<第37の手紙>
チョルジュン同志にこの文を申し上げます
チョン・ヨンソク
チョルジュン同志!
同志の名前をひそかに呼んでみたら、流れた10年歳月が走馬灯のように通り過ぎます。
多くは生きられなくても私の生涯で最も難しい時期、一寸の前も見通すことができなかった試練の連続だったその時期、私は私自身より同志をさらに信じたし、血縁人情を感じた本当のお兄さんのように私の信頼できる保護者で、革命同志でいつもいっしょにいた同志を私は心臓の鼓動が止まる限り永遠に忘れないでしょう。
この手紙で冒頭に同志と書いたが私はその時期いつも”お兄さん、お兄さん”したようにヒお兄さんと呼びます。
お兄さん!
血縁一点ない北方の炭鉱の村に<民族反逆者家族>として追い詰められて追放されてきた私たちの家族の前には全てのものが恐ろしかったし希望の光とは一切れの糸ほどもなかったです。大きいお兄さんが韓国行を先に選んだ結果、私たち家族皆はあっという間に≪革命家遺族≫から≪民族反逆者家族≫に変わり、吹雪が猛威を振るって一寸の前も識別しにくい1月初めに北方のそちらに行って追放されて横になれば空が望め、脚を伸ばすと、足がかごの屋根の中に入る倒れて行くあばらやに若干の引越荷物を解いて置きます
軍労働課で配置してくれた紙工場に行って初めてお兄さんに会いましたよ。お兄さんはその時生産班班長であったし青年同盟秘書だったんですよ。
軍で除隊した人としてその気迫が全身にざあざああふれ出て不正に対しては厘毛も容認しない本当の話で全てのものが兼ね備えた初級指揮官でした。
すべての従業員が私を反動のように感じながら情を与えなくて、警戒心高い視線で眺めていることを私は全身で感じましたがそれをどこに哀訴する方法がなかったです。万景台革命学院を卒業して戦闘飛行機の操縦士で今しがた位置づけをした私は空をゴウゴウ飛ぶ「鷹」になるものと思ったのにこのように一日朝に「紙屑」を選別して再生させることをするようになった時あまりにも過酷な運命の前で再び立ち上がる勇気さえなかったです。
仕事を始めてから数日後退勤時間にお兄さんは私に近寄ってきて凍りさく烈してはれ上がった私の手を必ず握って“ソク!男、大丈夫が何の格好だ。がんばれ!ここも人が生きる所なんだよ、これからやり直せ。熱心に仕事をすれば党では君を認めるだろう。しんどければ私のところに来なさい。”としながら砂漠のオアシスのように私に人生に対する勇気を抱かせましたよ。それと共にお兄さんは公の席では班長と呼び、私席ではお兄さんと呼べといいながら親血縁の情を抱かせてくれましたよ。
お兄さん!その時冬はなぜそんなに寒かったのかです。
山に登って紙原料として使う木を切って工場の後垣根の中に積み上げて警備員らがずっと守るようにしましたよ。ところで工場幹部らは自分薦めた通り上部の親戚に無作為で担いであげてそちら土着民と違った友人らやはり警備当番順序になれば自分の什物件のように運んで行きました。
私も警備員の任務を遂行しながら木幾つかの区切りを持っていったのに、ある日高く積んでおいた木が切れ端になるや党秘書と支配人はあたかも自分らはあまりにも潔白なようにぎゃあぎゃあ大声を張り上げながら'盗賊奴'を捜し出せとかんかんに暴れましたよ。
その'盗賊奴'の文太陽が丸ごと私に集めて来て、'幹部様'らは私を工場正門柱に荒縄で縛っておいて“こいつは民族反逆者種子なのにそこに盗賊のまねまでしたので容赦せず順番のとおり帰りながら力いっぱい殴れ”と指示しました。
すると同僚らは私をさっと押し退けながら過ぎ去ったしまた彼らは大声を張り上げながら力いっぱい殴る示範動作までしましたよ。
この時お兄さんが前に立ち上がって“この木を持っていった人は皆の前に出てこい、私から持っていったの…”すると従業員全体が前に出たし'幹部様'らはついに班長のお兄さんに“どこ、党生活総和で見よう!”と大声を上げてはひき逃げのように部屋に入りましたよ。
