
−歴史探訪−

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豊臣秀吉が大坂城との往来のため淀川左岸に文禄堤を築いている。これが京街道の起源。その後、徳川幕府は五街道を設定。東海道は京三条から江戸日本橋まで53の宿場を設けた。参勤交代が盛んになって、西国の外様大名が京都に立ち寄り、朝廷や公家と接触することを恐れた幕府は、西国大名が京都に入ることを禁止。山科の追分から伏見宿・淀宿を設け西国街道に誘導。さらに枚方宿・守口宿を加えて東海道を延長、宿場は57になった。
京街道はこの延長東海道と重なる。東海道大坂の起点、高麗橋からスタートして京都三条までの歴史街道を何回かに分けてその痕跡をたどる。 |
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その1 高麗橋−守口宿 <2009.9.20>
◇高麗橋
京阪電車の北浜から少し南下すると東横堀川に架かる高麗橋がある。昔は橋の正面から真東に大阪(坂)城が望めた。高麗橋の東詰にある里程元標碑には京都三条大橋まで十三里十二丁(約52キロ)、東京日本橋まで百四十三里二十丁(約560キロ)とある。尚、一里は約3.9キロ、十丁は約1.1キロになる。
京橋
◇八軒屋船着場跡
高麗橋から東に熊野街道碑と八軒屋船着場跡碑がある。このあたりは淀川海運の拠点で平安時代後期は熊野詣の陸路出発点であった。豊臣時代は伏見との間を往来する三十石船で賑わった。
◇京橋
天満橋駅を過ぎて土佐堀通を進むと京橋の北詰。京橋は大阪城の出入口のひとつで寝屋川に架かる橋。京街道の出発点となる。この橋の側に京橋川魚市場跡碑がある。魚類を持ち寄って取引した魚市が公設市場に発展したと記されている。
大阪城を見ながら片町を過ぎと、人と自転車がいっぱいの京阪電車とJR京橋駅。先程の京橋からは1キロ以上離れている。交差点に「左京みち 右大坂」、裏面は「右大和なり」と刻まれた文政9年(江戸時代後期)の石碑が立つ。京街道と大きく書かれたJR環状線ガードと国道1号線を潜り抜け京橋新京阪商店街に入る。
中ほどにある榎並地蔵は処刑者の供養塔と伝わる。江戸時代、京街道の通行の多いこの付近に見せしめのため公開処刑場が置かれていた。大阪城の豊臣残党の多くもここで処刑された。
野江七曲がり
◇野江・関目の七曲り
商店街をさらに進むと狭く入り組んだ野江の七曲り。その先に野江水神社がある。このあたりに三好氏が築城した榎並城があって、城内に水火の守護神を祀ったのが始まりと説明記載されている。隣の榎並小学校の横に榎並城跡と能の起源とされる榎並猿楽発祥地碑がある。
都島通の国道商店街を北東に進む。その北側が関目の七曲り。敵の進軍を防ぐため、幅1.8mしかない狭く複雑な道にして、関の目と呼ばれる監視所が置かれた。これが関目の地名の由来になった。
◇京街道商店街
1号線関目交差点の京街道碑を進むと、森小路の京街道商店街に通じる。京街道は北に真直ぐ続くが、東に入ると旧スーパーダイエー発祥地の千林商店街。大阪では残り少なくなった賑やかな商店街のひとつである。続く今市商店街を抜けると1号線の京街道碑にでる。
◇文禄堤
1号線の南にある京阪本通商店街の中ほどに守口の総氏神となる守居神社がある。このあたりの町名は土居、守口と土居を掛け合わせた神社名となっている。
商店街を進むと旧三洋電機本社ビルの裏手に文禄堤碑がある。すぐ右の坂が文禄堤。京阪の守口高架駅と同じ高さで一般道路は下になる。
文禄堤は豊臣秀吉が大阪城防衛のため伏見−大阪間を最短で結ぶ陸路として、毛利一族らに命じて淀川左岸に築かせた。この堤が京街道の起源となっている。その後、淀川の補強整備などでほとんど失われ、今では守口に1キロ程度が残るだけとなっている。

◇守口宿
文禄堤には東海道57番目守口宿の面影を残す高札場跡、虫籠窓の厨子二階、千枚格子の古い家並みや「右なら のざきみち」の石標などが残っている。やがて1号線八島交差点にでると、守口本陣跡や大阪町奉行与力で大塩平八郎の乱を起こした平八郎を支援をした白井家がある。
