<第6の手紙>

お母さんが恋しいです

キム・ソンジン

 

 お母さん!

 この世に数億のお母さんがいますが、私にはただ一つだけの大切なその名前「お母さん」という言葉を喉いっぱいに呼んでみます。

 私があの土地を離れてからすでに3年と 5ケ月になります。病気でいらっしゃったお父さんはいったい大丈夫なのか…家出した妹たちはどのように生きているのか…軍服務中の末っ子は…恋しくてなつかしい顔の向こう側に縁故をたどって相次ぐ気がかりなこと、いえ、家族の情に飢えたこの息子の切なさです。

 

 お母さん!

 私が高等中学校を卒業して軍に入隊する時、駅で家族みんなが涙を流していた姿がまだ鮮やかに目に浮かびます。その時はそこまでみな知らなかった家族の大切さを12年間の軍服務期間中、本当に骨身にしみるように感じました。訓練と作業があまり辛くてお腹が空く時・・・悔しい処罰と鞭打ちが加えられる時・・・兵営後方の山と兵営の前の川辺で、独りで涙を流しながら押し寄せて来る懐かしさを努めて飲み込まなければなりませんでした。訓練と作業を終えて帰隊する夕方の山村に漂う煙の臭い、ご飯を炊く香ばしい臭い、家ごとに出てくる子供たちの笑い声、窓側の灯り、その一つ一つが頭をよぎり、郷愁を呼びおこしました。学生時代にはあまりにも知らずにかすめて過ぎ去った家族との平凡な日常がそれほど弱々しくて切ない懐かしさになって胸をつぶしてしまいます。

 

 軍服務の年輪が回を加えて一歳、二歳と年をとりながら再び思い出のその時期に帰ることができない現実の非情さと視空間の無常さにのけぞり、仰天するほど驚いたことも多くありました。20代青年として表面では成人なのかもしれないけれど、胸中ではお母さんのスカートの端っこをつかんでむずがった幼年の世界へ帰り、だだをこねたり、甘えそして意地を張り、口答えしてお母さんをやきもきさせた、いたずらっ子で、意地悪い少年の世界が共存していました。

 

 愛されたい気持ちはどこの誰もが同じ人間の属性らしいです。長男として生れて「上の子は家の柱だ。上の子がうまくいってこそ弟妹たちもうまくいき、その家がうまくいく」という訓戒を耳にたこが出来るほど聞きながら育ち、もしかしたら愛より責任を、権利より義務を宿命のように甘受しながら時々は(私も末っ子に生まれていたら・・・)と考えてみたこともありました。今になって、妹たちが末っ子の弟を可愛がってやるのをみると(自分にも姉さんがいたら・・・)とも考えてみたし、いまだにかなわないその願いは相変わらずです。

 

 家父長的で男性権威主義的であり封建儒教的慣習が多分にあるその社会で両親の期待と愛そして信頼を一度に受けながら、富裕とはいえないが、きわめて平凡な家庭の長男として成績も優秀で学校生活も模範的にしつつ、ねじけたところがなく明るく育ったが、さらに多くの愛を受けたい自分の欲心はそれほど過度だったようです。

 

 あの社会と家庭的環境が私を「すべてうまくやらなければならない。他の人々よりさらにうまくいかなければならない」という強迫観念に捕われるようになったりもしました。完璧な人間なんていないにもかかわらず、私はこのように行動すれば他の人々がどのように見るだろうか?このような話をすれば他の人々がどう思うだろうか?という自己束縛のくびきの中でいつも自己強迫的でした。それで長々12年の軍服務期間、より一層寂しさに負けて郷愁と哀愁に濡れて両親兄弟と故郷を懐かしむ感傷主義者になってしまったのかもしれません。

 

