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 阪急 & 京阪 電車物語

        

  生まれ育った家の前を阪急電車京都線(当時は京阪神急行)が走っていた。その後も郊外の阪急沿線に移り住み、現在は京阪沿線で暮らしている。
関西大手5社ある私鉄の中で主に利用してきた阪急電車と京阪電車。一時期は同じ会社となり、分離後は大阪−京都間の速さなどを競った。京阪は梅田乗り入れが叶わず、阪急の新大阪乗り入れは程遠い。共に開業100年を迎えた両社の歴史を回想する。 <2009.5> 

    
                 阪急電車                           京阪電車

阪 急 電 車

               梅田駅 神戸線・宝塚線・京都線 3線同時入線

       

◆阪急のこだわり マルーンカラー
 私鉄で日本一巨大な梅田駅ホーム。10分ごとに、京都、宝塚、神戸の3線が同時入発着する壮観さ。
 子供の頃から見慣れた赤茶色の車体。昔は京阪や南海のきれいな車体カラーを羨ましく感じることもあったが、今では落ち着いたマルーンカラーとアイボリーで全車両統一された車体。上品なイメージの象徴として沿線住民だけでなく、大阪府民の圧倒的な支持を受けている。
 銀色の窓枠、天然アンゴラ羊のオリーブカラーシート、木目調など質感の高い内装にもこだわってる。
 一時期、塗装コスト削減とイメージ一新のため、派手なカラー車体が投入されたが苦情が殺到した。鉄道各社では塗装コストが軽減できるステンレスむき出しの車体を多く見かけるが、阪急はステンレス車体でもマルーンカラーを施している。車体カラーで特急、急行、普通と列車差別せず全車両が同一色の4層塗に統一。これも阪急だけである。創始者小林一三の気品の憧れが脈々とも受け継がれている。大阪の派手、目立つイメージとは正反対である。


◆阪急の創設
 箕面有馬電気軌道として1910年(M43)、梅田−宝塚間で開業した。小林一三は沿線の集客事業として百貨店、歌劇団、宝塚温泉、住宅地開発などの多角的事業を展開したのは有名すぎる。
 1920年(T4)には神戸三宮にも乗り入れて社名を「阪神急行」としている。その神戸線はまだ人口の少ない山沿いルートであったが住宅地の開発が進み、国鉄、阪神と三つ巴の激しい乗客獲得競争を繰り広げてきた。

◆京阪との合併・分離
 1943年(S18)の戦時政策で、阪神急行と京阪が合併「京阪神急行」となったが、戦後の占領軍の企業解体政策で京阪が切り離される。この時、合併前に京阪の子会社であった「新京阪鉄道(現在の阪急京都線)」が京阪神急行側に残されたことから、既存の宝塚線と神戸線に京都線が加わり、今日の阪急の原型ができる。

◆京阪神急行に残った京都線
 その京都線は支線扱いで、宝塚線や神戸線に新型車両が投入されても、京都線は旧車両のままであった。
 京都線の本線は四条大宮と天六。梅田にでるには途中の淡路や十三駅で乗換えなければならなかった。その後、梅田−十三駅間の増線によって、梅田起点に変更されたが本線に比べ2線2面ホームと少なかった。
 最もネックになったのが電圧の違いにある。600Vの宝塚・神戸線に対して、京都線は1500Vであった。そのため、宝塚・神戸線に合流する十三駅の手前で京都線の架線が一旦途切れた後、梅田までは600Vしかない架線に入る。1500V仕様の京都線車両は、電圧不足で30キロ程度の速度しか出せなかった。高校通学で乗っている京都線の車両はいつもノロノロ、並走する宝塚線、神戸線に追い抜かれて腹立たしかった。
 その後、宝塚・神戸線も1500Vになったが、梅田駅のホームがふさがっていたり、駅の電気容量不足のため手前で長い信号待ちをさせられた。京都線がスムーズに運行できるようになったのは、新梅田駅が完成した1973年(S48)からである。

