
-歴史探訪-

|
日本最古の山の辺の道は、奈良盆地にまだ湿地が多く残る頃、その東縁の三輪山から春日山にかけて、青垣と呼ばれる山並みの麓を縫うように拓かれた古の小道。
古事記、万葉集にも登場するこの道筋には3~7世紀にかけての史跡、古墳が多く点在する。古代大和王権や邪馬台国、卑弥呼宮殿論争も行われている。万葉の歴史をしのぶこの道をおよそ60年ぶりに訪れた。
|
|
-桜の咲く道- <2023.3.28,4.1>
大和王権があった三輪山麓(桜井市)から物部氏拠点の石上(天理市)、春日氏拠点の高畑(奈良市)までの40キロ弱の古の道。「大和(倭)は、国のまほろば、たたなずく青垣、山こもれる大和しうるわし」
と古事記や日本書紀に掲載されている倭健命(日本武尊)の和歌。
この道筋には、弥生時代末期から古墳時代前期の遺跡や、崇神天皇陵(3世紀後半)、景行天皇陵(4世紀前半)など由緒ある史跡が多く点在する。中世期に入ると京都から吉野や長谷寺、伊勢参りの道として使われた。
1日目はJRまほろば線桜井から柳本まで。その続きは4日後、桜吹雪の中を天理まで。古代マンの風を感じながら桜の道を歩いた。
<仏教の伝来地>
1日目、山の辺の道の出発点となる金屋集落に向かう。大和川の桜堤から青垣の三輪山を望む景勝地にある。飛鳥道や山田道、長谷道、伊勢道が交わる要路で、道しるべの石碑がある。
初瀬川の堤に仏教伝来碑が建つ。欽明天皇の頃に朝鮮半島から瀬戸内海、難波の津を経て、大和川を遡って始めて日本に仏教が伝わった(538年と552年説がある)。
河川敷の船着場は物資の集積地でもあった。陸路では河内(堺)から日本最初の官道「竹内街道」が拓かれ(613年)、日本最古の市場や宿場があったとされる海石榴市(ツバイチ)は万葉集や推古天皇の記録に残る。
<大神(オオミワ)神社>
大和川の畔から北上、集落を縫うような小道を進むと金屋石仏。大きな二体の石仏がお堂に安置されている。石畳の道を登って行くと3世紀後半頃にあった崇神(スジン)天皇(10代)の磯城瑞籬宮(シキミズガキグウ)跡伝承地碑がある。
三輪集落の上手、平等寺は聖徳太子の創建。神仏習合時には大神神社を管理する別当寺(神宮寺)であったが、廃仏毀釈で荒廃、多くの仏像が運び出された。金屋石仏も破壊される寸前であったが村人が守ったと伝わる。
隣が大神神社。創建は有史以前とされ定かではない。大和国の一の宮、三輪山(467m)を神体として神殿を持たない古い形式を残す神社。三輪明神とも呼ばれるのは、神仏習合の仏側から呼ぶ神の尊称である。
鳥居の原形とされる、柱にしめ縄を渡した縄鳥居が残る。境内の拝殿の奥には三ツ鳥居(三輪鳥居)と呼ばれ、鳥居の左右に脇鳥居が連結する珍しい鳥居がある。鎌倉時代に三ツ鳥居の手前に拝殿が建てられたため、隠れて見ることはできない。
三ツ鳥居の奥が神域となる禁足地。山内には巨石を信仰の対象として祀られた磐座(イワクラ)が何か所かあり、山頂の巨石磐座には大物主大神(大国主命)が祀られている。伝説によると、崇神天皇の初期に疫病が流行して多くの人が亡くなった。孝霊天皇(8代)の皇女で神の言葉を伝える巫女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に、出雲の神、大物主大神が乗り移って自分を祀るように神託したとされる。
大和の東のこの地方でも出雲の勢力との繋りが伺える。大神は天照大神に通じる国造りの神、大神は天照そのものであり、明治政府は「おおみわ」と読み変えた。
<桧原神社は元伊勢伝承地>
境内に「大美和の杜」と呼ばれる桜で覆われた小山がある。ピンクの枝垂れ桜を中心に全山を覆うように咲き乱れる。その展望台から二上山、葛城山に囲まれた奈良盆地と大和三山や三輪の大鳥居が望める。この三輪の大鳥居は日本一の熊野本宮大社の大斎原鳥居(34m)に匹敵、10階建てのビルに相当する。
集落を抜けて桃の花畑や桜の小道を行くと桧原神社。大神神社とゆかりの深い神社(摂社)で、その中でも最も位が高い元伊勢伝承地(伊勢神宮の始祖)で日本最古とされている神社。
崇神天皇の皇居で天照大神や三種の神器を祀っていた。しかし、神との同床共殿はあまりにも恐れ多く「神の勢い激しく同床共殿に堪え難い」とされたことから、皇居とは別の地に祀ることになった。その最初の転移先が桧原神社とされているが、これには裏の話しがある。
皇居では天照大神と大物主大神が祀られ、天照大神(瓊瓊杵尊)と大物(国)主大神(饒速日尊)との勢力争いが起きて世の中が乱れたため、大物主大神を大神神社に、天照大神をとりあえず桧原神社に移した。天照の勢力が増すに従い立派な鎮座地が必要となり伊勢神宮に祀られた。また大神(オオカミ)神社の大神は天照大神そのものであり、三輪の大神の大物主大神とは区別、大神(オオミワ)に読み替えられたことが真相に近いのではないか。
古事記や日本書紀によると、まず大和笠縫村に祀り、その後、最適地を求めて各地を移動。垂仁(スイニン)天皇(11代)の年に伊勢に至るとある。伊勢神宮にたどり着くまでに巡った仮の鎮座所を元伊勢と呼んだ。この様な元伊勢は畿内を中心に各地に存在する。
拝殿がない桧原神社では、大神神社で見れなかった三ツ鳥居が見られる。縄鳥居の西方に二上山が望め、春分の日と秋分の日には二上山の雄山と雌山の間に夕陽が沈む。
<古墳時代の始まり 纏向遺跡は卑弥呼の宮殿か>
箸墓古墳や纏向遺跡に向かうため山の辺の道を一旦、コースアウトして丘陵地を下る。
その途中の集落に多くの製麵所が点在する。三輪は手延素麺の元祖。9世紀初期、大神神社宮司の三輪氏が保存食として、小麦を石臼で挽いた粉を細く延ばしたのが起源とされている。
JR線を越えると木々で覆われた箸墓古墳が現れる。全長280mの前方後円墳で3世紀中旬から以後とされ、この当時としては最大。奈良県内でも第3位、国内でも大古墳群に分類される。
現時点では、この古墳の出現をもって本格的な古墳時代の始まりとみなされいる。その後、5世紀半ばには日本最大(486m)の大仙古墳(仁徳天皇陵説)が出現する。
周辺には箸墓より古く3世紀初期(古墳時代初期)の古墳が多く存在するが、それらは100m以下で、箸墓は圧倒的な巨大陵であることから、大和王権のトップもしくはその直系族の墓と考えられている。宮内庁は大市墓と呼称、孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫としているが学術調査には否定的である。

