<第3の手紙>

なつかしいお母さん

ピョン・チョンイル

 

 延吉にいらっしゃったおばさんからお母さんが病気で寝ついてお粥も思うように飲み込めないという便りを伝え聞きました。今は行きたくてもとうてい行くことができないところにまで来てしまった私たちの家族を後に置いてお母さんが病気で寝ておられたらどうしますか!

 5年前、私たちが家を出る時、お母さんは「生きていればいつか会えるのだから私の心配をせずに早く行きなさい」とおっしゃいましたね。大切にふところに抱いて育てたあなたの息子と嫁が無事に過ごしていて、孫と孫娘が自分の息子を育てる時より十倍さらに可愛くて、呼べば飛んで行くかと、後悔すれば爆発するかトダキ、私たちのソンジュ「6月に生れた仔牛」みたいだといって町中に自慢されたドンスが今はソウルで大学生になって大きくなっているのに、お母さんが身動きできなくて寝ているのでは、こちらにいる私たちはどのようにすればよいのでしょうか!

 

 お母さん、家族全員が家を出る日の夜、熱心に涙を耐えられながら望んでみたお母さんの姿を永遠に忘れることができません。いっしょに行こうという私たちに「おまえのお父さんのお墓がここにあるのに家を空けるわけにはいかない。おまえたちだけでも行きなさい。」とおっしゃった言葉の中にお母さんの深い意味が隠れているとは本当に知りませんでした。スンジョンに会ってお母さんが言ったという言葉を伝え聞いて胸を打ちました。

 「子供たちを見送りながら、後から追いついて並んで行きたい気持ちがなかったはずがないでしょう。危険な道中で自分が荷物になるかと心配して一人で残りました」という言葉に私たちの家族は一晩じゅう泣きました。胸が裂けるように痛いというのは、このようなことをいうのだと思いました。お母さんの胸に抱かれて育ち、今は子供を率いる父親になったのに、お母さんのことをこれほど知らなかったという罪悪感に本当に胸が張り裂けそうです。

 

 お母さん、なぜその時ついて来られなかったのですか?いくら危険な道でもいっしょに来られて、今そばにいらっしゃるならばこのように残念な気持ちにならないでしょう。そばに水一杯もさし上げる子供もいないまま部屋に一人で横になっておられるお母さんのことを思いながら生きていく遠方の息子の心の中もお考えにならなければなりませんでした。今は、こちらでいくら泣いてみても、足をばたばたさせながら呼んでみても、お母さんには何の役に立たないということを…。

 

 そしてお母さん!スンジョンをご存知ですね?お母さんがいつも挨拶をする明るい子と言って褒められた道の向かい側の薬局の家ナムチョルのお母さんスンジョンが多くの辛酸と苦難の末ここに来てした。ナムチョルのお父さんがそこで亡くなられて、どうすることもできなずにナムチョルといっしょに離れたのに、ナムチョルはまだ中国に残っていて、スンジョンだけがハナ院というところを出て新しいアパートに入居しましたが、翌日に中国朝鮮族の金貸したちが尋ねてきたということです。中国からこちらに来る時に貸した金を返さないと、中国にいるナムチョルをそっとしておかないという言葉に、政府がくれた補助金を硬貨まではたいて返したら、目の前はすっかり真っ暗でした。

 

 家を確保して一週間して、お隣りに住む方が仕事ができる食堂を案内してくれて、夕方から夜遅くまで仕事をしたら3万ウォンをくれたのです。このようにすれば生きて行けると思って翌日午後一人でバスに乗って前日仕事をした食堂に訪ねて行ったのに、仕事をした食堂を探すことができなくて、終日、この家、あの家探して彷徨いまわったけれど、今度は自分の家を探せなくなって、あちこち尋ね、明け方にやっと家にたどりついてドアを開けて入った瞬間、涙がどっとあふれて、子供のようにわあわあと声を出して一晩泣いたら心がちょっと落ちつくのです。

 

 しかし今は何の心配もなく生きています。心配だとすれば、お母さんが私たちのそばにいらっしゃらないことです。

 

 お母さん、私たちのためにも必ず完治しなければなりません。お母さんが席をけって立ち上がることがもう一度私たちにくださる最も大きい愛であり最大の祝福です。一日も早く健康を回復しなければなりません。だからお母さん!私たちは必ずまた会わなければなりません。

 

200683

ソウルで、あなたを最も愛する息子チョンイルが申し上げます。


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