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大阪環状線路線22キロ、19駅を歩いて一周してみる。10~6時間、25~35キロで歩いた記録がネットで報告されている。80歳を越えると歩く速度も遅くなり、今までのように長い距離は厳しくなった。区間を決めず、気ままに寄り道などもしながら1~2週間ほどかけて一周する。
<2026.1.21> |
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■ 「大阪駅」大阪駅については「大阪の街歩き」で記載済みのため本項では省略。この区間は利用する機会が多く、平素から環状線、バスや徒歩でも何度か通っているため知り尽くしている。
時計回りでスタート。環状線高架沿いから、キタ地区最大の歓楽街の阪急東商店街を東進すると網敷天神社がある。平安時代初期の創建で菅原道真を祀る。道真が大宰府に配流される時、紅梅の香りに誘われて船の綱を寄せて立ち寄ったのが社名の由来。
昔、大阪駅一帯は人家のない寂しい場所、墓地もあって埋田と呼ばれていたが、網敷天神やお初天神の梅から梅田に変わった。中崎町のレトロな町並みに立ち寄ったり天満まで2キロ30分以上を要した。
■ 「天満駅」1895年(M28)大阪鉄道として開業。国有化され東半分は城東線と言われた。菅原道真を祀る天満宮が名前の由来。日本一長い天神橋筋商店街(2.6キロ)の中程にある。駅裏の天満市場は大阪の三大市場(雑喉場市場、堂島米市場、天満青果市場)の一つ。江戸時代から天下の台所と呼ばれてきた。周辺はガード下や狭い通路に庶民的な飲食店が並ぶ。
次の桜ノ宮駅まで1.5キロ程。環状線高架沿いに進めるが、大川(旧淀川)で源八橋を迂回する。橋がない時代の源八渡しが名前の由来。この橋を渡と北区から都島区になる。
■ 「桜ノ宮駅」1896年(M29)開業。地主神や天照大神、仁徳天皇を祀る櫻宮神社に由来する地名。境内に咲き誇る桜は豊臣秀吉が称賛して流鏑馬を行ったと伝わる程であった。これに因んで大川沿いに多くに桜が植えられ、今日では桜ノ宮、大川一帯は大阪城公園とならぶ大阪随一の桜の名所となっている。
駅前の広いスペースは、過去に京阪電鉄が梅田乗り入れを見越した京阪桜ノ宮駅の予定地。その痕跡は京阪乗り越し橋梁、大川レンガ橋台などとして残る。京阪梅田乗り入れの詳細は「阪急京阪電車物語」で記載ずみ。
桜ノ宮から環状線沿いに進める。京橋手前になると入り組んだディープすぎる歓楽街、夜は通るのを躊躇する。少し道を外すと京街道の新京阪商店街がある。
■ 「京橋駅」明治中期(1895年)、大阪鉄道が環状線の前身となるの旧城東線の駅として設置。近くに京阪電鉄蒲生駅もほぼ同じ頃に開業。大阪城口外堀の架けられた京橋に由来した名駅に統一された。
環状線乗降客は大阪駅、天王寺駅に次ぐ3位となる1日50万人。JR大阪環状線、東西線、学研都市線の他に、京阪線、地下鉄長堀鶴見緑地線の5線4駅が集まる交通要点。集客力のある巨大ビジネス街とディープな歓楽街の複雑な顔を持つ。終戦直後の闇市の細い入り組んだ路地に飲食店や娯楽施設など雑居ビルが乱立して再開発が遅れた。その様子は大阪街歩き「京橋再開発プロジェクト」で記載済みのため省略。
■ 「大阪城公園駅」1983年(S58)開業。環状線は寝屋川を越え中央区に入る。歩くと寝屋川歩道専用橋を迂回、京橋から次の大阪城公園まで約1.5キロ。この京橋-大阪城公園区間は環状線で唯一高架でない平地。この付近は日本最大の軍事工場大阪砲兵工廠、陸軍兵器庫、第四師団などの重要軍事施設があったため、高架を認めなかった。残った広大な跡地は大阪ビジネスパークの高層ビル群、大阪城公園、環状線車両基地、住宅公団、大阪公立大学キャンパスなどに生れかわった。ここから天王寺までの玉造筋が6キロ程続く。
■ 「森ノ宮駅」1932年(S7)開業。大阪城や環状線車両基地などを眺めながら森ノ宮までは1キロと短い。
聖徳太子が建立した鵲森宮や、新羅から持ち帰った鵲を飼育した森が森ノ宮の由来と伝わる。
大阪メトロ中央線の地下駅もあり、大阪城の南東の入口。上町台地、難波宮跡地に最も近い。大阪はキタとミナミに代表されるが、ヒガシの森ノ宮地区が第三の拠点として注目されてきた。2028年開業の大阪公立大学キャンパス駅を中心にした文教エリアと、京橋再開発と接続する南北新軸構想が進行している。
