<第4の手紙>

深くしみるようになつかしい お父さん、お母さんに申し上げます

チェ・ジョンシム

 

 お父さん、お母さん 私は今日ソウルにある、ある有名大学に入学しました。

 

 自分の今までの人生で、こんなにうれしい日は何日もないのに今日がまさにそのような日の一つであるようです。幸せなこの時刻、笑いの代わりにとめどなく涙が流れるのはなぜでしょうか?多分あれほど熱望した学習に対する願いの成就以上に、愛するお父さん、お母さんと今日のこの喜びを共にすることができない悲痛さと口惜しさのためだと考えられます。

 お父さん、お母さん、あの遠い天国で憂いを捨ててゆっくりお休みでいらっしゃいますか?今、この時刻、ご両親のことが耐えられないほど懐かしくて、大声を張り上げて呼んでみます。「お父さん、お母さん、私、大学生になりました。祝福して下さい。」とね。一方では歓喜の今日に至るまでに体験した過ぎ去った私のみじめだった人生を自叙伝のように構成し、お父さんとお母さんに申し上げたい衝動もまた禁じ得ません。

 お母さんは私を咸鏡南道、会寧でお産みになりました。清潔で固い心を変えないようにと名前もチョンシムとしてくれました。9才の幼い年齢にお父さんを事故でなくし、片親であるお母さんの懐の中で育ちながら、余りにも早くから苛酷な暮らしに苦しめられるこの娘が哀れでお母さんはいつも胸を打ったりされました。私は事実、人民学校を卒業して高等中学校に入学した時だけでも世の中がこのように不公平で苛酷なものだとそこまで知らなかったです。

 

 お母さんは、その時娘の小さいお腹ひとつを満たしてやることができないのがとても胸が痛くて、市場で小麦粉商売を始められましたよ。風が激しく吹く咸鏡道で小麦粉商売が言うほど容易なことではないということを私はよく知っていました。毎朝重い小麦粉布袋を頭に載せ、背負って市場に持ち出して売り、また小麦粉を譲り受けるために千里を拒まないで歩かれたし、寒い冬風が強く吹く日には小麦粉が飛んで行くかと思って全身がそのまま覆いになって守ったりされました。

 それで、お母さんは全身に白い小麦粉をかぶってどれが肉体でどれが物体なのか区別さえできなかったので、それこそ家族の生計のためにすべてのものをすっかりみな捧げられたお母さんの血が滲むような努力は熱い母性愛の絶頂でした。

 

 それでも分別がない私は毎日とうもろこしご飯が嫌いだと不平をいい、小麦粉焼きをしてくれと数十度しつこくねだったので一人しかいない娘に油焼き一つ正しく食べさせられないお母さんの心情はさぞかし大変だったのではないでしょうか!そのように努められたお母さんはついに苦難の行軍時期に結核という病気にかかって、商売もたたんでばく大な借金の上にとどまるようになられましたよ。毎日のように家に押しかけて借金を返せと困惑しながら家産を奪って行ったその人々を考えると、今でも鳥肌が立ちます。すでに傾いた暮らし向きはお母さんにただ一度の治療機会も与えなかったし、お母さんは結局険悪な天地に身寄りのない私をたった独りで残して亡くなられました。

 

 淋しく残された私は生きる道がはるかに遠くて母方のおじの家を訪ねて行きましたが、おじのお母さんは「私たちも生活が苦しいから、どうにかして平壌に行ってみなさい」と言いながらお金200ウォンを手に握らせて下さいました。その時期の200ウォン(韓国お金2000ウォン程度)は私には本当に大きいお金でした。その金をしっかり掴み取って平壌行き列車の踏み台に蹲って座り、5日ぶりに平壌に到着しました。列車から抜け降りて出て駅舎に入ってくると、私たちの故郷である会寧よりは少しより良くなったものの、飢えて気が抜けた人々がみずぼらしい服をかけて長い椅子に秩序なしに横になっているのはみな同じでした。12月の寒い天気に私は夏服姿で通りに出て人々に物乞いと袖乞いの手助けをしました。

 

 ある日、人々がたくさん出入りする所を探して入っていったことがありましたが、食べ物、着るものがまさにあふれ出る外貨商店という所でした。持つもののない私にはあらゆるものがうっとりして、それらの一部だけでも持ちたかったです。それで、持っているように見えるおじさんのそばに行ってお金をまんまと盗みました。幼い時から市場を戦々恐々としながら習った手並みが役に立ったようです。商店の外に出て数えてみると、外貨と兌換券50ウォンでした。(韓国貨25千ウォン程度)私はそのお金でパンと飲み物を買っておき、平壌駅舎内に入っておいしく食べました。とても久しぶりに食べ物らしい食べ物を食べてみるので全天地を得たように気分が浮かび上がりました。しかし私のこのような行動は長続きできませんでした。

