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        −歴史探訪−
  熊野街道 八軒屋浜−山中宿 

       

     

昨年、京街道を歩いて歴史街道への興味がさらに増した。もともと歩くのは嫌いではない。今年は熊野街道に挑戦することにした。

天満橋から四天王寺、堺、泉南、和歌山から紀州路、熊野古道を経て熊野三山へと続く道のりはあまりにも遠く険しすぎる。大阪府内あたりまでに留め、気ままに歩いてちょっと寄り道、無理のない歴史の歩き道にしたい。


その1 天満橋−天王寺 <2010.1.2>
 熊野は古くから神仏が宿るといわれる山岳修行の霊場であった。平安時代、貴族社会を中心に阿弥陀信仰が高まると、熊野が浄土の聖地とされて熊野権現(本宮大社・速玉大社・那智大社の熊野三社)を巡る熊野詣が盛んになる。やがて庶民にいたるまで「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わった。

 その「権現」とは、根本である仏が人を救うために、神に姿を代えて権(仮)に現れることで、このような神仏一体の崇拝は吉野権現・蔵王権現・立山権現など山岳宗教の他、祇園信仰・八幡信仰・金毘羅信仰などで多くみられる。後に明治政府は、神社と寺院を区分する「神仏分離令」をだした。
 熊野詣の出立点となる京都城南宮から舟で淀川を下り、天満橋付近から陸路で片道約300キロ、半月を要した。街道沿いに熊野の神を祀る九十九王子社ができ、参拝者の儀式や道中の安全祈願、休憩所となった。
   渡辺津(天満橋)

 正月2日、天満橋をスタート。熊野詣が盛んであった平安時代は渡辺津や窪津(クボツ)と呼ばれ、瀬戸内海沿岸最大の港湾であった。豊臣、徳川時代には八軒屋浜と呼ばれ、三十石船が往来して賑わった。
 土佐堀通に八軒屋船着場址碑と熊野かいどう碑がある。少し南下した坐摩(イカスリ)神社付近に、熊野九十九王子社の1番目となる窪津王子があったとされる。
 御祓筋を南に北大江公園、中大江公園を過ぎた南大江公園に2番目の坂口王子伝承地とされる朝日神明社跡がある。ここから谷町筋を越えて上汐筋を南下。3番目の郡戸王子の所在は明確でないが、昔は郡戸(コウト)を「コウズ」と読んだことから高津宮付近と考えられている。
 仁徳天皇を主祭神とした高津宮は難波高津宮跡にあったとされているが、大阪城築城に際し現在地に移された。4番目の上野王子跡は分らなかった。

 初詣で混雑している四天王寺に立ち寄る。中門(仁王門)・五重塔・金堂・講堂を一直線に配置、中門の左右から延びる回廊が講堂に繋がる四天王寺式伽藍、聖徳太子創建による日本最古の飛鳥建築様式。
 現在の建物は大阪空襲で焼失した後、昭和38に再建。南大門の前に熊野権現礼拝石があり、人々はこれを拝んで熊野に向かった。
   四天王寺熊野権現礼拝石


 熊野街道はここから天王寺駅を突き抜けるが、下寺町から夕陽丘にかけて点在するの天王寺七坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)に寄り道。
 清水寺の舞台から通天閣や難波あたりが一望できる。通称愛染さんの勝鬘院(ショウマンイン)や、上野王子が合祀されている大江神社、逢坂を横切ると一心寺。谷町筋にでると聖徳太子ゆかりの堀越神社。この境内に八軒家浜の近くにあった窪津王子が合祀されている。

 本来5キロの街道を遠回りしてようやく天王寺に着いた。天王寺の呼名は四天王寺の略称が地名に転化した。万歩計は1.5万歩(約10キロ)になる。


その2 天王寺−杉本町 <2.8>
 JRと地下鉄は天王寺。近鉄は阿部野。地名は阿倍野やあべの筋だから大阪人でもややこしい天王寺からスタート。近鉄百貨店の解体工事はほぼ終了。ここに日本一300mの超高層ビルが建てられる。
 あべの筋に入り阪堺路面電車の上町線に沿って南に歩く。阪神高速高架下の石標に八軒屋浜から6キロとあるが既にその倍も歩いている。寄り道のしすぎである。

