<第5の手紙>

いつも会いたくて抱えほしいお母さんに申し上げます

キム・テヨン

 

 お母さん!

 お母さんと最後にお会いしてから10年という歳月が過ぎました。

 今どのように過ごしておられるでしょうか?柔弱ながらも穏やかだったお母さんがこの息子のために夜も安眠されないでいらっしゃることを私はあまりにもよく知っています。外国でもない私の国、私の土地で人工的に遮られた38度線の鉄条網のために、いつもなつかしいお母さんにお目にかかることもできず、便りも伝えることができないので、この世を恨みもし、不孝な私自身を恨んだりもしながら、私もやはりお母さんにあまりにも会いたくて夜も寝られないでいます。自分の年齢が30才をいつのまにか越えましたが、私は相変らずお母さんの愛もたっぷり受けたいのです。

 

 お母さん!過ぎ去った10年の歳月を顧みると、あまりにも胸が痛いです。

 中学校を卒業したばかりの私が人民軍警戒所に行くことになった時「末っ子のテヨン!お願いだから、お前だけでもこの母のそばにいてくれることはできないの?」と言いながら私についてくるお母さんのしわが寄った目尻には、すべての痛みの代わりをする涙が一筋二筋落ちましたが、私はお母さんのその姿が痛ましくて、立派な男、大丈夫らしく、泰然としたふりをしました。

 しかし、私もやはりお母さんのそばを離れたくありませんでした。

 風邪をひかないように、寒がらないように、辛いことのないように、息子の身辺を心配されながら自身のすべてのものをこの末の息子に捧げられたお母さんなのに・・・

 それでも私は運が良くて平壌近郊で人民軍生活をするようになりました。

 数十キロにもなる通信線を肩に担ぎ、寒い時でも暑い時でもただ戦闘任務を遂行しようとする自覚を持って最善を尽くして熱心に仕事をしました。

 より一層がっしりしてすべての面で遜色がない労働党員の栄誉を持ってお母さんの前に堂々と出るのだと心を固めながら、大変な任務遂行も克服して行くことができました。

 私自身は立派な男なのだから大らかでなければならないと思って手紙もあまり出しませんでした。自分の運命がこのようになると分かっていたら、切なくこの末っ子の便りを待つお母さんに手紙を頻繁に書いたでしょうに・・・

 お母さん!後悔は常に後にあるものですから。お母さんが許しても私は猛烈な後悔をしているのです。

 

 本当に大変なあの時期、地方人民に何年か前に食糧供給が切れて餓死者が連続するその時、すでに教職を離れたお父さんが中国にいらっしゃる親戚方々に助けを乞おうと国境沿線通行証を買って中国に行かれたという消息を聞きました。

 10年前その時自分の年齢が20代初めで、私はお父さんが中国に行って貴重な物を持ってくれば友人たちみんなに分けてやって自慢をしたかったです。

 ところで中国に行かれたお父さんがすべてのことがうまくいかず、帰国期日が過ぎて北朝鮮当局では神経をかなりすり減らしていたといいますね。さらに解放後すぐ韓国に行かれた伯父、いとこたちが中国に来てお父さんに会ったため、この事実が目に見えない保衛部網にかかり、それっきり仕事がだめになりましたね。

 いくら実兄として韓国人に会ったとしてもこれが「罪」となり、父を逮捕しろとの命令を受けて北朝鮮の保衛員たちが中国に行き、事前にこの事実を知ることのできたお父さんは家族皆を後に残しておいて韓国行を選ぶことになったそうです。

 お父さんは自身の韓国行が祖国に残っている家族にどれほど大きな政治的報復を受けることになるかを明らかに分かっていながらも故郷を捨て、離れて振り返るその足もとには流れる涙が土地をしっとり濡らしたといいます。

 

 その次には私にまでその不通が飛びました。

 旅団政治部へ呼ばれてみると、両親が正しく身の振り方をできないから除隊させると言いました。朝鮮労働党員になって勲章をある胸にいっぱい付けて故郷に行き、ご両親の前に堂々と出るという固い覚悟は水の泡になり、ばらばらに割れました。

 何も入っていない除隊背嚢を担ぎ、北行列車に乗りましたが、この事実を私に知らせようと大きいお兄さんが送った人に会いました。

 「テヨン、そちらに行けば私もお前も収容所に行くことになる。お前の大きい兄さんが私を送りながら、後も振り返り見ずに鴨緑江を渡って中国に行き、どうにかして韓国に行く方法を探せ、死なずに必ず生きろ、絶対に捕まるなとお願いしたよ。」その道に私はお母さんとお兄さんたちが待つ家にも行けないで前後を識別する間もなく、鴨緑江に飛び込みました。

 私は本当のところ運の良い奴らしいです。

 道でキインに会って親戚の家にいましたが、先に行かれたお父さんが道を作ってくださって、多くのお金を与えて韓国に無事に来ることができました。今はお父さんといっしょにいます。

 

 お母さん!.

 私が最後にお会いしたあの日、私はあまりにもうれしくて、私たちの両親と同じ方はこの世の中にいらっしゃらないと思い、自負心を持ちました。

 山と野をさ迷いながらブタ草をむしって来て全村のすくった水をすっかり集めて食べさせた豚を売ったその金を持って私が勤務している軍部隊に来られました。その金を外貨と変えておいて平壌外貨商店でビール数瓶と果物、糖菓類を持ってきてその荷物を解くお母さんの手が震えているのを見ました。

 

 他の人々が見ない木陰の下に連れて行って、おいしく食べて飲む私を見ながらあれほど喜ばれた姿を永遠に忘れることができないでしょう。

 あまりにも物の値段が高くて戦友たちといっしょに分けて食べさせてあげるわけにいかないので仕方ないことでしたが、私は子供のように楽しいだけでした。

 そして軍部隊指揮官たちに私をよろしくお願いすると贈り物を用意して下さいました。

 米飯一度さえまともに召し上がることができないのに、小さくて柔弱なその肩と頭の上にあちこち回りながら儲けたその金をそのように使いながらもお母さんは大変なそぶり一度もされませんでした。

 私がお母さんに「お母さん!体がさらに小さくなったようですね。」と言うと「これ、人は年とったら皆そうなる決まりでしょ。」

 「私たちはただお前が元気な姿で除隊して両親のそばに戻って来ることだけを指折り数えているよ。」と言いながら、とても泰然としたふりをされましたが、その後便りを聞くとお母さんは体がとても弱くなって、布団にたびたび横になっておられたと聞きました。

 私はどれほど分別がなかったのでしょうか?

 

 私たちはこちらでよく食べて良く暮らしているという言葉を言うこと自体が余りにも申し訳なく思います。

 毎年「父母の日」を迎えます。58日なのですが、私はその日が来るとお母さんにさし上げる贈り物を一つずつ一つずつトランクに貯めています。

 トランクがあふれ出る前に必ず会わなければならないのに・・・

 お母さん!今年も半分が過ぎてしまいました。来年はお母さんの進甲(訳注:還暦の翌年の誕生日)なのに…

 この世があまりにも薄情で悔しいです

 必ずや私に親孝行できる機会を与えていただかなければなりません。

 老いることなく、健康でいて下さい。

 また会うその日まで、ぜひぜひお元気で。

 さようなら。

2007615

お母さんをたくさんたくさん愛する末っ子テヨンが申し上げます。

 


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