■ 「玉造駅」1895年(M28)開業。環状線で長年使われた古い103系の列車をモチーフした駅の商業施設「ビエラ玉造」の建物が面白い。この付近に大和朝廷で勾玉を造る玉作部があったことが地名の由来とされる。
暗峠奈良街道の出発点で、二軒茶屋で旅支度を整えて長谷寺や伊勢参りに向かった。駅前にその石碑がある。
上町台地には大阪城の出丸の真田丸があって、冬の陣で徳川方が苦しめられた。真田丸の撤去を条件に和議が成立したが、真田丸と同時に外堀まで徳川方に埋められ、夏の陣で豊臣大阪城は落城。隣の三光神社境内に大阪城の抜け穴があるが、城内に通じているかは定かでない。
■ 「鶴橋駅」1932年(S7)開業。最初に旧近鉄線の駅が開業。その後、城東線の駅ができて、乗り換え客で連絡通路が大混雑。近鉄線の複々線化にともない大改造したが複雑な駅形状となった。環状線の駅は分かるが、近鉄線や地下鉄線の駅出入口が分からない。慣れないと迷う。
付近は百済との繋がりが深く、猪(豚)の飼育地であった。かってあった猪甘津橋(イカイツノハシ)が鶴橋の由来。そのためか、韓国からの移住者が多く闇市を形成して有数のコリアタウンとなった。迷路のように入り組んだ細い通路に韓国店舗が並ぶ。近年は韓国グルメを求めて訪れる日本人が多くなっているが、ホルモンや生臭い匂いキムチは大の苦手。
■ 「桃谷駅」1895年(M28)開業。生野区の勝山台地から低地の桃谷駅付近まで、かっては桃畑がひろがっていたとされ、生野区は百済王の子孫の生野長者の子供が吐き出した3個の仏舎利を聖徳太子が受け取り、法隆寺、四天王寺、舎利尊勝寺(生野区舎利寺)を創建した聖徳太子の生野長者伝説に由来する地名と伝わる。
■ 「寺田町駅」1932年(S7)開業。四天王寺領地の田畑が地名の由来。天王寺蕪は特産品であった。一時期、駅前の放置自転車が大きな問題になったが、環状線の中では最も話題性の少ない駅かも知れない。
■ 「天王寺駅」四天王寺に由来する名前。1889年(M22)大阪鉄道が上町台地を掘り下げて関西線の駅として開業。その後、環状線の前身の城東線が開業(M28)、さらに阪和線が開業(S4)。大阪南部、奈良、和歌山方面を結ぶ中心駅。地下鉄メトロ御堂筋、谷町線もあり、南隣の阿倍野区では近鉄線の阿倍野駅など南の最大のターミナルを形成する。
西高東低の細長い上町台地を隔てた東側は、大和川から流入する湿地帯で洪水が頻発。上町台地を掘削して排水路を設ける土木工事が度々試みられた。仁徳天皇の難波の堀江、和気清麻呂の天王寺掘削の河底池や堀越、河掘などが地名として残る。
■ 「新今宮駅」1964年(S39)開業。北側は通天閣、ジャンジャン横丁などがある新世界の歓楽街。日本人より訪日観光客が多い。駅前に星野リゾート都市型ホテルOMO7が開業するなど浪速区で最も賑やかな地域。
環状線と直交する南海線の新今宮駅から西成区となり、一転して空気が変わる。簡易宿泊所、アパート、露店小屋などが目立つ。シャッターや壁面に落とし書き。周りは圧倒的な放置駐輪車で埋め尽くされる。通称、釜ヶ崎・あいりん地区と呼ばれ日雇い労働や生活保護者が集まる特殊な地域。暴力団や過激派組織に煽動され、西成警察署が暴徒に包囲されるなど2000年前半頃まで何度も暴動が発生した。昨年、夢洲万博の前には、 3畳一間や2段ベットの簡易宿泊所、救済シェルターを設置して多数いた路上生活者を誘導したが、公園やガード下の簡易小屋や、テントで暮らす人が絶えない。午前中から手に手にカップ酒、タバコを持って公園で雑談。ベンチで孤独そうな人も見かける。殆どが高齢で生活保護受給者。大阪釜ヶ崎は東京山谷、横浜寿町と並ぶ三大ドヤ街。一時は立ち入りも危険であったが、警察、自治体、NPOなどの支援による治安、清掃活動で少しずつ改善されてきた。
■ 「今宮駅」1899年(M32)大阪鉄道駅として開業後、国鉄関西線の大阪港貨物線駅から環状線に編入される。
浪速区今宮の由来は、旧地名が津江や今村の庄といわれた漁村説や、この地に西宮戎神社から分霊した戎神社から今宮としたなどの説ある。1日の乗降客数8千人は環状線駅の中で最小。次の芦原橋との駅間距離が短いため新今宮駅が開業した時、廃駅される予定であったが住民の反対運動で立ち消えになった。大和路線、紀州路線は通過するため日中は1時間に3~4本しか停まらない。
■ 「芦原橋駅」1966年(S41)開業。今宮駅から歩いて1キロ未満と徒歩距離で最短。芦が茂る低湿地であったことが地名の由来。浪速区周辺は太鼓、靴、皮製品を扱う店舗が多い。和太鼓は石川県に次ぐ産地。