その先の西に蓮如上人が創建した西御坊の難宗寺、東側に東御坊の盛泉寺が建つ。いずれも格式の高さを示す5本線の壁となっている。難宗寺の角にはすぐ京街道、すぐ守口街道、御假泊所、御行在所と刻まれた石標が建つ。天皇の宿泊所であったことをうかがわせる。
歩きマップでは高麗橋−守口間は11キロとなっているが、野江や関目の七曲りに入り込んだり、千林商店街などもうろうろして13キロ以上歩いている。暑くて疲れた。初回はここまでで終える。
その2 守口宿−枚方宿 <9.28>
◇守口一里塚
枚方から八島浜町の1号線を横切るとすぐに守口一里塚がある。京街道と表示された敷石道を北上すると淀川の堤防にでる。鳥飼大橋とモノレールを潜ると佐太。堤防下の1号線の側に佐太渡船場碑が建っている。向かいの摂津市鳥飼との間に渡しがあったことを示す。
1号線を渡ると佐太天神宮が見えるので少し寄り道する。菅原道真が大宰府に流される時、領地であるここに立ち寄ったとされる。周辺には古い立派な屋敷が残っている。
茨田堤碑
◇茨田堤(マッタツツミ)
淀川堤防に戻り鳥飼仁和寺大橋を潜る。次の淀川新橋の手前に茨田樋遺跡がある。淀川に限らず川沿いにはこのような樋門(用水路)が幾つかあった。
淀川新橋の南詰め、国道太間交差点の少し東、絶間橋を渡ると太間天満宮がある。このあたりの淀川は流れが速く絶えず決壊していた。その絶え間が現在の太間の地名になった。
この境内に茨田堤伝説の杉子絶間跡碑がある。仁徳天皇が手懸けた治水工事の中で日本最古の堤防とされるのが茨田堤。その人柱になった茨田杉子の伝説が語り継がれている。現存する茨田堤は京阪大和田駅の北東にわずかな土盛り跡を残すだけとなっている。
◇出口御坊(光善寺)
守口から8キロ程続いた京街道淀川堤から下ると出口集落。この中に出口御坊の光善寺がある。集落は善光寺の防備のため道は狭く枡形で迷路のようになっている。
本願寺八世蓮如上人は越前吉崎を退去、この出口に移り光善寺を建て布教活動をしている。境内には蓮如上人の銅像、寺の少し手前に蓮如上人が説法をした腰掛石がある。上人はこの後、紀州を経て山科本願寺に拠点を移す。後に大阪城付近に石山本願寺を建て隠居所としている。
出口御坊(光善寺)
◇枚方宿
出口から伊加賀を経て枚方大橋の南詰にでる。国道を横切ると東海道56番目の枚方宿の西の見附。この周辺は石標などでわかりやすく表示されている。
淀川の堤防に上がると郵便屋の渡し跡碑がある。明治時代このあたり一帯の郵便物は渡しで対岸の国鉄高槻駅に運んでいたと記されている。堤防沿いには枚方宿の代表的な船待ち宿の鍵屋が資料館になっている。ここで当時の枚方宿や淀川船運の様子を詳細に知ることができる。三十石船で伏見から大阪八軒屋浜まで川下りは6時間、上りはその倍の時間と費用を要したと説明されている。
「酒くらわんか、餅くらわんか」と売ったくらわんか船は徳川方の兵糧米を運んだ功績で幕府に営業権が認められた。この乱暴な言い方は代表的な河内弁である。
◇枚方寺内町
京阪枚方公園駅を過ぎると寺院が多い。京阪の踏切横の願生坊のある場所に昔は浄土真宗順興寺があって、ここを中心に寺内町が形成された。後に京街道の宿場町枚方宿として賑わう。
その山手、万年寺山(古墳)に登ってみる。意賀美神社と御茶屋御殿跡碑がある。御茶屋御殿とは本来、徳川将軍が外出する際に利用する施設であるが、ここは豊臣秀吉が枚方城主であった本多正康の娘を住ませた屋敷跡。淀川や対岸の北摂地域が見渡せる景色のよい場所にある。
宗左の辻
◇宗左の辻
万年寺山を下って街道に戻る。枚方宿の中心であった本陣跡は説明パネルが残るだけとなっている。敷地500坪。本陣内部の間取りが記載されている。
枚方駅前の東角の四つ辻に宗左の辻碑がある。昔、この角に油屋の角野宗左屋敷があって枚方宿の遊女がここで客を見送った。「おくりましょうか おくられましょうか せめて宗左の辻までも」
と歌(黄昏の御堂筋)になっている。西角の石標には右 くらじたき(倉治の滝)、左 京やはた(八幡)、もう一面には右 大坂みちと記されている。京街道と磐船街道の追分であった。枚方駅まで約14キロ程歩いてこの日は終える。