弥生時代後期頃から畿内(大和)、吉備、出雲、北九州(筑紫)などで小規模勢力が存在して、大和の勢力が吉備、出雲勢力と連合して行く中で北九州の勢力が衰退。大和王権が成立したことはほぼ間違いないと考えられている。
箸墓の北隣にある纒向遺跡は、その古代大和王権の発祥地とされている。19×12mの大型建物跡と、1.5×2キロにおよぶ広大な遺跡で、発掘はまだ数%程度しか終えていないが、箸墓古墳もこの纒向遺跡の範囲内にあることから、古代大和王権=邪馬台国。倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説がある。
ただ、箸墓が卑弥呼の墓とする説は否定的とされる。中国の「魏志倭人伝」に記載の卑弥呼の墳径は「百余歩(約60m)」とされ、大きさが違い過ぎるためであるが、出土土器の放射性炭素年代測定結果、240~260年頃の土器と発表され、卑弥呼が亡くなった頃と重なることから卑弥呼墓説は消えていない。
遺跡から桃の種が多数出土しているが、付近には桃畑が多い。古来、中国や日本神話で桃は邪気を払う、仙薬、縁起がよいとされている。岡山名産の桃、大和王権と吉備国の桃太郎伝説にもつながる。

<渋谷向山古墳(景行天皇陵説) 行燈山古墳(崇神天皇陵説)>
山の辺の道に戻る。山道を1キロ程の登った穴師(アナシ)集落の上手に相撲神社がある。相撲神社は当麻地区や全国に幾つかあるが、日本書紀によると垂仁天皇の時代に野見宿祢(出雲)と、当麻蹴速(大和)が始めて当地で天覧相撲をした場所とされている。
集落を抜けると柿、ミカン畑が広がる道端に額田王が三輪山の眺めを詠んだ万葉集の和歌碑がある。菜の花畑を過ぎると渋谷向山古墳。全長300mもあり付近では最大、奈良県内2位の大きさ。4世紀後半頃で3基の陪塚があることなどから大和王権の権力者陵と考えられている。宮内庁では景行天皇陵(12代)としているが、景行天皇が実在したとすれば4世紀前半のため合致しない。
更に北上すると、景色のよい田畑の中に全長242mの行燈山古墳がある。宮内庁では崇神天皇陵(10代)としているがそれ以上は明らかでない。
この日は桜井線柳本で終える。その手前に4世紀前半とされる黒塚古墳がある。近年の発掘調査で三角縁神獣鏡(サンカクブチシンジュウキョウ)が大量に出土。魏が卑弥呼に贈った鏡ではないかと大騒ぎになった。

