複雑に折れ曲がる。向日町を過ぎると京都市。桂川の久世橋を渡り、細い旧街道を進んで九条御前で国道に合流する。国道の北の奥に平安京が衰退後、姿を消した西寺跡がある。今は講堂跡の土塁に石碑と礎石が残るだけ。
平安京は桓武天皇が長岡京に遷都してから僅か10年後に再遷都している。以後、明治維新まで天皇の住む都が約1100年間続く。その規模は東西4.5、南北5.2キロの中に区画され、南の玄関口正門の中心に羅場門が建ち、それを守護するように東西に東寺と西寺が配置された。
九条通りを少し進むと、小さな公園の一画に羅城門跡碑がある。羅城門は都城の城壁。門を境に都の内と外に区分された。その羅場門は横幅が約35m、高さが約21mに対して、奥行きが約9mしかないアンバランスな建物のため台風で崩倒後は再建されず、平安中期以降は世の中が乱れ、羅城門周辺は荒廃。今昔物語集の中で奇怪な説話が出現した。芥川龍之介の小説、羅生門はその頃を題材にしている。
羅城門
京阪国道口まで来た。ここで西宮から続く国道171号線は1号線と交わって終わる。その角が東寺(教王護国寺)。平安京造営時に都を守る官寺として、西寺や羅城門とともに建てられた。嵯峨天皇の頃、空海(弘法大師)に与えられ真言宗総本山となっている。日本一となる高さ55mの五重塔は徳川家光によって寄進再建された。ここまで13キロ。京都駅までおまけの1キロ強を歩い西国街道は完結した。
西国街道は並走する国道から少し入るだけで、比較的落ち着いた環境となる。度々車などで走り抜けてきたが、歩いてみると今まで気づかなかったものが見えてくる。
よく整備された街道の各所に、歴史資料館や灘の酒造メーカー、山崎サントリー、アサヒビール山荘などの企業館、伊丹空港などもあり変化に富んで見どころも多い。予定を大幅に上回る約70キロも歩いた。

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