その3 枚方宿−八幡 <11.4>
◇枚方から御殿山
枚方駅北口から直ぐ東が枚方宿の東の見附。道筋に問屋役人小野家の古い家が残っている。その先で天野川の堤防に突き当たるため府道の鵲橋を迂回する。
昔、白い砂ときれいな流れのこの川に、鵲が群がり橋をなして牽牛と織姫の橋渡しをする天の川と呼ばれ、天野川と鵲橋の名前の由来になった。川の上流にある交野の機織神社は七夕祭りになると賑わう。
京阪御殿山駅前の急坂を登った高台が御殿山。江戸時代、永井伊賀守の屋敷御殿があったことから御殿山と呼ばれるようになった。高台を降りて渚地区の入り組んだ集落の中に、文徳天皇の第一王子惟喬親王の別荘、渚の院跡の石碑が残っている。
天野川
◇牧野・樟葉
京街道は府道三栗交差点を右折、三栗の集落を抜けると牧野になる。阪今池公園の先に常夜燈があり片埜(カタノ)神社の参道に通じている。3世紀後半から4世紀前半の垂仁天皇(11代)の頃、出雲の豪族 野見宿禰(ノミノスクネ)が大和の当麻蹴速(タイマノケハヤ)との相撲に勝った恩賞としてこの地を拝領、建速須佐之男命を祀った。平安時代には野見宿禰の後裔にあたる菅原道真も祀られていた。
牧野から京阪の線路沿いを北上する。穂谷川と船橋川を越えると淀川堤防に出る。樟葉駅を過ぎて北上する。道筋に継体天皇樟葉宮伝承地の標識があるが数キロも逸れる。この先、八幡までまだ5キロ近くも残しているため諦める。
◇橋本遊郭
幕末の頃に置かれていた樟葉砲台跡を過ぎてのどかな農道の中を進む。京阪の踏切を越えると橋本に入る。道筋には遊郭時代の意匠を凝らした透かし彫り格子のある宿が今も残る。道の角に橋本渡舟場、「山ざき あたごわたし、柳谷わたし」と書かれた道標がある。西国街道の山崎の間を結ぶ渡し場として賑わった。
橋本遊郭
◇八幡・石清水八幡宮
文政5年(徳川後期)と記された常夜燈を過ぎて、淀川堤防沿いの楠木の大木を越すとまもなく八幡。ここから男山の石清水八幡宮まで登るエネルギーはない。ケーブルに乗る。
八幡宮は応仁天皇(15代)と同類とされ、京の守りとして宇佐本宮(大分)から分祀された。ここで源義家が元服して八幡太郎と名乗って以後、八幡信仰が普及した。格式は伊勢神宮に次ぐとされる。
男山の展望台から木津川・宇治川・桂川の三川合流を挟んで、天王山や長岡京・京都・伏見方面を望むことができる。
その4 八幡−伏見宿 <11.16>
◇淀宿
八幡をスタートして木津川と宇治川に架かる御幸橋を渡る。下流の背割堤で三川が合流する。宇治川右岸堤防を歩き、京阪踏切を越えて堤防を下りる。美豆小学校をすぎるあたりから淀宿となる。東海道55番目の宿場であるが伏見宿から近いことから本陣はなく小規模であった。
◇淀城址・淀古城址
淀駅の北側に京街道や伏見街道などの古い石碑が集められている。その奥に淀城跡の石垣が残る。伏見城を廃棄した徳川幕府は当時、三川合流していたこの場所に西国大名の押さえとして城を築いた。掲示板に描かれている淀城は三川で囲まれた水城のようである。現在三川が合流している地点は4キロも下流の山崎である。およそ400年間に川筋が変わった。
淀駅の北、納所交差点を越えて桂川の左岸を少し入った妙教寺の境内に淀古城があった。豊臣秀吉が淀(茶々)の居城として与えたが大阪城が完成した後、廃城となった。
山崎城跡、三川合流
◇巨椋池干拓地
納所交差点に戻って伏見を目指す。線路の向こうに広大な京都競馬場がある。横大路で京阪の踏切を渡り宇治川右岸堤防を進んで国道1号線を越える。宇治川の向こうは高速道路が走り住宅団地が広がる。昔、この辺りは宇治川が流入して巨大な巨椋池(湖)であった。
豊臣秀吉は宇治川と巨椋池を分断、北側に文禄堤を築いて京街道とする。東側は巨椋池を横断する小倉堤や槇島堤(宇治堤)を築いて、伏見から大きく迂回していた旧大和街道を最短化している。それらは総称して太閤堤と呼ばれ今も周辺の発掘調査が進められている。
◇伏見港