その後お兄さんが党会議でたくさん批判を受けたのに私が尋ねるので“大丈夫、自分たちも持っていったのに彼らは私たちより10倍はもっと持って行ったの。だから私にどのように大声を上げるの?”と話すお兄さんをながめながら私は心の中で男涙を流しました。
平壌で出てうらやましいことなしで育った私は体力的に工場で一番上であったし彼に合うように重労働の難しいことを工場では皆私に任せましたよ。
ただ熱心に働く権利しかなくてからだがつぶれるようにことをしたこと今年同僚らとお兄さんはあまりにもよく分かるのでその後で'郡市道庁委員長'表彰に私を推薦しましたよ。
あまりにも比重が低い表彰でまたその時当時党秘書がなくて青年同盟秘書のお兄さんが独断で私を推薦したのに運が良くもその表彰が降りてきました、
その時だけ党秘書がその事実を知って憤って“誰がこういう民族反逆者に表彰をやれといったの。すぐに郡に還元しなさい。”と悪口をしましたよ。
お兄さんはあまりにも情けないがその前では分かると答えておいてその日気持ちに我が家にきて“ソク!同盟員らの前で君に与えようとしたのに・・・それでこそ彼らも君に良く持て成すことだと信じたのに…”といいながらその理由を話して私に郡市道庁委員長表彰を渡しましたよ。
それよりさらに高い表彰を数えきれない程受けた私だったが私もその時お兄さんのその心があまりにもありがたくて深い箱の中に入れておいて私たちがそちらを離れる時には焼却してしまいました・・・
私たちが行った後我が家家宅捜索をすることでそれが発覚すればお兄さんに迷惑をかけるかと思って。
本当に大変な歳月だったがお兄さんは私を実の弟のように愛してくれたし私はその愛と信頼があまりにもありがたくて私の一体を投げながらさせることに最善を尽くしてきました。
お兄さん!本当に有難くてまたありがとうございます。
私たちが長兄様が送った人便についてそちらを離れようとしていたことが事前に発覚して二番目お兄さんは軍保衛部に出てきてお母さんは村保衛部に逮捕されてあくどい悪口と殴打にあうのをお兄さんは自分の小さな肉を切り取って出すように痛く感じたでしょう。
隣人たちの助けで保衛部鉄窓を出てきてお兄さんは私と私のお母さんを連れて訳もなく豆満江麓に出てきましたよ・
二番目兄が逮捕されたので自身は行かないとこらえる私のお母さんを私の背中に無理に背負われてくれながら“お母さん!お母さんはここにいてもいなくても、二番目兄は私たちのそばにこれません。我々の党がどんな党ですか?お母さん!必ずお元気で。そして生きておられなければなりません。統一された後必ず会いましょう。”といわれたお兄さんの二つの目には悲壮な覚悟と血まめができた涙が流れて来るのをを私ははっきり見ました。
韓国行につながる私たちの運命を明らかに分かりながら私たちを最後まで助けたお兄さん!
万一その事実が知らされれば私たちよりきびしい処罰を受けるということをよく分かりながら正義感と義理に燃えるお兄さんは全てのものを覚悟して私たちを助けましたよ。
その道から10余年という歳月が流れました。
私たちの後でそちらを離れてこちらに来た人々を通してお兄さんがその後1ケ月程度保衛部調査を受けたが最後までこらえて無嫌疑で処理されたことを聞いては私たちはどれくらい喜んだのか知らないです。
今私は韓国で何の心配がなしで住んでいます。
一流大学を卒業して大きくない店を運営しており結婚もしたしきれいな娘も一つ置きました。
お母さんはお兄さんの話をしばしばします。
“チョルジュンの妻がとても病むといったのに…家族皆が飢えることはないのか・・・”色々と激情したりのます。
こちら生活の豊かだということに対して話すこと自体が、飢えと寒さに震えて全てのものにしばられて生きるお兄さんに伝えるということ自体が罪深いくさえあります。
お兄さん!
必ず会いましょう。お元気で。
兄スニムと娘ミョンスンにこの叔父の挨拶を伝えて下さい。
2007年6月13日
ソウルで