 その長い軍服務を終えた日、孤独と懐かしさは永遠に「グッバイ」と知りました。どうせ独りで来て独りで行く人生は独りであることを忘却してしまう。しかしご両親と兄弟、故郷は、昨日の日のその姿そのままではありませんでした。たくさん老いて病気のご両親… 12年前よりはるかに劣悪になった家族状態、家出した妹の貧困、木一株もなく、小さな丘に変わってしまった故郷の後方の山・・・人も山川も昨日のそれではありませんでした。山川も変わるという10年以上の歳月なりに情熱を尽くして「銃隊で守ってきた」祖国は息子たちに希望を与えませんでした。

 

 私は貧困が嫌いでした。貧困の相続はより一層嫌いです。そして長男だがご両親のために何もできない私の無能力と息が詰まる圧制が嫌いでした。希望とかビジョンとか単語自体が贅沢で、ただ明日の一食食事用意に執着しなければならないその社会の現実がとても嫌いでした。それでその時ちょうど運命のように私に渡された韓国行の機会を長い考える必要がなく捉えました。それなりに北朝鮮より機会がより多くもらえる政治的又は経済的に文化的で民主主義的発展と豊かさ、自由が用意された韓国からより良い生活を送り、両親兄弟も助けたかった。韓国行を決心して申し上げた時、3日間を食事も出来なくて声を殺して3日の夜を泣きに泣かれたお母さんの胸の内をその時は全部は知りませんでした。今でも全部は知りません。多分今後も永遠にすべてを知ることができないのかもしれません。

 

 ロシアのことわざに「お母さんの心は息子に行っていて息子の心は草原に行っている」という言葉があります。子供愛がそんなに特別だったお母さんにとって子供との別れは肉を薄く切って骨を切る痛みになるということを、不孝なこの息子がどうしてみな推し量ることができますか?

 

 育ちながらお母さんの心を大いに悩ませることはあっても、成績上位圏に常に入り、他の子供たちがみんな吸ってみるタバコ1本も吸わなかった私です。軍で歯をくいしばって同期より先に入党して軍官にもなりました。とても感心し、喜ばれながらもあなたが両親の役割を果たせず、あれほど行きたかった大学に行けないで軍官になったと、すまないと思って心を痛められた姿が忘れられません。「信じる斧が足の甲を切る(訳注:Trust is the mother of deceit)」といいましたね?

 

 しかしその時私は韓国にきて成功し、両親兄弟を助けることが親孝行で、長男としての役割をつくすことであり当時状況で最善ではないとしても次善策にはなると考えました。

 脱北過程での危険と残される方々の身辺問題や不安感そして離別の痛み等は大義のために一定程度は甘受しなければならない機会費用のようなものと片付けてしまいました。どれほど分別がなくて単純な考えでしょうか?その土地がどんな所なのか…南北間の分断状態がいつまで持続するのかどのように知って・・・

 

 お母さん、覚えていらっしゃいますか?そこを離れる前、私が「お母さんの将来を約束できないので軽々しく大言壮語のようなことはしません。私を信じていただけますね?今大変でも我慢して信じて少しだけ待って下さい。」と言いましたね。

 私、今ここで熱心に生きています。中国と東南アジアを経る15ケ月の長い旅程のはてに韓国行には成功したものの、到着するやいなや、あれほど信じていた妻とは離婚し、家もなく、あちこち飛び歩きながら食堂仕事とアルバイトで延命しました。背信と憎悪、怒りと孤独絶望感のために酷い気持ちも持ちました。涙も本当に多く流しました。天も無情だと思い、むなしい悪口も言ってみました。何の技術もなくて、低学歴なので言語や文化的な違いのために差別も受けました。あれほど希望した大学入学試験で何回も苦杯も飲みました。天涯孤独でこの土地にきて私やほかの方々が体験した肉体的苦労、精神的苦労をどうしたらすべて表現できますか?しかしそのたびに、北朝鮮にいらっしゃる両親と弟たちのことを考え、お母さんとの約束を思い出しました。もちろん自分の運命が大切なことはとやかく言う必要がなかったのです。

 