<山辺集落から石上神宮>
4日後の再訪となる。この日も晴天。柳本から山道を登り青垣の中腹にある長岳寺からスタート。
平安時代初期、淳和天皇(53代)の勅願により空海が創建した高野山真言宗の古刹。最盛期には多くの塔頭が建ち並んだ。鐘門は日本最古(平安時代後期)とされている。
桜が舞い散る丘に大和の祖神、日本大国魂大神(ヤマトオオクニノミタマ)を祀る大和(オオヤマト)神社の御旅所がある。ピンクの桃畑の中の衾田(フスマダ)陵は、継体天皇(26代)の皇后で欽明天皇(29代)の母(白手香皇女)の墓とみられている。山道を抜けると環濠を巡らせて自己防衛した萱生や竹ノ内集落、立派な大和棟の屋敷が建つ。
柿やミカン畑が続くのどかな道から夜都伎神社を過ぎると峠の茶屋。ここから山の辺の道で最大の難所を越えると視界が開けて、桜で覆われた永久寺跡にでる。江戸時代は「西の日光」と呼ばれたが廃仏毀釈で破壊された。寺跡の池に往時を忍ぶかのように豪快に咲いた桜、風に吹かれて桜吹雪になっていた。
丘陵地を下ると物部氏の氏神の石上神宮(イソノカミ)の森。成り立ちは所説あるが、社伝では崇神天皇(10代)とされ、物部氏の祖の饒速日尊(ニギハヤノミコ)の子の宇摩志麻遅尊(ウマハヤヒノミコト)や、仁徳天皇(16代)の頃に伊香色雄尊(饒速日尊の孫)が布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)を祀ったとするなど諸説ある。
物部氏の祖の饒速日尊は、天孫降臨の瓊瓊杵尊より先にこの地の大和を支配して、神武天皇の東征に対抗した勢力であり、武器の製造技術を担っていた。6世紀後半になって廃仏派の物部氏は、崇仏派の蘇我氏に敗れるが、石上氏や日下坂氏、弓削氏、田部氏などに名を変えて生き残った。
その中でも弓削氏は河内方面で弓矢を製造する勢力として根付いた。女帝の称徳天皇(48代)を篭絡したとんでもない僧呂、弓削道鏡が現れた。

<やまと言葉>
2回に分けて桜井~天理間の南ルート26キロを歩いた。山辺の道のは更に櫟本(イチノモト)、京終(キョウバテ)から白豪寺や新薬師寺のある高畑の道から奈良市街まで続く。
青垣の山裾を走るJR桜井線。万葉集ゆかりの大和三山や古代歴史を宿す地を走ることから「万葉まほろば線」の愛称が付けられた。「まほろば」や「うるわし」は万葉和歌や古典でみられる柔らかく味わい深い響きを持つ日本固有のやまと言葉である。
時より行き交う人とすれ違うだけ、車も通らない青垣の丘陵地。山裾の曲がりくねった小道、石畳。のどかな道の所々に万葉集の歌碑や説明板がある。桜や桃が咲く、草道や田畑に緑が萌える。この道には四季折々の素晴らしい景色ある。
-彼岸花の咲く道- <2023.9.25>
観測史上最も暑い夏。残暑も厳しく例年より一週間遅れで彼岸花が見頃になった。万葉まほろば線で三輪から山辺の道を長柄まで10キロ余りを歩た。
初秋の田畑や野道に彩りを添える曼殊沙華は天界に咲く花とされる。球根に毒がありモグラなど害虫除けのためあぜ道などに植えられる。黄金色に稲穂が垂れ、コスモスが咲き、柿も色ずきだした。三輪の大鳥居や耳成山を望む茅原集落で1時間に1~2本しかないJRまほろば線の車両を入れて撮れた。
この付近の集落では伝統的な大和棟造りの家がみられる。主屋は傾斜のある入母屋の茅葺、段落しに合体した瓦屋根、台所や土間部は煙出しの高窓、外周は高塀。暮らしぶりが高いところでは質感の高い棟や漆喰土蔵、環濠で囲まれる。秋の一日。古の道を歩く欧米人に出会った。

|
|