<第8の手紙>

愛するお父さんに慎んで申し上げます

マ・ミヒ

 

 お父さん!

 私は、この手紙が北朝鮮に行くことができないことを知っています。送る方法も送る宛先もない手紙であるということをあまりにもよく知っています。それでもこの夜は雨が降る米飯だけはどうしたことかとても深くしみるように懐かしくて送る所もない手紙を消してまた書きます。

 すでに40で年歳月が流れました。昔、陰風名月でもした人々が歳月は流水と同じだといったのにその話が合うようです

 1964920日でしたよ?お父さんが逮捕された日のことね。

 その時も我が家暮らし向きがあまりにも難しかったんですよ。

 その偉大だという誰それは色々な海戦にすでに遠くなくて私たちの人民皆が米飯に肉のスープを飲んで瓦の家を使って肉日がくるつもりだといったということにもね。

 それでも今考えればその時が幸せだったようです。みな倒れていくただ部屋家にいつもトウモロコシ軸でなければ草混ざった-とうもろこしご飯しかなかったがそれでも私たち一ケ所はお父さんがいました。お父さんとお母さんは早朝から協同農場畑に出て行って星を至高戻られたし分別がなかった私は姉さん兄さんらについて学校に行きましたよ。心配があったとすればお父さんがいつもからだが楽ではなくてことを終わらせて戻れば薬をおやつのように召し上がって夜中病む声が切れないことでしたよ。

 それでもお父さんは私たちにおっしゃったりしました・

 “どれくらい良い世の中か、もう遠くなくて米飯に肉汁を飲む世界も来るというのにここでさらに望むことが何か、お前たちも勉強でも上手にして党の恩恵に必ず報いなければならない。”

 しかし、このような幸福同じ日ら中に我が家に恐ろしい不幸が差しせまってきているとは本当に夢にも知らなかったんですよ。その日は秋夕の日でした。その日もお父さんは農場仕事に没頭してはいけないと朝も欠かされたお母さん仕事をしにニャガショッスムニだ.学校で石ヤオとかオモニガジョボで上村に謝辞は伯父の家にお手伝いを行ってこいとおっしゃいました。その時大きいお母さんは朝も正しく召し上がれなかったお父さんにタマゴ何粒と酒ある丙午を持っていけといいました。私が大きいお母さんが取りまとめて下さったつつみ(束)を持って村入り口に入る時でした。

 自分の友人ミョンスンが走って出てきながら話しました。“安全部で君のお父さんを捕まえて行ったの、君たちのお父さん反動だって”

 “それが何の声とか、うちのお父さん反動とは?”

 “尋ねなさい、とにかく安全部からきて捉えて行ったの”

 

 後に安易だがお父さんは解放前に倭人山林対に引きずられて行って数ヶ月あったことがあったとのことですね。それも志願したのでなく川ゼロ引きずられて行ってね。それでもお父さんは山林対というものが日帝の手先で'共産軍'討伐に走り回る無理というものを分かった後にはすぐ逃げたという話を聞きました。そのためにお父さんは捜査が解ける時までずっと隠れて住んだという話も回りました。

 

 だがそのことがどのように安全部(警察)駐在員の耳に入ったのか彼はお父さんが解放される時まで日帝巡査をしたことでクミオッみなでありましたよそして虚偽文書をねつ造してその時までずっと反動行為をしていること°_′ルー_作ったとのことですね。その日どのように家まできたのか分かりません。だがお父さんはすでに捕えられてなくてお母さんはそのとおり部屋の床に気を失って倒れていました。家の中は必ず盗まれた家のようになったのに前つつみ(束)を入ったお母さんぼんやりと(聞く)払うかに立っていることばかりしました。

 安全部やつらが出てきて家宅捜索をしたというのに何もなかった我が家で何カナくるでしょうか・・・

方案に関わっていた写真額縁で家族の思い出が入れられた古い写真いくつかの漿果兄さんの古い家畜帯をおさめて行ったのが全部だったしました・

 しかし、その古い家畜帯がまた日本討伐隊の革ベルトに化けるとは誰が分かるでしょうか。本当に.°_11_その日夜我が家はあまりにも惨めでした。一歩遅れて兄さん、姉さんらもきたが彼らがきたとしても違うようになることが何があるでしょうか?