◆上新庄の急カーブ
 カーブの多い京阪に比べて阪急京都線は直線区間が多いが、大阪市に入った上新庄から梅田にかけてカーブが多くなる。その中でも特に大きく曲がるのが上新庄のカーブ。
 戦前、京阪の子会社であった新京阪は、国鉄城東線の高架に伴い、空いた国鉄の旧路線の払下げを受けて、新京阪の梅田乗り入れを監督官庁の鉄道省から許可された。上新庄から真直ぐ南下、都島・桜ノ宮を経て国鉄城東線の跡地伝いに悲願の梅田乗り入れができるはずであった。
 ところが大阪市の猛反対で断念。上新庄から大きくカーブさせ淡路を経由して天六に向かい、将来的に天六から梅田や天満橋・淀屋橋に乗り入れする方向に変わった。


◆京阪神急行から阪急に

 阪急百貨店の1階にあった梅田駅。京都線の入線で狭くなったため、北側に新ターミナルが建設された。1973年(S48)に鉄道駅の頭端ホームとして、これまで日本最大ホームであった南海電車難波駅の9面8線を凌ぐ、10面9線の新ホームが完成した。この時、京都線のホームも増設して宝塚・神戸線と同格の3線3面となった。同時に車両や設備も統合して社名を「阪急電鉄」に改めた。
 その頃、淀川対岸を走る京阪では、日本初のテレビ付き特急を投入して京都までの速さも競った。対抗する阪急京都線では宝塚・神戸線にない、2×2列転換クロスシートの新型特急を投入した。

                   10面9線 日本最大梅田駅ホーム
      

◆新幹線軌道を走った阪急
 当時はまだ京阪神急行と呼ばれていた京都線。高槻から大山崎の約5キロの区間を平行するように東海道新幹線の高架が建設されることになった。新幹線が高架となり、並走する阪急が平地では踏切の見通しが悪くなることから、阪急も高架にすることになった。
 阪急と新幹線は同じ標準軌道であり、先に建設した新幹線の高架に阪急用の軌道と架線を設けて走らせた。その間に阪急の高架工事を進め、阪急の高架が完成して移し変えた。1年弱であったが新幹線が走る前に阪急電車が走っていた。

◆新大阪駅乗り入れ計画
 1963年(S39)に開業する東海道新幹線新大阪駅へのアクセスとして、阪急は京都線の淡路−新大阪−十三駅間と、神戸線の神崎川−新大阪駅間の新線免許を取得した。京都線の特急・急行は新大阪経由の新線に、普通は従来線に分離する計画であった。
 そのため、新幹線沿いの用地買収を進めた。新大阪の高架橋周辺では至る所に阪急乗り入れを見越して建設された準備施設や、細長い空地が何か所も存在する。陸橋には京阪神急行の文字も刻まれている。
 阪急の利用者が新大阪に行くには、地下鉄に乗り換える必要があったことから直接乗り入れを大いに期待した。しかし、新大阪周辺の発展が予想を下回り、京都線乗客の伸び悩み、高度経済成長の行き止まりなど、さまざまな要因によって断念された。

◆JRの新快速に敗北
 1970年(S45)当時の国鉄は「アーバンネットワーク」と称して、京阪神都市間を高速で結ぶ「新快速」を投入した。京都・高槻・新大阪・大阪・尼崎・神戸などの主要駅しか停車しない。
 ほとんどが複線の私鉄では、前走の電車が駅で待機停車中に追い越すしかないが、この新快速は複々線を利用して、前走車を停車させることなく130キロの高速で一挙に抜き去る。
 大阪−京都駅間が40分かかる阪急や京阪特急に対して、新快速は25分で走り抜ける。これに全く太刀打ちできない阪急、京阪、阪神は特急の時間競争を改めて、主要駅にこまめに停めるようになった。