 どうせ私が選択した道です。戻すこともできず、戻そうとしてもいけない私の運命の道です。私が離れた後にお母さんがそれほど胸を痛め、後悔されながら数ヶ月ずっと病んで寝ていたという話を伝え聞きました。汁を飲んでもいっしょに暮らさなければならないのに・・・愚かな両親に会ってそれほどしたかった勉強もできなくて両親のそばを離れてその険しい道を離れるようにさせて…。

 

 そちらで大学行けなかったのがなぜお母さんのせいですか!すべての選択は自分がしたのに・・・軍服務は義務服務であり、いくら自分の意見を尊重するにしてもその時に、なるなと、ならないとさっぱりとおっしゃったらいかがだったのですか・・・両親もみな捨てて一人で生きて行くそのような悪い息子がどこにあるのかと・・・幼い時お母さんの言うことを聞かないで心配をかけたその時のように鞭を打ち、悪罵もしてくれたらよかったのに。お母さんの子供愛に千万分のことも推し量ることができないこの醜い息子のためにそのように心痛めて苦しみながらなぜ一言も口に出されなかったのですか?

 

 突然、妻の実家の家族たちと消えてしまった私のために保衛部の調査と監視に苦しめられ、数年は早く歳を取られたという話を伝え聞いて一人で泣きました。肉体の一部分が離れて行くそのような痛みを感じながら、強く捕まえないで「そうね、お前たちだけでも向こうに行って良く暮らしなさい」と言いながら欣然と見送られたお母さん・・・そしてその苦痛、その苦痛の百分の一、千分の一にもならない私の孤独と困難、悲しみが恥ずかしくなるのはそのためです。

 

 北朝鮮にいる時は遠い別の世界の話、他人事だった離散家族の悲しみと苦痛が今は私たちの家族のことになりました。

 お母さん、お母さんの心をそのように痛めて、家族みんなを、私のためにそちらで常に不安の中に震えさせているこの息子は、跪いて容赦を乞います。何の話で謝罪申し上げ、何ですべて補償して差し上げられますか?両親兄弟にすでに元に戻せない大きい罪を犯したこの体、ここで本当に熱心に生きて少しでもその罪を償いたいと思います。

 

 何事も知らずには一歩も動けないこの社会でどのようにするか、学習の夢を叶えてみようと専門大学に入学しました。熱心に勉強しながらアルバイトをしても必ず優秀な成績で卒業しようと思います。献身的な愛と犠牲の上に今日が存在することを常に心に銘じ、名誉と富、派手な成功の金字塔は直ちに積み上げることができなくても、常に最善を尽くし、熱心に生きる姿でこの社会定着の基礎を築き、堂々とした一員になります。

 

 お母さんありがとうございます。私を生んでいただき、正しく育ててくださって、この世で生きて行くときに最も基本的な性格と教養をいただいて・・・私の人生の滋養分になって下さって、軍服務する時も、こちらで最も重労働の辛くて孤独な時も、諦めと堕落の道に入らないですみました。

 お母さんの希望がどこにあろうと、この息子が常に元気で幸せに良く暮らすことだということをあまりにもよく知っています。それがお母さんの愛であり、心だということを・・・お母さんの犠牲とその希望が無駄にならないように不断に鞭打ち、修養し、脱線しながらもまた軌道を修正し、倒れながらも百回また立ち上がる、恥ずかしくないそのような人として生きるために努力します。

 

 統一のその日、両親兄弟の前に堂々と出られる人になります。また会う日、お母さんの膝に、疲れて大変なこの体を寄り添って、幼い日の子守歌も聞いて、若い時期のお手並みで作ってくださった食べ物も食べたいです。

 寝ても覚めてもこの息子が心配で眠れなくて、開けた目で長い夜を徹夜するお母さん、また会うその日まで、どうかご健康で長く長く生きていて下さい。お母さん愛しています。そして会いたいです。

2008310

ソウルで息子拝  


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