<第34の手紙>

友人ヨンスクに

シン・クムラン

 

 ヨンスク!その間元気だったか?

 私たち別れたのもいつのまに10年という歳月が流れたんだなあ。

 10年であるなら山川が変わるのに私もたくさん老いたの…君やはりどのように住んでいるのか、私たちが別れる時は36才であったのに君の子供たちクムジュ、ナムチョル、ウンジュも大きくなっただろう。

 

 君のお母さん君たちの家にきて3日をいる時君が泣きながら“お母さん私たち家に今はこないで下さい。私も子供たち三人を食べさせて生かすのに忙しいです”とした考えが私はいつも忘れられられなくて、どれくらい食べることがなければ実家お母さんくるのも引き止めるそのような歳月なの。その時は私もその話を聞いて本当にあまりにも生活が難しいから両親間にも情がなくなるんだなと考えたのに、中国にきてもずっと町内の人々と親戚らにお前らとお隣りに生きながらあったことを話したんだ。

 

 君の弟と兄さんがテレビを盗んで監獄に捕らえられて苦労を多くして出てきてまた3ケ月ぶりに牛盗賊で監獄に行ったじゃないか、その時いっしょに入ったチャンホ家の兄弟もみな死んだという。君はその時セッピョルに行っていて君の弟と兄さんの便りだけ分かったがチャンホ家の兄弟とウナのお父さんもみな監獄で死んだという。

 

 そして私が後にその村をまた行ってみたら、町内にキョンホ家しかないね、それでキョンホのお母さんに君の便りを尋ねたら知らないって言ったよ、私たちは泣きながら別れたんだ。キョンホお母さんも覚えてるの?君たちのウンジュがとてもお腹がすいていて豆腐を手でかみ切って食べたと盗賊奴だとぎゃあぎゃあ声を出して大騒ぎをしたことをだけど、キョンホのお母さんがその時その声も言ったよ、みな別れて見ると自分が度が過ぎたという気がすると・・・とにかく私がその町内に荷物のために行ったけど、3家だけがあり、全町内ががらんと空いてたよ。

 

 私たちのクムチョル、ミョンスンもずっと“私たちのお隣りクムジュ家はどのように住んでいるのか”といいながらまだ忘れなくて、私も君を忘れることができないのに私達の子供たちは真っ最中幼い年齢7才、9才、幼稚に文句だけ起こす時だから思い出も多いだろう。

 

 ああ、本当に、そしてクムチョルのこと、ナムチョルとクムジュ、クムチョルミョンスンがDaeHongDanでトウモロコシ盗賊をして1麻袋しておいたのに君たちのクムジュのために警備員に見つけられてみな奪われたとして話をするのに小説に属した場面みたいだったの。

 

 私がDaeHongDanに入っていた3日間子供たちがお腹が空いて考え出したのがお母さんに隠れてトウモロコシ畑に行って泥棒して、豆満江辺に引っ張って降りてきて川辺に座ってトウモロコシ粒を一粒一粒パルクしたものよ。そのようにしたのがほとんど二つのリュックサックを満たしたって。

 

 子供たちはそこでトウモロコシを焼いて寝て翌日にはまた畑に上がって行ってトウモロコシを取っておいて豆満江辺に降りてきて、こうしながら3日を豆満江辺で住んだところで問題はトウモロコシ皮を豆満江で流れて送ったら痕跡がないですが子供たちが分別がないから、自分たちが寝る場所にきちんと積んだんだ。

 

 農場警備員らがあまりにも小さい子供たちがトウモロコシ畑で豆満江側で行き来するから感づいて豆満江麓に降りてきたのにトウモロコシ皮がおびただしく積まれているから発覚になったとかそれで分駐所に子供たち4人がみな引きずられて行って子供たちはオンオン泣いたといったよ。

 

 トウモロコシを手で一粒二粒パルグするのがどれくらい大変だったのか指から血が流れる程度だったが、それでもリュックサックにトウモロコシが摘まれる面白味に子供たちは痛いとも大変とも知らなかったといったよ。そのように単に何日ぶりにも食べられるという希望をかけて努めたすべての努力が瞬く間に水の泡になってしまったので真に子供たちが号泣したって。

 

 フンアム分駐所に捕えられて入ったのに安全員らも子供たちに悪口もできなくて“おまえたち、このトウモロコシを指でパルグし、2つのリュックサックを満たすのに苦労が多かっただろう”としてため息だけ休んでどのように子供たちを処理するべきか決断を下すことができなかったって。

 

 私が商売終えて小麦米を持ってきたよ。ところで君の子供たちとうちの子らがソレンイにパルグしたトウモロコシ粒を推し量っていたことです。

 