宇治三栖閘門を過ぎると伏見港公園。秀吉は宇治川、巨椋池の治水とともに伏見築城の物資搬入港として港を整備、大阪との間を三十石船が往来した。今は観光の十石船や三十石船が行き交う。
三十石船
◇伏見宿
伏見は豊臣時代に城下町、商業都市と街道の起点として発展した。徳川時代に入ると東海道53次を大阪まで延ばして54番目の宿場としている。その中心となる京橋から伏見港付近にかけて本陣4、脇本陣2の他、多くの旅籠が並び最盛期の人口は京、大坂、江戸に次いだとされている。
◇寺田屋の偽装
薩摩藩指定の船宿であった寺田屋。薩摩藩急進派が同穏健派に襲われる寺田屋事件の2年後、ここを常宿としていた坂本龍馬、伏見奉行所の襲撃にあい負傷した場所でもある。
京都市が行った調査によると、その当時の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失していて、現在の寺田屋はその後、当時の敷地の西に建てられたものであることが明らかになり、史跡指定は取り消された。
所有も寺田家ではなくなっている。にもかかわらず14代寺田屋伊助と自称する所有者、偽装した弾痕や刀傷柱を本物として見物客に説明している。
◇伏見の清酒
伏見には月桂冠、黄桜酒造、松本酒造など20以上の清酒会社があり、全国酒10%を生産している。周辺には大きな酒蔵もあって、月桂冠大倉記念館や黄桜ギャラリーで酒造り工程を見学することができる。
伏見の語源は伏水、不二の水とされる。京都盆地の巨大地下水脈は、東山から続く丘陵地帯から南西に流れる良質な地下水によって得られる。この地下水脈を守るため、伏見の地下鉄乗り入れは断念された。
四辻の四つ当たり
◇四つ辻の四つ当たり
月桂冠の少し北、四方から来る道がいずれも突き当たる「四つ辻の四つ当たり」がある。城下町ではこの様な袋小路や七曲りを設けるが、伏見ではここが唯一で道幅も広い。商業都市として発展させたかった秀吉は七曲りを極力避けたとされている。
◇伏見の町名
伏見の町名は面白い。風呂屋町・小豆屋町・帯屋町・瀬戸物町・魚屋町、木下屋敷町・池田屋敷町・越後屋敷町・加賀屋敷町・羽柴長吉町・松平筑前町・毛利長門町・・・など昔の商業都市、城下町らしい町名が付けられている。
徳川幕府が最初に開いた銀座跡などの旧跡やいろいろな町名も見て周った。約10キロとされる八幡−伏見間は丹波橋まで約14キロにもなった。
その5 伏見宿−京都三条 <11.26>
◇伏見桃山城
最終回は桃山御陵から出発する。鳥居を潜ると神功皇后を主祭神する御香宮神社。境内の御香水は伏見の地下水と同水脈の名水百選。立派な表門は伏見城の大手門を移築。伏見城城石の一部も境内に残る。
今の伏見桃山城はここから直ぐの丘陵地にあるが、遊園地として造られた模擬城で耐震性が劣るため内部は閉鎖されている。豊臣期に造られた最初の指月山伏見城は豊臣秀吉の隠居所として豪華を極めたが慶長大地震で崩壊。その後、再建された木幡山伏見城は関ケ原の戦いで焼失。後に徳川家康によって再建されたが三代将軍家光の頃に廃城、二条城・淀城・福山城などに分散移設された。城跡一帯が桃畑となったことから伏見桃山と呼ばれるようになった。
伏見桃山城
◇伏見街道
伏見から京都五条までは伏見街道とも呼ばれる。江戸時代には西に竹田街道が拓かれ、明治時代に日本で最初の市電が通っていた。平行して別に鳥羽街道も拓かれた。
参勤交代が盛んになると、徳川幕府は西国大名が京の公家と接触することを防ぐため、京に入ることを禁止、大津宿から伏見宿に通じる大津街道に誘導している。
伏見街道本町通の番地の付け方がおもしろい。伏見区深草の本町1丁目から始まり、北上して2・3・4〜11丁目まである。ところが、東山区に入ると逆転して22丁目から始まり、21・20・19・18丁目〜と北上して五条1丁目まで続く。
◇撞木町(シュモクチョウ)
京町通と国道24号が交わる撞木町交差点を北に少し入ったところに、撞木町廊入口の石碑がある。昔、赤穂浪士大石内蔵助が遊行に耽ったよろずやがあった。撞木とは鐘をたたく棒のこと。
◇欣浄寺(ゴンジョウジ)
