<第36の手紙>

私と同伴者の道で

友情をわかちあったチュ先生に

ハン・キナム  

 

 その名前呼んで呼んでも返事ないチュ先生!無情な歳月はとめどなく過ぎ去っても一度結ばれた友情は永遠に変わらないようです。いつのまにか歳月は流れ流れてチュ先生と別れたのも遥かな遠い昔のように記憶がよみがえっても忘れない美しい思い出は今も目の前にありありと浮び上がったりします。

 

 今も時々過ぎた日を再確認してみる時ごとに私の心の片隅には先生に私がしてあげることのできないことがあまりにも残念で、後悔しても何の意味があろうかとだけ、それがなんだか心にかかって自責感に捕われる時が12度ではありませんでした。先生は私と共に後代教育事業に体をのめり込ませてから、人に知られることなく、互いに心が通じて悪いこともよいことも区別せず、重労働の困難で辛い時ごとに、互いに激励と慰労を惜しみなく分け合いながら、遭遇する難関を賢く克服していくことができましたね?

 

 すでに過ぎ去ったことですが、今も私の脳裏に消すことができない一事だけは必ず再確認してみない訳には行きません。私がある1単位の細胞秘書としての職責を遂行している時のことです。

 先生は、その時私が責任を負う党細胞に所属して活動していらっしゃいましたね?先生は教員として資質も高く、教育者として備えなければならない品格も十分に備えておられました。しかし、先生は労働党員の名誉を得ることができず、職場同盟組織において取るに足りない人としての待遇を受け、いつも他人に萎縮し、胸を開いて活動することがおできになりませんでした。

 これを私は近くで見ていながらも先生の願いを解いてあげることができないのは私の責任だと考えました。私は、その時先生が話はされなくてもこの問題を抱え、深く悩みながら胸を痛めていらっしゃることを正確に診断してみました。私ももうこれ以上このことを知らないふりをすることはできませんでした。私は初級党組織を訪れて先生の入党問題に対して建議し、必要な対策も立たせ、解決する決心でした。

 私はその時先生と会って先生の切ない心情を深く理解し、この問題を必ず解決することを誓いました。もちろんこの問題は容易な問題ではありませんでした。問題は、入党条件として第一となる政治的表徴でした。言い換えれば、家庭周囲環境を優先して見て、これを基本として人々を評価して、抱摂し、又は排斥するのが労働党の政策でした。彼がいくら賢明で、仕事の能力があってもそれは後まわしにされ、使い道なしに捨てられました。

 先生の場合がまさにこれに該当する場合でした。それは先生もご存じのように625戦争(訳注:朝鮮戦争)時の、先生の岳父の誤った不満多い経歴が主な原因でした。岳父は195010月故郷の平安北道先天に国軍が進撃した時、太極旗を手に持ち、率先して国軍を歓迎し、村に治安隊を組織して共産政権下で熱誠的に働いた人々を弾圧するのにも加担しました。

 

 これが先生の住民登録文書に常に荷札として付いていました。一方、党では人々を評価するにあたり、今の行動を基本として本人が現在労働党の政策を聞き入れ、忠実に仕事をする者は大胆に党に受け入れろという原則も出しました。しかしこれをどの程度の基準で見て、評価するかというのは分からないのでした。私はその時、そのような内容の党の意図を先生に知らせながら信心と勇気を持って仕事をしていくことを勧告したりもしました。

 

 その時先生は、私の説得に多少慰められたように、引き受けた任務遂行において革新の花火が起き始めましたよ。先生は昼夜を問わず努力され、驚くべき成果が起き始めましたよ。本当に先生のすべての活動は私たちの細胞の自慢であり、学校の誇りでもありました。

 

 私はこの良い成果を持って細胞内の教員たちの中で広く紹介宣伝し、肯定として打ち出したりもしました。私は仕事がこのように熟して行く頃、初級党組織に提案して先生の入党文書を作成し、上級党に提出することができました。これが先生に私ができる能力の全部でした。私のができる能力がせいぜいこれだけなのが残念なだけでした。

 

 その後私はこのことが必ずうまく行くことを待ちこがれながら心の底から指折り数えて待ちに待ちました。しかし数ヶ月後入党文書は否決されたという通知を受けました。私はこれ以上先生に慰労の話をすることさえできませんでした。その時の残念に思う私の心情を先生も充分に理解してくださるだろうと思いました。先生はこのことでしばらく沈鬱な状態に陥り、生活において活力を失っていかれつつあり、先生の陰った顔には心配だけがぎっしり埋まりました。

 

 のみならず先生はこれによって家庭不和を起こし、先生の奥様まで私を訪ねて来られ、残念な理由を打ち明けもしました。しかし先生はこれに止まらず、離婚問題まで提起して党組織に訴えたりもされました。かわいそうな妻と子供たちに何の罪があってこのような災難を受けなければならないというのですか?これがまさに分断がもたらした民族のもう一つの悲劇なのです。

 

 私はその時、先生に座っていただき、夜遅くまでお互いに理解と譲歩を前面に出し、この問題を解決することの誓いを受けたりもしました。本当に残念だった心痛む理由は閉鎖された北朝鮮社会だけで見られる奇異な現象でした。

 

 家庭周囲環境が複雑だからといって人間の初歩的な人格が無慈悲に踏みにじられ、生きる意欲も喪失したまま無条件に統治者に盲従しなければならない社会主義体制はもうこれ以上、世の中に存在する理由がありません。

 

 もうこれ以上人を思想と理念にだけに絡め、担ぎおくことなく、互いに和解し、協力して南北が力を合わせ統一の道を早めるべきです。

 

 チュ先生!私は今、大韓民国の暖かいふところに抱かれ、自由と平等を思いきり享受しながら何の憂いも心配もなく生きています。もちろん先生も昔も今もお変わりなく、引き受けられた任務に忠実だろうと思いす。私たちは今お互い遠く離れていても心だけは以前のように固い友情を深く大事に保管して、思想と理念の障壁を越えて統一の喜びをいっぱいに受け、抱いてまた会うその日まで健康に過ごすことを約束します。

2008429


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