   阿倍王子神社

 松虫交差点であべの筋から離れると街道らしくなる。左手に阿倍晴明神社が建ち境内には阿倍晴明公産湯井の跡がある。阿倍晴明は平安時代の陰陽師で天文、暦、易などに長けていた。その先の阿倍王子神社は大阪府内では唯一、現存する王子社。このあたりの町名は王子町となっている。

 帝塚山の静観な家並みが続く。万代池を過ぎて阪堺線から離れ南海高野線を越すとまもなく住吉大社が見えてくる。摂津国一の宮、全国の住吉神社の総本社。住吉三神と神功皇后(14代仲哀天皇の皇后で仁徳天皇の母)を祀る。神功皇后の新羅出兵や遣唐使の派遣時に海上の無事を祈った海の守護神である。通常、神社の本殿は南向きか東向きであるがここは海のある西向きに建っている。社殿の住吉造は国宝。
 有名な反橋(太鼓橋)は秀吉側室の淀が寄進した。神社の橋は神に近づくための清めと、地上人と天上神をつなぐ掛け橋として虹にたとえられた。
   住吉大社(国宝社殿)

 街道筋に戻ると墨江小学校前に津守廃寺址がある。このあたりに津守王子があったと掲示されている。

 例によって寄り道。沢ノ町の東にある日本最古の観音寺といわれる我孫子観音まで足を延ばす。百済から観音像が贈られ、後に聖徳太子が再建てしいる。大阪夏の陣では真田幸村に追われた徳川家康がこの寺の本堂須弥壇に隠れ危うく難を逃れた場所。

ここから南下すると大和川に突き当たる。JR杉本町まで12キロ弱を歩いてこの日は終了。


その3 杉本町−三国ヶ丘 <2.20>
 杉本町から大和川を越えると堺市。見どころが多い堺の街中を見物するため、熊野街道から離れて紀州街道を周る大回りコースとなる。
 大和川の堤防にでると浅香山の付近で川が蛇行しているる。昔の大和川はこの場所にはなく、川上の柏原から北にいく筋もの支流に分かれて河内湖に流れ、大阪市の京橋付近で淀川と合流していた。
 上町台地に遮られた東大阪周辺の湿地帯では大和川の氾濫による洪水に悩まされた。仁徳天皇の堀江掘削や和気清麻呂の天王寺掘削などの治水工事が行われたが改善せず、大和川付替えが行われるのは江戸期になる。柏原から西に大阪湾までほぼ直線的に掘削。しかし、浅香山台地が硬くて掘削が進まず難航。この部分だけ蛇行、工費が高くなったため浅香の千両曲りと呼ばれた。
   堺刃物伝統産業会館

 大和川大橋を渡る。堺は摂津・河内・和泉の三国の境に位置していることから「さかい」と呼ばれた。紀州街道、竹内街道、熊野街道の分岐点で大阪がまだ湿地帯の頃、上町台地から続く堺港や住吉港は大和方面への物資輸送、貿易港として発展した。また、自治都市として町の防御や海運の機能も併せ持つ環濠を廻らせたことでも知られる。
 街道沿にある鉄砲鍛冶屋敷や江戸時代に建てられた山口家に立ち寄る。「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、堺の建て倒れ」といわれた通り、立派な建物。堺の地場産業でもある自転車会館刃物伝統産業会館も道筋にあり足早に見物。堺の刃物の特徴は柔らかい鉄と固い鋼の二重構造で業務用包丁の多くは堺製とされる。
 程なく与謝野晶子の生家跡。堺駿河屋の娘として生まれ与謝野鉄幹に魅せられ上京する。さまざまな執筆活動を展開する一方、女性の地位向上にも積極的に取り組んだことで知られる。
 その先、千利休屋敷跡と伝えられる場所に、茶の湯に常用したとされる椿の井戸がある。堺の豪商であった利休は茶道を介して織田信長や豊臣秀吉に仕えるが、晩年、秀吉の怒りにふれ自刃している。朝鮮出兵の反対や大徳寺山門に利休像を建てたことなどが原因とされている。
   千利休像