 私はなかったトウモロコシがあるのでなぜかけるのか尋ねたところ、子供たちが私にひどい目にあうかと思って言えなくて嘘をついたよ。

 自らの家が農場警備員に行って酒を与えるところとかトウモロコシをくれと借りたんだ。それで得たトウモロコシとして・・・

 

 家にあった酒を売って長く私は本物と知っていたのに中国にきてクムチョルが率直に打ち明けたよ。私はその話を聞きながら泣きもし、一方では子供たちが立派で子供たちになぜそうしたか悪口もでなかったよ。

 本当に幼い子供たちも生きるべきだとの強い意志があるとのことをまた目覚めて感じた。

 

 ヨンスク、君の子供たちとうちの子らが本当に賢かっただろうか?お前らも夫がなかったし私たちも夫がなかったんですよ、二家族の子供たちがみなお父さんいない子供たちだとそうなのか、幼いころから生活力が強くてお母さんの言葉もよく聞いたじゃないの。

 

 ヨンスク、私たち住んでいた家一列が皆未亡人町内だったじゃないの思い出せる?キョンホの家だけ夫がいてお前らからチャンホ家まで皆未亡人家であってそして私たちの職場みな殴って片づけて黄海道評山にカエル売りにいったこと思い出せる?初めて商売するのはとてもたくさん儲けたのにその後お母さんの家にきて中国に密輸をするようになったよ。

 

 その時君の考えがたくさん出たよ。数年をお隣りで生きながら子供たちも共に育って君と私が協議して商売も共にして山に木するのもいっしょに行ってほとんどすべての生活を共にするようにしたではないか。

 

 その時は中国密輸する時も君の考えを出したが不法だと君を探すことができないことが私は密輸をして監獄に捕えられて苦労もよくして2回目監獄に行くようになって中国で初めて脱北をしてしまったことだったよ。

 

 一度は君が我が家にきてうちの子らが人情がないと悪口を言ったではないか。

 その時君があまりにも泣きながらうちの子らが強くてクムジュとナムチョルを道端に離しておいたと悪口をするのでどんなに申し訳なかったのか…私も君たちの子供たちが哀れだという気がしたの。

 

 訳もなく私たちのクムチョル、ミョンスンアルルこらしめたのに歳月が流れ行きながら子らがその時話をし、子供たちどうし自分たちおばあさん家に行って夜になると、橋の下で寝て夜明けに起きたのに突然クムジュが“私は君のおばあさん家に行かない”告げたんだ。ですからナムチョルが泣いたって。腹は空いて行くところがないからクムチョルがナムチョルを泣くと運が悪いと殴ったんだ。それでクムジュとナムチョルが振り返って家にきたのだって。

 

 今見れば子供たちが分別がなければその遠い道を時々互いにけんかと分かれたことだろう。クムジュお母さんと私との過ぎた思い出は君たちの家の子らと我が家の子供たちの思い出だ。

 私よりうちの子らがその時期君たちといた話をさらに多く記憶して出すのだ。

 おそらく一番育った時期に体験した苦労だと忘れられないみたいだ。

 その子らが今は全員育って10年前の話をしながら笑って、騒ぐ時ならば私は君が今どこにあるかいつも気になるんだ。

 

 私たちが引き続き同じ行動をしたら今ここにいっしょにいられるのに、私たちのお互いの道が違うから別れる方法以外に・・・永遠に消せない辛い思い出・・・号泣が出るほどに胸が痛い私達の子供たちの幼い時期の思い出・・・どのように見ればそれなりに大切なものなどは泥棒をした、けんかをした、橋の下で寝た、豆満江辺で3日を食べて寝ながら住んだ、みな子供たち自ら住むための闘争だったと考えて。

 

 飢えて死んでいく百姓を惜しがらないで政治だけ前面に出す国だからすべての国民ら、子供たちから大人たちまで泥棒奴で密輸犯で国家がそのように作っていることじゃないの。この韓国社会のように文明的な国で私たちも住んだならばなぜ子供たちがそのような道を歩くよ。

 

 私は子供たちがその中でも生き残ったのが立派だと常に考えたら君たちの子供たちもその時のように強く生きて行くものと信じる。

 

 クムジュのお母さん君もその社会と決別してはやくここにきたらいくら良いだろうか。

 私と君の対面も良いが子供たちはどれくらい好きなの-

 ヨンスク!今日手紙はこれくらいにして書こうとする。

 前に会う日が必ずあるだろうと信じながら対面の日までからだ健康であるのを望む。

 また子供たちも無事に育つだろうと信じて。

 クムジュ、ナムチョル、ウンジュ皆さようなら。

韓国からおばさんが


目次に戻る