<第7の手紙>

お父さんに申し上げます

チェ・ソンオク

 

 夢にもなつかしいお父さん!

 お父さんとお母さんの中を離れては一時も生きることができないと思ったのに…

 今日は遠くないところにいながらも安否さえ正しく申し上げることができないこの娘を許されるだろうと信じながらお見舞いのごあいさつをします。

 黒い雲が覆われて風雨と雷稲妻が一考一寸の前も識別することができない漆黒のように暗いその日の気持ち、お父さんは私の手首をとらえてこのようにおっしゃいましたよ。「ソンオク!天がお前を助けているんだな、はやく離れなさい。この父、母はこの世をたくさん生きてきた。前途が蒼々たるお前たちだけでも自由な世の中に行って安心して生きなさい。必ず死なずにこの父の故郷を訪ねて行きなさい。ひょっとしてでも親戚に会ったらこの父が死ぬ日まで故郷を懐かしがっていたと、両親兄弟たちをとても愛していたと--。」

 続きの言葉を忘れることができなかったその日の夜を一生忘れることができません。担いだ荷物に包んで入れたトウモロコシ餅いくつかと着替える服いくつかを入れて我々姉妹は涙、鼻水、雨水ですっかりごちゃごちゃになって、何も考えず豆満江の水に飛び込みました。

 絶対に後ろを振り返るなとおっしゃったお父さんの言葉を私たちは守ることができませんでした。ミオクはずっと泣きながら「姉さん!戻ろう。お母さん、お父さんがいなければ私たちはどのように生きるの?またお母さん、お父さんは私たちのために毎日泣きながら過ごすの!」

 私たちを豆満江辺に押して下さったその日の夜が昨日のことのようですが、すでに10年という歳月が流れました。

 

 振り返って見ればお父さんの運命はあまりにも惨めでした。

 17才の幼い年齢にご飯を食べさせてくれるという人民軍の話を聞いて行った所が人民軍入隊でした。38度線が詰まって故郷の兄弟たちと生き別れをしなければならなかったし、一人ぼっちでその時からかろうじて生きて来られましたよ。

 南側出身だといくら熱心に仕事をしても正しく評価されることはありませんでしたよ。お母さんはお父さんが労働党員になることが最大希望なので一年中ずっと育てた豚を3匹も人民軍支援に捧げたがついに夢を実現することができなかったんですよ。

 私もやはり高等中学校を最優等で卒業しましたが、お父さんの成分のために上級学校に行けないで炭鉱で電車運転工をしながらお父さんを恨んだりもしました。

 今考えてみれば私があまりにも分別がなかったし、単純なことがどれくらい恐れ多く、お父さんに申し訳ないかわかりません。

 

 なつかしいお父さん!

 私とミオクは豆満江の黒い水の中にからだを任せて下流に流されて木切り株に引っかかって偶然の幸運で救出され、有難い中国朝鮮族のおじさんの助けで中国対岸に無事に到着しました。

 そのおじさんの家で服もまだ乾かすことができなかったのに、誰かの申告を受けて押しかけた中国公安に捕まって行きました。

 中国公安はやはり悪いやつらでした。ある日「お前らをかわいそうに感じて出すから、後で境遇でも必ず返せ」といいながら監房ドアをあけてくれたが、外である夫婦が私たちをどこか連れていきました。私たちは彼らを「救世主」と信じたのに彼らは公安と組んで脱北女性を売り払う「人間仲買屋」でした。彼らは私たちをある家に連れて行って主人と何か駆け引きをすると、残しておいて行きました。不吉な予感がして私たちを解放してくれとその家主に哀願すると、「お前たちは各々4000ウォン(人民幣)で売られてきたのだから、行くならその金を出しなさい」というのです。びた一文ない私たちは市場で子犬が売られるように売られた金額に追加金をさらに準備した主人によって山東省に引きずられて行きました。そこで私とマオクはまた別れなければなりませんでした。

 私が売られて行った家は父親と2人の息子がみなやもめの家でした。彼らはかわるがわる行きながら監視し、少しでもさん子がおかしければ獣を殴るように殴りました。

 何度も死のうとしたものの、お父さんが必ず生きてあなたの故郷に行けとおっしゃった言葉が耳に響くように聞こえてきて唇をかみながら我慢して耐えました。

 私は思い直しました。どのようにしてでも彼らの信任を得て監視が疎かになれば逃げるだろうと考えながら、真っ黒にうす汚くなって垢がくっついたふとんを洗って台所もきれいに清掃して塀には石灰もして時には「愛嬌」も働かせながらね。すると彼らは私が心をそちらに置いていると考えて監視を疎かにし始めました。

 北朝鮮を離れて来たその日のように雨が降って雷稲光がしたある日の夜、私は静かにその家を出て近いトウモロコシ畑に深くからだを隠しました。私がいなくなったのを知るや、彼らはオートバイと自転車ペダルを力いっぱい踏みながら私を探しました。彼らが遠くへ行ったと考えた私は彼らと反対方向に、後も振り返らないで履き物も履かないでむやみに走りました。私は走りながら「お父さん、お母さん私を助けて下さい…」とずっと口の中で叫びました。

 道で会った朝鮮族のお婆さんが私を助けてくれ、その方の紹介で韓国行に成功しました。

 

 その後もあらゆる苦労の末に韓国にきて、お父さんの故郷に行ってみました。お父さんが末っ子であった関係で年上の伯父と叔母たちはすでに亡くなり、いとこたちにだけ何人か会ってみました。彼らもお父さんをたくさん懐かしがっていましたが、彼らも軍事独裁時代、お父さんが「義勇軍」に自主入隊して多くの不利益にあったといいます。ここは、天涯孤独で来た私たちの友人たちも多いですが、私はいとこがいて、幸運だと思います。

 大韓民国にきても熱心に仕事をしたし、多くの風聞を便りに捜したあげく、ある地方に売られたミオクを3年前に韓国に連れてきました。私は韓国にきて結婚したし娘もいます。ミオクは中国ですでに結婚しましたが、何ヶ月後には朝鮮族の夫と息子が韓国にきます。今、私たちの姉妹は自分自身のようにお互いを慈しみ愛しています。私より7年も幼いミオクは私を閻魔のように従います。

 北朝鮮にいる時見た外国映画のように整えられた家で私たちはどのような不便もなく良く暮らしています。

 

 お父さんに何回か人便も送ったのにまだ便りがありません。

 お父さん、お母さんの身上に何の事故もおありになりませんか?私たち姉妹は、会えば置いてきたご両親のことを思ってどれくらい泣くかしれません。しかし、私どもは信じます。あれほど強かったお父さんがお母さんをよく助けながら必ず健康に生きておられるだろうと信じます。

 今後、都合つき次第、人便を送ります。

 必ず健康で、ともかく生きていて下さい。

 統一される日。

 孫、孫娘たちを連れて娘婿たちが訪ねて行きます。

 どうかどうか健康に元気でいらしてください。

 あまりにもたくさんたくさん愛します。

2008320

ソウルのあるアパートで娘ソンオク拝


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