 路面電車の御陵前を東に入ると南宗寺。臨済宗大徳寺派の禅寺で利休もこの寺で禅を学んでいる。大阪夏の陣で焼失後、沢庵和尚が寺の再興に尽力したと説明されている。

 ここから堺市役所の展望ロビーや、阪神高速の西にある妙国寺に立ち寄る。境内に樹齢1000年を越す夜泣きソテツがある。織田信長がこの大ソテツを所望して安土城に移植させるが、毎夜「堺へ帰る」と泣いたそうで、激怒した信長はソテツを切って妙国寺に帰したとされる。

 熊野街道に戻る。小さな公園の角に境王子跡の石碑がある。熊野街道を南に突き当たると方違神社、摂津・河内・和泉の国境にあることに由来して方角の厄払いを司る。神社を抜けて反正天皇陵を過ぎると中央環状線。その交差点の角に竹内街道の石碑がある。二上山を越えて大和の橿原・飛鳥・三輪に通じる官道であった。交差点を過ぎるとJR三国ヶ丘。堺の中心部も周って約13キロ程になる。


その4 三国ヶ丘−和泉府中 <4.25>
 2か月ぶりとなる。三国ヶ丘駅から中央環状線と南海高野線を越えると巨大な大仙古墳(仁徳天皇陵説)の北端にでる。日本最大の前方後円墳(480m)は西半分の外周を歩いただけで2キロもある国内最大古墳。エジプトのフク王ピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大陵と呼ばれている。
 宮内庁では難波高津宮を宮殿として、難波の堀江・茨田堤など多くの土木事業を行った仁徳天皇陵(16代)と認定しているが、出土品は5世紀のモノとされ、仁徳天皇の在任間の4世紀(後半)と合致しないため学術的には否定されている。

 この大古墳がなぜ堺に造られたのかは諸説ある。外国の使者が大阪湾の旧堺港や住吉の津から竹内街道を経て大和に向かう入口にあたり巨大陵の威圧、権力の存在誇示説はそのひとつとされている。
   大仙古墳(仁徳天皇陵説)

 熊野街道は御陵通を西に進む。大仙公園の中を突き抜け履仲天皇陵を経て石津神社からしばらく進むと大鳥大社。日本武尊と大鳥連を祀る全国の大鳥社の本宮で和泉国一の宮でもある。JR阪和線を越えた鳳商店街あたりにあった大鳥居新王子は先の大鳥大社に合祀されている。
 商店街を抜けて府道と離合を繰り返す単純な道を南下。泉北クリーンセンターと堺泉北高速を越えると和泉市に入る。道路に王子町を示す文字絵タイルが敷かれている。少し進むと聖神社大鳥居の参道横に篠田王子跡の碑がある。篠田が信太の地名になったことがわかる。高台にある聖神社に寄るが、住宅団地と信太の集落に迷いこんでしまう。もとの街道に戻るまで苦労する。
   小栗街道碑

 次の平松王子が合祀されている伯太神社付近でも迷うが、何んとか自衛隊信太山駐屯地前に出てきた。信太山は小学校の林間キャンプで来たような記憶がある。

 この辺りに来ると小栗街道の表示が目に着く。歌舞伎や浄瑠璃で登場する小栗判官から名づけられている。その小栗判官は毒を盛られ、冥土の閻魔大王の裁きによって眼も見えない餓鬼として俗界に戻される。手押し車に乗せられて照手姫や熊野詣の人々に引かれて、着いた本宮湯の峰温泉の湯治で元の姿に蘇生する死と蘇生の物語である。モデルは常陸国小栗城の小栗判官助重といわれている。近くのJR和泉府中駅でこの日は終える。


その5 和泉府中−泉佐野 <5.5>
 和泉府中駅をスタートして熊野街道を南下する。柳田橋の手前に井ノ口王子跡碑がある。橋を渡ってちょっと寄り道、松尾川緑地公園に入るとその中ほどに小栗街道の説明板がある。