◆これからの阪急
 阪急淡路駅付近では、長年の課題であった京都線と千里山線の大規模な高架化を計画している。
 この駅で京都線と千里山線が平面クロスするため、信号待ちが多くスムーズな発着ができない、踏切や町の分断が長年の課題となっていたことから、京都線と千里山線を高架の立体交差駅にする。
 同時にJR新大阪に乗り入れる新線「おおさか東線」の新淡路駅の完成も近い。そのため阪急は淡路からの新大阪連絡線は放棄した。残されている十三方面からの新大阪乗り入れ計画は実現するのか。それとも阪急新大阪駅は幻のホームとなってしまうのであろうか。



新京阪 デイ100系高速車

 子供の頃から見覚えのあるこの電車。当時としては驚異的な時速75キロで京都(大宮)−大阪(天六)駅間を34分で走った。京阪の子会社である新京阪が投入した話題の高速車両。
 淀川右岸を最短路で結ぶ新京阪鉄道は京阪の子会社として1922年(T11)に設立された。同時に直線専用軌道にふさわしいデイ100系新型車を投入した。
 濃茶の2ドアー、長さ19m、50トンもの角ばった大型車体の頭に大きなヘッドランプと、縦長の巨大な連結幌に特徴がある。
 東海道線と並走する大山崎では、国鉄の誇る特急ツバメを追い抜くエピソードは有名である。 
 
 京阪神急行となってからも、京都線・千里山線・嵐山線などで長年走り続けて、大阪万博の直後に引退した。今は阪急京都線の正雀車庫で技術遺産として保存されている。



 京 阪 電 車

          

◆京阪カーブ
 明治期の大阪−京都間の陸路交通は官営鉄道(国鉄)によるものであったが、運賃が高いため淀川の蒸気船が輸送の中心となっていた。そこで、渋沢栄一らの実業家グループが大阪−京都間を結ぶ新たな電鉄会社に、電力供給事業を組み込んだ「京阪電気鉄道」を設立。1910年(M43) 京都五条から淀川左岸の京街道沿いに、天満橋まで1時間40分で結ぶ路面軌道併用鉄道を開業した。
 しかし、大阪市や京都市の行政指導で、一般道路との共用部や集落間を縫うようなカーブの多い窮屈なルートであった。中には野江の七曲がりと呼ばれる難所もあって、京阪株(カーブ)式会社と揶揄された。

◆新京阪の設立
 大正時代に入って、増え続ける輸送量に対応するためスピードアップが必要となっていた。路面軌道や国道交差点、カーブの改良を進め、2両連結や急行の運転も行われたが限界があった。
 そこで、系列下に「新京阪鉄道」を設立、大阪−京都間を直線で結ぶ淀川右岸路線を新設する。左岸の京阪本線は沿線利用客を中心として、大阪・京都の直通客は新京阪に振り分ける方式とした。
 京都西院駅からほぼ真直ぐに長岡・高槻・上新庄から淀川を越えて桜ノ宮から梅田駅に乗り入れる計画であった。当時、国鉄城東線の電化と高架にともない、払い下げられる国鉄の跡地伝いに梅田乗り入れを監督官庁の鉄道省から認可された。この新路線には直線専用軌道にふさわしい「デイ100」系と呼ばれる大型の高速車両も投入された。

◆幻の京阪梅田駅
 多額の資金をつぎ込んで新京阪の鉄道専用軌道の準備施設や、梅田乗り入れを見越して周辺の用地買収が進められた。
 その痕跡は今も多く認められる。JR大阪環状線桜ノ宮の橋梁には京阪が建設した京阪乗越橋の名前が記されている。桜ノ宮から大川を跨ぐレンガ橋台の跡や、梅田までの細長い用地が今も所々で認められる。
 旧阪急百貨店の1階にあった昔の京阪神急行梅田駅の建屋は、東側に大きな開口部が設けられていた。新京阪が計画していた梅田駅と繋ぐためであった。
 しかし、そのような準備にもかかわらず、大阪市は「都市計画に関する自治権の侵害」を盾に梅田乗り入れを許可しなかった。そのため新京阪は上新庄から大きくカーブ、淡路を経由して天六に向かい、将来的に天六から梅田や天満橋、淀屋橋に乗り入れを目指した。本項は阪急電車「上新庄の急カーブ」と重複する。
 京阪にとって子会社の新京阪に対する巨額投資や、京阪本線の改良にともなう資金負担が重くのしかかった。おりしも昭和・世界恐慌とも重なり、京阪の梅田乗り入れは断念された。
 その後、京阪が取得した東梅田の跡地は阪急に売却され、現在はその場所にHEPFIVE(阪急ファイブ)が建っている。
 このような大阪市モンロー主義は他の私鉄に対しても同じであった。阪急の南進も阻止、大阪万博のアクセス向上のため、天六からの地下鉄堺筋線との相互乗り入れが実現したのは1969年(S44)になってから。
 南海も難波から北進できなかった。近鉄も上六から難波に延長できたのは1970年(S45)。その後、阪神の難波乗り入れに伴い、近鉄・阪神の相互乗り入れが実現するのは2009年(H21)になってからである。