京町通を北上して直ぐ東の奥に欣浄寺がある。ここに深草少将の屋敷があったとされる。その深草少将は室町時代に世阿弥らが創作した小野小町にまつわる百夜通いの物語に登場する。
小野小町に恋した少将は、ここから小町が住む山科の隋心院まで一里余を100日間通う約束をした。その99日目の雪深い夜、隋心院に向かう途中で凍死してしまう。欣浄寺の境内には少将を偲ぶ井戸や少将塚・小町塚がある。
稲荷旧ランプ駅舎
◇旧東海道線
本町通りを北上する。深草の名神高速を潜ってJR奈良線を越えると朱塗りの稲荷駅。駅舎手前にレンガ造りのランプ小屋駅舎が残る。
旧東海道線の京都−大津間は明治13年に開通しているが、当初は京都から奈良線を経由、伏見・深草から名神高速道路沿いに南に大きく迂回するルートであった。その後、大正10年になって東山トンネルが完成、京都−山科間が直線化された。
◇伏見稲荷
稲荷駅前に全国4万の総本宮となる稲荷神社の大鳥居がある。豊作と商売繁盛の神として狐を祀る風習が生まれた。御神体の稲荷山に住んでいた狐は稲を食べる鼠を駆逐してくれるためとされてる。
東福寺
◇東福寺
本町通りを北上。右手一帯の広大な寺域が東福寺。摂政九条道家が奈良の東大寺と興福寺になぞらえ「東」と「福」の字を取って京都最大伽藍を造営した。19年を費やし鎌倉時代に完成。京都では屈指の紅葉の名所。紅葉のピークは過ぎていたが人の列が続き広い境内は満員。
◇豊国神社
京都の中心部に入ってきた。新幹線と東海道線を跨ぐ歩道陸橋を越えると七条通にでる。右側に耳塚、突き当たりが豊臣秀吉を祀る豊国神社。秀吉が死去した翌年、東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬された。その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのが起源とされる。
後陽成天皇から豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。しかし、豊臣家が滅亡すると徳川幕府により神号が廃され社領を没収、社殿は荒れ果てた。明治天皇が京都行幸のとき、天下を統一しながら幕府を作らなかった豊臣秀吉は、尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を布告した。
方広寺の鐘
◇方広寺の鐘
豊臣の権威の象徴として、方広寺に東大寺を凌ぐ大仏殿が建てられたが、慶長大地震で崩壊。後に秀頼が再建した時、鐘に刻まれた「国家安康、君臣豊楽」が徳川家康の豊臣攻撃に利用された。この鐘は東大寺・知恩院の鐘と共に日本三大名鐘となっている。
◇四条
五条通に突き当たる本町1丁目で伏見から続いた本町通は終わる。五条大橋に立ち寄ると西詰に義経・弁慶の石像がある。大和大路に入って京都五山の建仁寺境内を横切り、四条通の南座の前に出る。
四条大橋の東詰、南座と向き合うように歌舞伎元祖、出雲の阿国像がある。四条河原で舞を披露して、関ケ原合戦後のすさんだ都人の喝采をあびた。
江戸期に入って女歌舞伎が禁止されたため、男が女形を演じる今日の歌舞伎になった。この歌舞伎界を俗に「梨園」と呼ぶ。唐の玄宗皇帝時代、宮中舞楽養成所は特殊な世界とされ、その場所に梨が咲いていたことから歌舞伎界の俗名になった。
弥次喜多像
◇三条
川端通を北上すると三条はもう直ぐ。鴨川の三条大橋は鎌倉期に架けられ、秀吉の時代に大規模改修された。東海道、中山道の起点になる。橋の西詰に弥次喜多像。東詰には東海道53次駅伝記念碑がある。大正6年に三条大橋から東海道の宿場を53次したリレーマラソンが日本最初の駅伝と記されている。
高麗橋から三条までの京街道は約57キロ、昔の人は1日半で歩いたが、5回(日)を要した。うろうろ、きょろきょろ寄り道も重ねて実歩行距離は65キロ程になった。
京都三条から江戸日本橋までの旧東海道は約490キロ。昔の人は1日平均約35キロを半月程かけて歩いた。三条から先、いつか歩いてみたい。

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