  ここから次の池田王子が合祀されている岸和田市春木の夜疑神社に向かう道を間違える。遠回りになったがJR久米田駅前にでることができた。
   岸和田だんじり地車倉庫

 久米田から下松、岸和田、貝塚と6キロの長い道が続く。その間に町内ごとにだんじり地車倉庫がある。和泉式部の筆塚碑や伝承地らしき場所もある。平安時代の歌人和泉式部は夫の赴任地任の和泉と、父の官名である式部からこのように呼ばれた。
 東貝塚周辺に浅宇川王子があったとされる。そのJR東貝塚駅の隣に東京オリンピックのバレーボールで金メダルをとった東洋の魔女のホームグランド、ニチボー貝塚工場があった。この伝統あるニチボーのバレーボールチームはユニチカに変わり、今は同じ繊維メーカーの東レ滋賀に引き継がれている。貝塚工場跡地に建つ貝塚市歴史展示館で当時の様子を知ることができる。

 半田一里塚を過ぎてJR和泉橋本駅を越えた近辺に鞍持王子、その先に近木王子があったとされるが定かでない。このあたりの町名も王子町となっている。

 熊野街道は泉南まで国道26号線と府道が走り熊野街道と紀州街道が混在する。泉佐野の手前に佐野王子跡の石碑がある。ここからJR日根野駅までまだ3キロを残しているが、今回は途中で体調不良になり南海の泉佐野駅で終える。


その6 泉佐野−山中宿 <5.29>
 南海泉佐野駅をスタート。関空道を潜って長滝西から熊野街道に入る。樫井王子はわかり難くくパス。大阪夏の陣の古戦場跡から明治橋へと進む。泉州名産の玉ネギ畑が広がる。
 一岡神社や古代史博物館を過ぎて信達大苗代の交差点を少し右奥に入ると20番目の厩戸王子跡碑がある。泉州名産の水なすを売る店を過ぎると、まもなく信達宿(シンダチ)に入る。熊野詣をする上皇や公家の宿泊所が置かれていた。中でも立派な角谷家屋敷は本陣として紀州徳川家も泊っている。
    信達宿角谷家


 直ぐ左の山手が真言宗御室派長慶寺。創建は古く聖武天皇の勅願により行基が開山したとされる。山門の石段に紫陽花が植えられているが、咲きだすのはもう少し先になる。

 和泉砂川駅を過ぎて熊野街道と根来街道が交差する大鳥居を越すとブロック塀の中に信達一ノ瀬王子跡の祠が並ぶ。JRの踏切を渡り坂を登るとツツジで有名な林昌寺であるので寄り道。満開期の5月連休過ぎに訪れたかったが遅れた。平戸ツツジは終わっていたが霧島ツツジが咲き始めていた。泉南の海が望める小高い境内で小休止。
 街道の表示が乏しく、入り組んだ集落に迷い込む。JR線を頼りに和泉鳥取駅にたどり着く。この駅裏で地蔵堂王子を示す標識を見つける。ここから奥の林のが琵琶ヶ岸(ビワガケ)。琵琶を弾く盲目の琵琶法師が熊野詣の時、谷に落ちたとされる場所で熊野街道の難所のひとつ。蛇獣道のため府道を迂回する。
    山中渓

 王子原のゆるやかな登り坂が続く府道の側に、大阪府で最後の王子社となる馬目王子(ウハメ)の石碑がある。その昔、山中の足神さんとして信仰を集めたと説明されている。

 まもなく府道から分離して石畳が敷き詰められた山中宿に入る。江戸期の庄屋屋敷や参勤交代で使用した本陣が残っている。信達宿から近いため休憩や昼食所として利用された。

 再び府道に合流したところが山中渓駅。JR阪和線の中では最も乗降客が少ない小さな無人駅であるが、駅周辺は桜の名所でその頃になると駅員が派遣される。

 正月から6区間、6か月もかかってしまった。泉南地区は馴染みが薄く堺より以南では街道の表示がない所が多く迷走した。王子社数では1/4を通過してきたことになるが、所在はかなり不明確になっていた。距離的には全行程の1/5以下。ガイドマップでは天満橋から山中渓まで約65キロ。道に迷ったりして80キロ近く歩いたのではないかと思う。
 この後、山岳道路に入る。季節もまもなく梅雨、夏の厳しい時期を迎える。一旦終了するが熊野古道、熊野三社には是非訪れてみたい。




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