梅田駅 神戸線・宝塚線・京都線 3線同時入線

◆阪急のこだわり マルーンカラー
私鉄で日本一巨大な梅田駅ホーム。10分ごとに、京都、宝塚、神戸の3線が同時入発着する壮観さ。
子供の頃から見慣れた赤茶色の車体。昔は京阪や南海のきれいな車体カラーを羨ましく感じることもあったが、今では落ち着いたマルーンカラーとアイボリーで全車両統一された車体。上品なイメージの象徴として沿線住民だけでなく、大阪府民の圧倒的な支持を受けている。
銀色の窓枠、天然アンゴラ羊のオリーブカラーシート、木目調など質感の高い内装にもこだわってる。
一時期、塗装コスト削減とイメージ一新のため、派手なカラー車体が投入されたが苦情が殺到した。鉄道各社では塗装コストが軽減できるステンレスむき出しの車体を多く見かけるが、阪急はステンレス車体でもマルーンカラーを施している。車体カラーで特急、急行、普通と列車差別せず全車両が同一色の4層塗に統一。これも阪急だけである。創始者小林一三の気品の憧れが脈々とも受け継がれている。大阪の派手、目立つイメージとは正反対である。
◆阪急の創設
箕面有馬電気軌道として1910年(M43)、梅田−宝塚間で開業した。小林一三は沿線の集客事業として百貨店、歌劇団、宝塚温泉、住宅地開発などの多角的事業を展開したのは有名すぎる。
1920年(T4)には神戸三宮にも乗り入れて社名を「阪神急行」としている。その神戸線はまだ人口の少ない山沿いルートであったが住宅地の開発が進み、国鉄、阪神と三つ巴の激しい乗客獲得競争を繰り広げてきた。
◆京阪との合併・分離
1943年(S18)の戦時政策で、阪神急行と京阪が合併「京阪神急行」となったが、戦後の占領軍の企業解体政策で京阪が切り離される。この時、合併前に京阪の子会社であった「新京阪鉄道(現在の阪急京都線)」が京阪神急行側に残されたことから、既存の宝塚線と神戸線に京都線が加わり、今日の阪急の原型ができる。
◆京阪神急行に残った京都線
その京都線は支線扱いで、宝塚線や神戸線に新型車両が投入されても、京都線は旧車両のままであった。
京都線の本線は四条大宮と天六。梅田にでるには途中の淡路や十三駅で乗換えなければならなかった。その後、梅田−十三駅間の増線によって、梅田起点に変更されたが本線に比べ2線2面ホームと少なかった。
最もネックになったのが電圧の違いにある。600Vの宝塚・神戸線に対して、京都線は1500Vであった。そのため、宝塚・神戸線に合流する十三駅の手前で京都線の架線が一旦途切れた後、梅田までは600Vしかない架線に入る。1500V仕様の京都線車両は、電圧不足で30キロ程度の速度しか出せなかった。高校通学で乗っている京都線の車両はいつもノロノロ、並走する宝塚線、神戸線に追い抜かれて腹立たしかった。
その後、宝塚・神戸線も1500Vになったが、梅田駅のホームがふさがっていたり、駅の電気容量不足のため手前で長い信号待ちをさせられた。京都線がスムーズに運行できるようになったのは、新梅田駅が完成した1973年(S48)からである。
◆上新庄の急カーブ
カーブの多い京阪に比べて阪急京都線は直線区間が多いが、大阪市に入った上新庄から梅田にかけてカーブが多くなる。その中でも特に大きく曲がるのが上新庄のカーブ。
戦前、京阪の子会社であった新京阪は、国鉄城東線の高架に伴い、空いた国鉄の旧路線の払下げを受けて、新京阪の梅田乗り入れを監督官庁の鉄道省から許可された。上新庄から真直ぐ南下、都島・桜ノ宮を経て国鉄城東線の跡地伝いに悲願の梅田乗り入れができるはずであった。
ところが大阪市の猛反対で断念。上新庄から大きくカーブさせ淡路を経由して天六に向かい、将来的に天六から梅田や天満橋・淀屋橋に乗り入れする方向に変わった。
◆京阪神急行から阪急に
阪急百貨店の1階にあった梅田駅。京都線の入線で狭くなったため、北側に新ターミナルが建設された。1973年(S48)に鉄道駅の頭端ホームとして、これまで日本最大ホームであった南海電車難波駅の9面8線を凌ぐ、10面9線の新ホームが完成した。この時、京都線のホームも増設して宝塚・神戸線と同格の3線3面となった。同時に車両や設備も統合して社名を「阪急電鉄」に改めた。
その頃、淀川対岸を走る京阪では、日本初のテレビ付き特急を投入して京都までの速さも競った。対抗する阪急京都線では宝塚・神戸線にない、2×2列転換クロスシートの新型特急を投入した。
10面9線 日本最大梅田駅ホーム

◆新幹線軌道を走った阪急
当時はまだ京阪神急行と呼ばれていた京都線。高槻から大山崎の約5キロの区間を平行するように東海道新幹線の高架が建設されることになった。新幹線が高架となり、並走する阪急が平地では踏切の見通しが悪くなることから、阪急も高架にすることになった。
阪急と新幹線は同じ標準軌道であり、先に建設した新幹線の高架に阪急用の軌道と架線を設けて走らせた。その間に阪急の高架工事を進め、阪急の高架が完成して移し変えた。1年弱であったが新幹線が走る前に阪急電車が走っていた。
◆新大阪駅乗り入れ計画
1963年(S39)に開業する東海道新幹線新大阪駅へのアクセスとして、阪急は京都線の淡路−新大阪−十三駅間と、神戸線の神崎川−新大阪駅間の新線免許を取得した。京都線の特急・急行は新大阪経由の新線に、普通は従来線に分離する計画であった。
そのため、新幹線沿いの用地買収を進めた。新大阪の高架橋周辺では至る所に阪急乗り入れを見越して建設された準備施設や、細長い空地が何か所も存在する。陸橋には京阪神急行の文字も刻まれている。
阪急の利用者が新大阪に行くには、地下鉄に乗り換える必要があったことから直接乗り入れを大いに期待した。しかし、新大阪周辺の発展が予想を下回り、京都線乗客の伸び悩み、高度経済成長の行き止まりなど、さまざまな要因によって断念された。
◆JRの新快速に敗北
1970年(S45)当時の国鉄は「アーバンネットワーク」と称して、京阪神都市間を高速で結ぶ「新快速」を投入した。京都・高槻・新大阪・大阪・尼崎・神戸などの主要駅しか停車しない。
ほとんどが複線の私鉄では、前走の電車が駅で待機停車中に追い越すしかないが、この新快速は複々線を利用して、前走車を停車させることなく130キロの高速で一挙に抜き去る。
大阪−京都駅間が40分かかる阪急や京阪特急に対して、新快速は25分で走り抜ける。これに全く太刀打ちできない阪急、京阪、阪神は特急の時間競争を改めて、主要駅にこまめに停めるようになった。
◆これからの阪急
阪急淡路駅付近では、長年の課題であった京都線と千里山線の大規模な高架化を計画している。
この駅で京都線と千里山線が平面クロスするため、信号待ちが多くスムーズな発着ができない、踏切や町の分断が長年の課題となっていたことから、京都線と千里山線を高架の立体交差駅にする。
同時にJR新大阪に乗り入れる新線「おおさか東線」の新淡路駅の完成も近い。そのため阪急は淡路からの新大阪連絡線は放棄した。残されている十三方面からの新大阪乗り入れ計画は実現するのか。それとも阪急新大阪駅は幻のホームとなってしまうのであろうか。
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