◆経営戦略
 設立当初の京阪は積極的な営業拡大策をとっている。京阪本線の三条から琵琶湖方面に「京津線」を建設。新京阪の設立後も向日町から伏見・山科・大津を経て鈴鹿山脈越えに、名古屋進出を計画「名古屋急行電鉄」の免許も取得している。
 さらに、和歌山水力電気、和歌山軌道(南海和歌山線)を系列下にする。奈良鉄道も近鉄と激しい株式争奪戦を繰り広げたが、政治仲介により近鉄(京都線)に譲歩した。
 この様な拡大路線による経営負担が増したところに、昭和・世界恐慌に見舞われ大幅な事業削減を余儀なくされた。その経験から他の私鉄に比べて本業を重視する傾向となり、関西大手私鉄でプロ野球の球団を持たなかったのは京阪だけであった。他社線との相互乗り入れがないのも京阪だけである。

◆京阪特急
            

 昭和初期の一時期、浜大津−天満橋駅間に直通特急「びわこ号」を運行したが、それ以外は京阪本線で特急は設定されなかった。京阪本線は沿線利用客を中心として、京都−大阪間の直通客は新京阪に振り分けたためである。
 しかし、新京阪が京阪神急行(現在の阪急)に残されることになったため、京阪本線で特急を走らせる必要に迫られ、現在の特急の原型となるオレンジとレッドの1700系特急専用車両を投入した。
 その後、沿線に本社のある松下電器の協力で、市場にでてまだ間もないテレビを搭載した1800系特急は走るテレビーカーといわれた。1971年(S46)に登場した3000系では冷房装置や、世界初の一斉自動転換クロスシートを採用、ダブルデッカーも連結した。
 現在の8000系特急の車体カラーは真ん中に、京都の紅葉や十二単衣をイメージする金線を入れてエレガントにした。その京阪特急も、当時の国鉄「新快速」に速さで太刀打ちできなくなり、阪急と同じように時間を争うより主要駅で停めるようになった。

◆中之島新線の不安と期待
 天満橋から中之島までの中之島新線は2008年(H20)開業した。直下を上町断層が横切るため、強化コンクリートによるシールドトンネルとするなど耐震性を高めた構造にしている。
 中之島線専用に紺色を基調にした2代目3000系新車両を投入。中之島に大阪本社のある東レの高級スエード「エクセーヌ」を使用した豪華シートの新型車両である。
 期待を込めて中之島の中心部に乗り入れたが、中之島や渡辺橋などの各駅では隣接するビルや地下街、大阪地下鉄線との連絡通路が整備されていない。駅への出入口は地上の堂島川堤の遊歩道にあり、堂島通を横切らなくてはならず期待を裏切る結果となっている。
 そのような影響もあってか、京阪が予想した乗客数は大きく下回り、運行本数を減らすダイヤ改正を余儀なくされている。フェスティバルタワーや朝日新聞社新ビルが完成後、どのように連絡通路などが整備されるのであろうか。将来的には中之島からさらに西のUSJや南港乗り入れの選択肢はあるのか興味深い。



