<第31の手紙>

両江道におられるおじさんに

コ・スッキ

 

 おじさんこんにちは。

 その間ご家族はご無事ですか。

 苦難の行軍時期別れて今になって便りを伝えるようになってすみません。スチョルとスジュも今はみな育っておとなになっただろうし姉さんはもちろんおばあさんになったでしょう。

 

 おじさん常に恐縮する心隠せない私の心ご存知ないです。私を詐欺師と考えられるでしょう。

 おじさんが中国に熊革と豚を売ってこいと与えたのにおじさんにその値段を申し上げることができなかったので申し訳ない心、常に持って生きています。その残念に思う心伝えようとこの手紙を書きます。

 

 私は熊革と豚肉を持ってテホンダンを去って家に来て、豚肉は町内でみな売って、熊革は翌日中国に持って行って高価で売ろうとしました。

 ところでその日明け方1時、お母さんの家で寝ているのに分駐所からきたのです。“コ・スッキいるかドアをあけろ”ドアを叩く声に出てみたところ分駐所警備指導員と王00という人が私を逮捕しにきたのです。

 その日の夜、私は分駐所にとらえられて入ったし、その日から一週間を拷問受けながら取り調べにあったのに、原因は私が中国に密輸をしたことのためでした。それで毎日自白書を書き、昼間には拷問を受けて凄じい一日一日を監獄で送るようになりました。

 

 中国から持ってきたテレビと米をみな奪われ、私がいなければ家にいる子供たちとお母さんが飢えて死ぬかと思って分駐所所長に事情を話しました。

 

 しかし法は事情をくんでくれるわけがないでしょう。法の通り調査をみな受ける時まで監獄の中での規律を守りながら長い長い夜を鉄窓内で徹夜しました。食事ごとに家で包んでくる弁当を食べたのに、家で包んでくる弁当は獣も食べられない青い草を煮て固めたもので目をあけては見ることができないほどのものでした。

 

 おじさん、おじさんはその時の私の心、私がどんな苦労と侮辱を受け、どれくらい残酷な拷問を勝ち抜いたのか想像もできないでしょう。5x5角材で容赦なく顔で、からだで、足で、頭と全部殴って行くのに分駐所長がする言葉が“腹が減って飢え死にしても家で静かに座って死ねということさ!・・・”

 

 私は批判書を書く時ごとに、'間違えました。社会主義を守ることも出来ない反逆者業を再びせず、党に忠実な人になります。”と誓いをし、本当に二度と国と国家を裏切ることをしないと、こういう監房生活を二度としないと強く強く誓いをしましたよ。監獄生活にあまりにも魂が抜けて立って間違ったといって再びこうしたことをしない何百回を中で決心をして一週間ぶりに出てきました。

 

 家にくると、お母さんと子供たちがとても目をあけて見ることのできない状態でした。お母さんは私が監獄から出れば子供たちと共に皆死んでしまおうと決心をしてアヘンをどこかで得ておいて私が出てくるのを待っていたのす。そういう話に私も同意をしました。これ以上子供たちとお母さんを食べさせて生かす力がなかったし再び法を怖かったからです。

 死ぬのが気楽だと考えたら恐ろしい考えもなかったです。

 

 ところで問題は子供たちが死なないとみな逃げることです。

 インスンはアヘンを持って逃げて外に投げて、インチョルは死なないとわあわあ泣きながら死のうとするならお母さんとおばあさんだけ死ねというのです。子供たちが死なないと発狂する姿を見るので、私も死ぬつもりを放棄するようになりました。私が死ぬことはやさしいがあの子供たちは孤児にならないか。どうにかまた気勢を出して生きてみて決心をして立ち上がりましたよ。家中の家族が死ぬ事を期待し、横になっていて3日ぶりにまた起きるので力がなくて置きあがって座れなかったです。

 

 お母さんはずっと横になっていたし、中国から持ってきた米を皆奪われたので家には穀物が一粒もなかったんですよ。本当にはるかに遠かったその日を再確認しますと今も涙が終わる間なしで流れます。

 その日夕方お母さんが熊革でも食べてみようといいながら沸かしました。額水のようなものを煮て飲みましたが私は目を開いては食べられなくて食べられませんでした。真っ黒な毛がずらっと覆った水をお母さんは飲むとしながら口で近づけることでした。私が熊革についた毛をボーに対し欠かして召し上がれというからお母さんがそのようにして飲んだことでした。子供たちと私は結局食べられないでお母さんだけ飲みました。

 

 それでおじさんが中国に売ってこいといった熊革はそのようになくなったことです。私が捕えられるなかで中国に売ることはさておきお母さんがとてもお腹がすいていればゆっくり煮て召し上がったのです。そのようにおじさんに私が詐欺師になりました。熊皮を売ってお金を持ってくるべきなのに家でお母さんが食べてしまったのでおじさんに持って行けなかったことです。

 

 それから私たちは3月の間を草で生きてきました。

 朝、山に登る時は味噌だけ持って行きます。

 私はおので松植木鉢をします。木を切って子供たちは山菜をはがして味噌に味見して。それも盛りが過ぎるので山菜がとうがたって食べることができなくなりました。

 

 その次からは畑に草を切って食べることにしてトウモロコシ畑に子供たちを連れて毎日草を切りに通いました。タンポポ、ウサギ草を毎日1麻袋ずつ掘って、塩水をおいて沸かしたりしました。それでも草も人々がとてもたくさんはがして行くのでトウモロコシ畑にも豆畑にも一つも残っていませんでした。草までなくなったのです・

 