 それでも低回らはお父さんがすぐら来られることができました。

 なにしろ優しい方だったがどれくらい黙黙と農場日に情熱を出されたお父さんですか、そして自身は苦労してもuriが住むようになる時には明らかに米飯に肉汁を飲んで瓦の家で肉ことがなることとしたお父さんです。

 そのようなお父さんであることを分かるので、出て行って遊びながらもびっくりして家に駆け付けてはドアをあけて訪ねましたよ。

 “お父さん戻ったか?お父さん戻っただろうか?”

 しかし、その時ごとに迎えてくれたのは仏道焚くことも出来ない部屋に縮めて横になっていたお母さんのしない声と返事ない空虚だけでした。

 

人々が見る注目も明確に変わりました。

時々他の人々こっそりと舌を打ちながらモチ一切れつかむ人々もいたがそうではない人々の目はとりわけ寒々となりました。共に遊んだ子供たちまで反動の子供とは遊ばないと席を避けました。だから私たちがすることが何があるでしょうか。

私たちの先生はおっしゃいました。私たちのお父さんは金日成元帥様で私たちの家は党の中だとね。

それで私たちは信じたし、待ちました。

私たちのお父さんは金日成元帥様なのにまた私たちが住んでいる家は党の中なのになぜこういう事が解決しないかとね。

 

このように日々が流れて何日が数ヶ月が経ち、数ヶ月が、数年になりました。結局できるのは勉強しかありませんでした。勉強、勉強、勉強の外に分からない年ごとに全校で一等をしました。ところでこのためにもう一度永遠に消されない傷を受けるようになるとは誰が分かるでしょうか。お父さんが捕えられて行った後にはいくら勉強が上手でも反動の娘一ケ所一等を踊ってはいけないと私をアに等数で押して捨てました_それも足りなくて高等農業学校門前まで押し出された時、その心をお父さんは付ける'i'己であることです。

そのようなの中で帰途防いで目も防いで入道膜はまだ40年歳月を送りました。

 

私が最後にお父さんの墓の前で思い切り泣いてみたのがいつなのかご存知でありますか?とてもその土地ではこれ以上住むことができなくて豆満江を件向こう側は他の国に離れようと決心した前日夜でした。墓といってこそいつ、どのように変わられたのか、あるいは生きておられるかもしれないお父さんの墓です。あまりにも多くの歳月が流したのでお父さんが捕まえていかれた日を忌日としてお父さんの古い服類だけ埋めた墓でした。

 

“お父さん!お父さんはなぜこの土地で私たちを生みましたか、世の中に国がそんなになかったのですか、私は今日が土地を離れて行かなければなりません、それでも出ようというというなじんだ故郷なのにね。うらめしいです。ア、胸が張り裂けます。いつ戻るのか分からない道を不孝なこの娘は離れて行きます。お父さん!・・・”

 

しかも数えきれない程多くの血の川、涙の川を破って大韓民国、首都ソウルにきました。今日はあるアパート火明るい窓傍でこの文を書きます。お父さんがそのようにように望まれた米飯に肉汁を飲んで瓦の家で生きたかった夢のような希望をみな成し遂げたお母さんね。

 

手紙といっしょにお父さんにこのように申し上げたいです。

この娘がいつのまにかお父さん捕えられた年齢をはるかに過ぎても戦います。まだその土地で大変に住んでいる人々のために戦います。そうしてどのようなことがあっても祖国統一の春を抱いて必ず故郷へ帰ります。

 

お父さん!それでは統一のその日故郷の後方の山にあらゆる花が満開な時また探して咲くことを約束さしあげ、今日はこれだけします。

2007620

娘ミヒから


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