 

 その後商店に入って、またスリをして見つけられて鞭で思い切り打たれ、安全部に捕えられることになったためです。そこで私は少年教化所に送られて一日中組織生活と偉大性学習に苦しめられなければなりませんでした。それがとても嫌いで夜にこっそりと逃亡して、平壌市を歩き回りながら拾って食べ、盗んだりしながら泥棒猫のように1ヶ月を送りました。

 

 そのようにしていた1996年、大寒の厳酷な寒さに正しく食べることも、着ることもできなかった私はバス停留場で寒さに震えて疲れて寝ついてしまいましたが、気を取り戻して見ると、あるこじんまりした家の分厚いふとんに包まれていました。市場に行きながら倒れた私を見たあるお母さんが、戻る時までも横になっている私が凍って死ぬかと思って自分の家に移して凍った体を溶かしてくれて、軽く食事をさせ、病院からお医者さんを頼んで治療までしてくださった。

 

 その有難いお母さんは私を家で眠らせてくれ、食べさせてくれ、かわいそうな私を養女として受けて下さいました。継父は私が病院で体系的な検診と必要な治療を確かに受けることができるようにして下さったし、背が低いと言って、背が高くなる薬や色々な精力剤まで用意しながら実子のようによく世話して下さいました。

 

 お母さん、お父さんもおわかりのように、幼い時から体格が小さかった私は13才になっても身長が137cmにしかなりませんでしたし、おかゆだけやっと食べて過ごしていたので、お腹だけが膨らむように出ていて、慢性肝炎まで抱えている状態でした。お医者さんたちは典型的な栄養失調といいました。その方たちには実の息子2人がいましたが、息子たちに私を蔑視してはいけないといつも話され、中退した学校の勉強もするようにしてくれました。

 

 世知辛いこの世の中に人情が厚い人々が存在することに全く驚きながらも、余りにも分別のなかった私は、継父継母の愛をついに裏切ってしまいました。私は学校に行かなくて継父の財布からお金を盗み出して、不良な男子学生たちと交わりながら一週間無為徒食しました。結局このことで私は養父母とそれ以上いっしょに暮らすことができなくなり、また故郷に下りて行くことになりました。今になって考えてみると、転がり落ちてきた福を自ら蹴ってしまった、狂った行動でした。そのように感謝する方々に及ぼした罪が今でも匕首のように打ち込まれ、この心を痛くします。

 

 私はその後窃盗とスリとしても生きることができず、善意と良心だけではそれ以上生きることができない故郷に背を向け、友人といっしょに豆満江を渡り、北朝鮮と中国での疲れる人生に終止符を打って希望の土地、真の人生の現場大韓民国にきました。私ははじめてここ大韓民国にきて過去を、後ろを振り返る余裕を持つようになって、体も心も精神も新しく誕生させる意志を整える余裕も持てるようになってきました。

 

 全てのものの自由が一度に訪ねてくるので欲望もまた恐ろしく私を立て直しました。それでコンピュータと外国語学校をはじめとする色々な学校で本当に熱心に勉強しました。このとき、全人間の真の情熱が素晴らしい環境の中ではその限界がないということを真理として体得しました。発展した資本主義市場経済とともに生きながら、知らずには、努力せずには、名誉も富も何も得ることができないということを遅すぎるが胸のしびれるように体験した私なので、いつも全てのものに最善を尽くし、この社会の堂々とした一員として位置を占めるだろうというのが私の固い決心でもあります。

 

 愛するお父さん、お母さん今日は本当にご両親のことを切実に思っています。胸中で立てた成功の次の目標を達成した後、また手紙を書きます。この娘の成功的な未来を変わりなしに祝福して下さるお父さん、お母さんの愛がいつも私を前に催促していて、少しも躊躇することなく跳躍の踏み台のために走って、走るのです。

 

 深くしみるようになつかしいお父さん、お母さん

 どうかあらゆる悩みをみな忘れて平安の中にいらっしゃって下さい

 お父さん、お母さんの霊前に謹んで有名なお辞儀を申し上げます

2006824

遠く南側からご両親を偲びながらチョンシム 拝


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