一帯は何十棟もの大規模な市営住宅団地や有休施設などが多く、手入れが行き届かず雑草が目立ち、大阪市内の真ん中とは思われない。
江戸時代、旧渡辺村周辺に身分の低い住民を集めて動物解体、食肉、ニカワ、皮革加工が行われた。市営住宅団地内の旧渡辺道は人権太鼓ロードと呼ばれ、太鼓のモニュメント、渡辺村歴史説明碑、太鼓屋又兵衛の豪商屋敷跡碑、大阪人権会館などがある。
■ 「大正駅」1961年(S36)開業。昭和初期に貨物線軌道として造られていたが、駅舎は環状線完成時となる。木津川と尻無川間の大正橋、大正天皇の誕生を記念して命名された。この橋を渡ると浪速区から大正区。駅間はそんなに遠くないが歩くと1.5キロ程ある。明治中期、大阪紡績(東洋紡の前身)を中心とする世界最大の紡績工場地帯は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。沖縄からの出稼ぎ労働者が定住者が多くリトル沖縄。大正から弁天町間の尻無川を斜めに架橋する難工事を避けて、川幅が最も狭い場所に架けたため環状線は大きくカーブする。大正から京セラドームを回り込むように西区、港区へと変わる。
■ 「弁天町駅」1966年(S41)開業。江戸時代に市岡家によって開拓された市岡新田会所に祀られていた弁財天に由来する地名。
環状線の完成が遅れたのは、弁天町と西九条間の安治川架橋問題。上流の安治川埠頭に出入りする大型船の通行を妨げない橋桁の高い工事が難しかったが、安治川埠頭が川下の天保山埠頭に移動したため橋の建設が進んだ。この橋の完成で一挙に環状線化が進む。この区間を歩くとエレベーターで地下に下り、安治川地下トンネルを歩いてを此花区に入り、エレベーターで地上にがる。環状線駅区間では最長3キロになる。
■ 「西九条駅」洪水が頻発していた安治川の中州の九条島を、伊勢国の材木商の河村瑞賢が掘削。島の西側が地名の由来になった。
1898年(M31)西成鉄道駅として開業。国有化され桜島線(大阪-桜島)として営業後、1961年(S36)安治川架橋で環状線高架が完成。しかし、軌道は繋がっておらず、地上駅と階上駅で乗り換えが必要であった。完全環状化が完成するのは3年後となる。付近には旧大阪港があり、此花区から西区一帯は大阪府庁舎、市長舎、外国人居留地、劇場、遊郭、大阪中央卸売市場などが建ち、九条商店街は西の心斎橋といわれた。戦後、府庁市長舎が移って以降、一時の賑わいはなくなった。
■ 「野田駅」1898年(M31)開業。1961年(S36)環状線に編入。田畑地帯が地名の由来。室町時代から藤の名所、「野田藤・吉野桜・高尾もみじ」と言われ、足利将軍や豊臣秀吉の花見の記録が残る。玉川春日神社に野田藤発祥の碑がある。昨年発行の新5千円札の図柄に採用された。
此花区から福島区に入る。松下電器創業者の松下幸之助創業地。幸之助と義弟の井植歳男(三洋電機創始者)らと大正初期、福島区大開の借家地からスタート、昭和初期まで一帯に本社、工場が建ち並んだ。野田藤棚公園に松下幸之助直筆の創業記念碑がある。
■ 「福島駅」1898年(M31)野田駅と同時開業。高架直下にJR貨物地上線がある。紀勢線や関空特急はこの地上線を走る。工事中のなにわ筋地下線が完成(2031年)後、これらの特急はなにわ筋地下線に移行する。
淀川の土砂堆積洲で餓鬼島と呼ばれていた。この地の天神社に立ち寄った菅原道真が、縁起の良い福島天神社に変えたと伝わる。
ここまで来ると梅田や中之島は直ぐ、交通量も多くなるが、路地裏には古い昔の町並みが残り、すぐ向こうには梅田の高層ビルが突き出す。大阪駅まで環状線ガード下伝いに1キロ。一周19駅巡りを完了。
これまで敬遠してきた鶴橋コリアタウン、西成区釜ヶ崎あいりん地区や浪速区西地区を始めて訪れた。日雇い労働者がたむろする公園には入らず、カメラを目立たないように隠し持った。芦原橋の市営住宅内の人権会館が見つからず、人に聞くのを避けたため右往左往。環状線西半分の弁天町、西九条、野田周辺を歩くのも始めて。地名の由来を知り、野田藤、松下電気発祥地も訪れた。改めてどこも自転車が多いことに気付く。橋や陸橋、信号の迂回場所が結構ある。寄り道も随分したため一か月も要した。

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