<第32の手紙>

ヨンヒに

イ・チョルジン

 

 ヨンヒ!今も私の名前を記憶しているのか・・・

 

 私は時々ヨンヒくらいの年頃の娘たちを見るときは今頃ヨンヒはどのように変わったのだろうか、堂々としているある家庭の主婦で、ある夫の妻で、可愛い子供たちのお母さんに変わったのだろうか?でなければ今の私みたいに将来に大ある大きな抱負を抱いて生きて行くのかなどたくさん考えるようになります。

 

 平壌市普通江辺のこじんまりしていたアパートで私たちは幼稚園から高等学校まで共に通っただろう。男女区別をできない程度に世間知らず幼稚園生の時から常に共に付いて歩いた。歳月と共に私たちは育ち、中学校の時からなのか私たちはよそよそしい間になっただろう。共に勉強した時期は思い出として残って、卒業する時お互いが宿題を弟(妹)らを通して伝達したその時期が今どれくらい懐かしいかわからないといいます。私が金策工業大学に行ってヨンヒは平壌軽工業大学に行って・・・私もヨンヒが互いに男を、女を見に通いながら私たちはますます距離が遠のいただろう。

 

 ヨンヒ、今私は世の中に向かって力強い挑戦をしていて。思いがけない状況で私たちの家族が平壌から山間辺境地に追放される時ヨンヒは私たち家族を涙で見送ってくれただろう。分かることも見ることもできない私のおじいさんの過去のためにくやしく収容所か違わない場所に去るとき、私は全世界を失ったようであった。

 

 しかしお父さんなしで私たちの兄弟らを血が滲むような努力で育てたお母さんを私が慰労して申し上げなければならないので熱心にすべての悲しみを胸の中深い所に埋めておいて男らしくおおらかであろうと努めながら平壌から未練なしで離れてきました。

 

 顧みれば平壌は私が臍帯を埋めたところで大学2学年まで私のすべての情が宿った所ではありません。その時うちのお母さん目では目水でない血膿が流れました。

 

 それほど党に忠実であったし党と首領のために1つの命をためらいなく捧げたお父さんの崇高な魂と意思が私たちの家族の家訓と見なされた所なので私たちはあまりにも大きい衝撃を受けました。

 

 しかし私は座り込むことができませんでした。億千万度死んでも必ず生きてお母様に親孝行してこのくやしい寃罪を晴らした後、この国の粋粋な働き手になろうと固く決心しました。

 私たちは山間辺境地に荷物を解き、翌日から私は鉄道線路班で、兄さんたちは農場で熱心に仕事をしたと。周辺の人々の視線が初めにはきれいでなかったけれど彼らも我が家理由を聞いては自分のことのように痛く感じたし真心で対してくれました。私たちはそちらでご先祖の''を血が滲むような努力で補償しようと他の人々が休む時にも粘り強く仕事をしました。平壌では見ることも聞くこともできなかった地方人民の生活はそれこそ戦闘でした。

 

 私が7才の時お母さんについて咸北道のある地方に遊びに行ってとうもろこしパンを見て'黄色いカステラ'と勘違いして一度口で噛んで“お母さん、このカステラはなぜこのようにまずいです?”と吐いてしまったたことがあるのにその日のそのとうもろこしパンがそれほど尊いものかをその時骨に凍みるほど感じました。

 

 ヨンヒ、ヨンヒは飢えて、病気にかかって死んだ人を見ましたか?私は童話の中世界とも同じ現実を直接目撃しました。どれくらいすさまじい人生の現場なのか私たちはそちらで生き残れなかったです。寝て起きれば誰かは誰かの家族はこっそりと豆満江を渡っていったし、また誰は時々捕まってきたといったし、ある日には捕まえて家族皆を荒縄で縛っておいて市街地を回るようにしながら民族反逆者らであるから憎悪せよと安全員らが宣伝するのも見ました。だから誰も彼らをまったく同情しなかったし同情することもできませんでした。

 

 いくら熱心に仕事をしても私たちを党では認めなかったしこういう世の中でこれ以上生きたくなくて結局は脱北を決心するようになりました。私たちのお隣りのおじさんとその家族とともに豆満江肉氷の塊中に全身を投げ出した者は瞬間生きて幸せな生活をするようになるという担保はないが最後の選択を絶対に後悔しないだろうと決心して家族皆が一つの塊になって必死の力で泳いで中国川辺に到着しました。

 

 その時から2年の間、国のない悲しみ、腹が空く苦労、時々刻々で襲撃してくる公安の追跡と北への送還の恐怖の中で、どの一日も足を伸ばして寝られなかったです。隣人たちの助けで中国の内陸地方に場所を得てそこで韓国企業に就職しました。運命とは真に不思議なものであり、私の兄さんはついにそこで北へ送還の罠にかかって咸北道に引きずられて行ったのにその後の便りを全く知らない。

 

 私は周辺の善良な人々の助けでモンゴルに徒歩行軍を始めたが、脱力と空腹等で最悪の状況に置かれるようになった時また再び救援の手助けに会って故郷を離れて8年ぶりに、そして北朝鮮土地を離れて2年ぶりに大韓民国のふところに抱かれるようになりました。

 

 初めて大韓民国の住民登録証を受けて握った日、私たちはこみあげて大きい悲しみに安心して思い切り泣きました。その間中断していた学業を継続して私はソウルで一流大学を首席(最優等)で卒業し、今日は中小企業の中堅幹部で位置づけをしました。お母さんも健康だがながくなくて七甲(ここでは古稀という。)を迎えることになるといいます。お母さんに孫、孫娘を贈り物に抱かれて申し上げなければならないがどうしてなのか、結婚というその単語はまだ私には昼間なま煮えに感じられます。恐らく置いてきた思い出があまりにも胸しびれるように残っていてでしょう。

 

 ヨンヒ、私はここで早く変遷する世界へ出て行く私たちの夢と希望を実現できる機会を持つようになるとは思いませんでした。

 

 ヨンヒ、ぜひ元気でいて。ヨンヒは常に楽天的で肯定的ですべての面で他の人々が羨むほどの美徳をみな備えてたじゃないの。

 

 そして私たち必ず会わなくちゃ。私たちのご両親がみな成し遂げられない統一念願を私たちの世代に必ず成し遂げ、願いをかなえて申し上げなくちゃ。その日のために健康に、さらに熱心に生きていきましょう。

 

 私たちが古い人で不利ウール遠い将来にも恥じることがなく彼らの先祖で残っているべきではありません。私だけがこのように幸せで豊かな環境に生きるということが本当に済みません。この私の心情を理解してくれるように願いながら、私たちのお互いが望むすべてのことらが期待以上で成就するのを祈りながら安らかに元気でいて。

ソウルから、チョルジンから


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