                阪急 & 京阪 延伸計画  <2017.9.12> 

 2009年(H21)、共に創業100年を迎えた阪急と京阪。両社の歴史や阪急の新大阪駅乗り入れ、京阪の中之島新線の課題などを上記してきた。それから8年を経て、関西最大の開発案件である「梅田北ヤードの整備」と関西経済の起爆剤として「大阪湾ベイエリア開発」が国土再開発案件として浮上してきた。
 これに合わせて、阪急は「北梅田−十三・新大阪連絡線」の建設。京阪は「中之島延伸新線」で大阪湾ベイエリア乗り入れを示唆する中・長期経営計画を発表したことから続編を追加すことにした。

◆阪急「なにわ筋線」「新大阪線」「伊丹空港線」の新規連絡線計画発表
 大阪都心を南北に貫く鉄道新線、なにわ筋線(2030年開通予定)に阪急が乗り入れる新たな事業計画が、大阪市・南海・JR各社との間で大筋合意したことが発表された。
 それによると、阪急は十三に地下新駅を建設して北梅田新駅との間に新路線の十三連絡線を建設、なにわ筋線に乗り入れる。
 更に、十三から念願であった新大阪連絡線を建設。なにわ筋線に繋げるて関西空港にアクセスできる新ビジョンも合わせて発表した。
 JRや南海と軌道幅が異なる阪急。相互乗り入れのためには本線とは異なる狭軌新線にするリスクを伴うが、新大阪に入るJRおおさか東線の北梅田延伸や、なにわ筋線構想の具体化だけに留まらず、北陸新幹線やリニア新幹線の新大阪乗り入れが現実味を帯びてきたことから、新大阪乗り入れを決断したものと思われる。
 これらが実現すると、阪急はこれまでの本線の梅田駅と十三連絡線の北梅田駅の2ウエイとなる。 

 その後、阪急と国土交通省は、大阪伊丹空港に乗り入れる阪急伊丹空港連絡線の計画を発表した。

 年間1500万人が利用する大阪伊丹空港に直接乗り入れる鉄道はモノレールのみである。このモノレールは大阪市中部と直線つながっておらず、阪急や大阪地下鉄から乗り換える不便さがあった。
 この伊丹空港連絡線が実現すると、大阪市中心部の梅田と鉄道路線が直結する。阪急が北梅田連絡線となにわ筋線に乗り入れると、伊丹空港−関西空港を直接結ぶ路線も確保することができ、利便性は格段に向上すると見込まれている。ただ、建設費用は1千億円規模となることから採算性も含めて検討が必要としている。

◆京阪中之島線の延伸と夢洲乗り入れ計画
 予想外に乗客が伸び悩む京阪中之島線。その主要駅、中之島の渡辺橋にフェスティバルツインタワーや地下街が完成して、ようやく地下駅とツインタワーや地下街、大阪地下鉄四つ橋線肥後橋駅との地下連絡路が造られて利便性は向上した。
 中之島線の終点中之島駅では高層マンションが建ち並び、リーガロイヤルホテルの建て替えも予定されているなど、中之島再開発が進む中で延伸計画が発表された。

 それによると、大阪市と大阪府が計画する大阪湾の埋め立て人工島夢洲に、万国博覧会と総合リゾート施設を誘致するなど、大阪湾ベイエリアの活性化を関西経済の発展の起爆剤にする方針が国土交通省からも示された。
 これを受けて、アクセスとして大阪地下鉄中央線の夢洲延伸。JRもUSJの桜島線の延伸を検討している。
 地下鉄中央線天保山には毎年200万人の入場者数を誇る海遊館があるが、設備更新の時期に来ている。夢洲への移転が検討されている。
 京阪は伸び悩む中之島線に乗客を誘導するため、中之島から大阪地下鉄中央線九条駅まで延伸を検討している。 
 それらが実現して、京阪が地下鉄中央線に乗り入れが可能になれば、夢洲−祇園四条駅間を1時間強で結べる。京都に訪れた観光客を夢洲に運ぶインバウンド路線になり得るとしているが、夢洲、舞洲の軟弱地盤、メタンガス、気象条件などがネックになるかも知れない






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