 このように苦労して飢えながら3月を耐えて8月に結局春にはがした松植木鉢を持って再び中国に入るようになりました。

 本当に党でしろというというとおりにします堅く誓いをしたけれどお腹がすいていて死ぬ状況に達するのでその誓いも数ヶ月もちませんよ。

 結局は反逆の道をまた歩くようになりました。その時から私は猛活躍をするようになりました。“このまま死ねば私に英雄称号くれる人はいない。私の子を飢えて死なせ、私が国家からしろというとおりにすれば国家で私を立派だと称賛をするのか。まず食べて命を救われなければならない”という強い反発心が私をしてより一層心を固まるようにしました。

 私は中国で韓国放送を聞きながらこの国が未来がないという確信をするようになったし順次中国に対する幻想を持つようになりました・

 もう捕えられれば中国に飛ばなければ(逃亡しなければ)ならないという決心もして中国で住める準備も順次するようになりました。もし再び捕えられれば今は終末であるから脱北をする考えまでするようになったのです。

 

 そのようなうち、町内カン学がお父さんが分駐所に密告をして事件がさらに負けたし、私は家の前トウモロコシ畑に隠れて来た一日を送ってその日夜、中国で一人で脱北しました。その日も私は明け方5時に多くの米を持って朝鮮から越えてきたのに6時頃乗用車1台が新作路で我が家側に来るということでした。

 

 常に罪を犯して気をもみながら生きた私と“乗用車がなぜこっちにくるだろう。油がなくて一日中車1台通うのがないのにどういう乗用車がこの明け方に我が家側に来る”とする疑いを持ってまず私は家の前トウモロコシ畑で体を隠しました。

 

 いくら経たなくて本当に車らが我が家の前にきて止まると保衛指導員の声がしたのでした。'コ・スッキ、間ナ子の家だな。この開墾ナ子どこへ行ったのか”といいながらぎゃあぎゃあ大声を張り上げるから家にいた子供たちが引かれて出てわあわあ泣くのでした。私たちの子らも私がどこに隠れたかを本当に知らなかったんですよ。

 

 その日私を探すと国境警備隊を動員させてトウモロコシ畑、豆畑の間を隅々まで探したが私を捜し出すことができなかったんですよ。

 

 明け方に雨がチューチュー降り始めるので空に暗雲が漂って真っ黒で前が見られませんよ。空が私を助ける絶好の機会と考えながら私は同急にで少し少しずつ君の足一歩で這って豆満江辺まで行きました。あらゆる苦労あげく脱北するのに成功をしました。

 それから一月後子供たちまで連れてきて生きてるのか亡くなったのかも-・・・

 

 今は、流れても私はおじさんに借りた熊革のために常に心に敬遠します。おじさんが必ずこの文を見て私が詐欺を働こうとしたのでなく、途方もない苦労したということを理解して下さればと思います。

 

 そうなら私が夜にゆっくり寝るような心なんです。

 おじさんも難しい状況で生計に役に立つ。私に熊皮を任せたのを、10年が流れた今日まで便りがないからどれくらい私を恨まれるのか知っても余りあります。おじさんに我が家ある家庭のことでなく問題は韓半島がこれよりもっとの苦痛をあじわっているということです。

 

 おじさんのある家庭が私に詐欺にあってお金を何文失っても、その統に生命を失った人がどれくらい多いのかご存知であるでしょう。

 私も国を誤って選んだせいで北朝鮮で飢えて死んだ人も見て、また中国に売られて来て子を産んだが死んで女性も見て、韓国に来る道に監獄に捕えられて行って現在まで便りも分からず人々もとても多く生き生きした姿で記憶をしています。

 私たちは自分の国土地にきて新しい生活をしているけれどまだ中国誰も知らない土地であっちこっち売られて通う女性らも数えきれない程多くて脱北をして監獄に閉じ込められた人はまた如何に多いのですが。

 私たちの家族が韓国にくる時も22人がいっしょにきたのにその中で1通インチョルと私だけ生き残って、インスンをはじめとする20人はみな北朝鮮で捕えられましたよ。

 

 幸いインスンが年齢が幼くて命拾いに抜け出したが残り人々はインスンの話によれば監獄で死んだり新義州で保衛部に連れていったし、監獄にある間食べることもできなくて糞壺に詰まって畑に通って疲れて倒れることを安全員らが靴を履いた足でけって脚病身になった人も見たって。

 

 私は監獄内で私たちの同胞らが罪でない罪をかぶって人間以下の蔑視と迫害を受けながら拷問と虐待にあう姿を目の前に描いてみながら歯ぎしりしました。

 

 おじさんが私に熊の皮の値段を受けられなかったのはもちろん自分にも誤りがあるが、国が政治を間違うことで起きた事実だと考えなければならないことで、おじさんは私を嫌うのでなく今のその国政治をする金正日に怒りながら歯を震えて来た百姓がかたまって国の開放を実現してこそ個人の幸福と自由も得られるという事実をよく知っていなければなりません。

 

 今は私たちが分かれてから10年になりました。

 おじさん早く目覚めて北の政治制度を倒して南北統一を成し遂げてこそ次代、私たちの子供らにも平和にゆっくり暮らせる日を渡してくれるのではないですか。

 

 おじさん今は暗闇の中から目覚めて下さい。

 おじさんが国を統一させる統一英雄になって下さい。

 私ひとりを詐欺師だと嫌わずにより大きい怒りを持って金正日を嫌って政権をひっくり返すことに積極的に参加して一日も早く祖国統一を成し遂げるように戦って下さい。

 祖国が統一されて南と北が互いに往来するようになれば必ずDaeHongDanにお伺いするようにします。

 その時また話しましょう。

 おじさん理由はどうであれもう一度もう定める分けないという言葉を言いたいです。

 今日手紙はこれくらいにして書きます。

 おじさんに会う日まで、お体、お元気で。


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