<第25の手紙>

愛する叔母に

キム・ミヘ

 

 叔母、どのように過ごしておられるんですか?

 みんな、罪のないですか?

 家族は元気ですか?

 いとこらは学校よく通いますか?

 そちら平壌の経済はどうですか?

 それでも生きていくことはできるんです?

 相変らず一日儲けのために戦々恐々とされるんですか?

 

 私たちが韓国にきたとのことために安全部にしばしば呼ばれて往復し精神的な苦痛を受けているんですか?多くのことが気になって気が狂いそうです。それでも手紙送ることもできなくて、直接行って確認することもできず、なつかしい叔母の顔も見ることもできないからあまりにも悲しいですね。

 

 私、良く暮らしています。家族も元気です。ただし連絡が取れなくて心の苦労が多いです。あらゆる方法をみな取ってみても正確な消息は、聞こえてこないので、どうにか私が脚を伸ばしてゆっくりよく寝ることができます。それでも叔母よりは私がさらに心が安らかなようです。叔母といっしょに平壌市内に活動していたと思うと笑いが出ますね。その時は食べて生きるための戦闘であったので、今は思い出に残っているとは、歳月がたくさん流れたようです

 

 叔母と別れて遭えなくなってからいつのまにか10年になりますね。長い歳月の間私はたくさん育ったし、今は韓国という国に来て思い切り学び、食べ物を求めるのに生死をかけることもありません。そして考えの自由を持って自由に行動して、言葉で表現しながら、自身がしようと思うことを思いきりしながら人生を、生を楽しんでいます。しかし私はこのように気楽に人生を楽しむのに、叔母はそうでないようで、心が痛いです。

 本当に人生は誰も大言壮語できないことらしいです。どこの誰が私たちの家族が韓国という所に定着することで考えさえしたでしょうか。そしてブローカーをさせて韓国から中国を通じてお金を入れてたりもし、連絡を持ったりもするようになることだと想像でもしました。また将軍様の胸の中で忠誠をつくす生活を送らなければならない働き手らが、どうか国を裏切ることと考えました。

 

 やは衣食住が解決されないということは偉大でした。国境を越えさせ、帰郷する考えを持たなくさせ、世界に対する疑いの気持ちを持たせ、自由というものも渇望するようにしました。それで絶対足を置いてはいけない韓国までくるようになりましたね。明らかに北朝鮮に残された親しい人たちが苦難にあうということもよく分かりながら方向を変えることができませんでした。その代価で私たちの家族は今は自由を得たが、蔑視と迫害を受けていますね。どうしようもない選択であったと弁明をするべきだがそのまま理解してくださいとだけお願いしたいです。このような状況を予想することもせず故郷を去ったわけではないからです。

 

 身分のない佗びしさから、追われることから、異郷暮らしから抜け出さなくてはならなかったことが私たち家族の目標でした。それでも故郷にまた帰りたくありませんでした。また独裁者の国家に忠誠をつくさなければならないということは、考えただけでも地獄でした。叔母は理解するのが難しいでしょうが資本主義を知るようになればこれ以上、私が生まれ育った故郷であり、祖国であるといっても行きたくなくなります。いっそ異郷暮らしつらいといっても自由がある所に留まるのがより良いほどですから。人にとって自由というものは必須らしいです。自由ない人生は植物人間と同じでしょう。もちろん自由には責任が伴うがそれでも自由がよいです。

 

 中国で私は井戸の中カエルのような北朝鮮の外部を見るに至りました。今まで井戸の中だけで住んで見たら、表面の姿の我が国を見ることができないことでしょう。幸運にも忙しい国の経済事情が結局私を違う世界へ引き渡しましたね。視野を広めてくれて正しく見ることができようにしたのでしょう。それではなかったら南北が分断された以後で、私の祖先がそのように住んだように私もその手続きを踏んだでしょう。追われながら住むことはできませんでした。追われて見たら本意でなく嘘もついたし、自尊心捨てながら追従を震えなければならなかったし、人が人を信じることができそのような状況にまで成し遂げるようになりましたよ。

 そうなって見たらいくら世界を見るようになってもどんな意味があり、希望があります。それで結局は身分を持つために、知識を確保するために、世界をさらによく分かるために先進国ラインに属する南韓にくるようになったのでしょう。このように融通性ある所で世界を知るようになって内心自慢で、うれしいです。

 

 今はこのように韓国きてからも5年になってみると、北朝鮮での人生は私の人生の出発点で転換点で目標地であるようです。そして異郷暮らしは私を成熟させたようです。歳月が流れるのでそのときそのように涙あふれて大変だった人生が無駄になってはいないという考えを持つようになった。私の思春期時代の経験はお金でも買うことができない貴重なものです。その経験によって人生がより一層美しいようです。

 

 叔母さん、私、今まで経てきた人生に対して自負心を持っています。そしてその生が今後の人生に丈夫な根元になることだと信じています。叔母さん今ははたくさん骨を折られても耐えて下さい。苦労あげく楽しみが来るという言葉のように良いことが起きますから。頑張って下さい〜

 

 ふん・・・叔母と会って叔母の10年という時間の人生に対して聞きたいです。どんな仕事がどのように起きたかもとても気になります。連絡がついて会うことができるならば、ここに我が家に招きますね。我が家に来られてその間分けられなかった実感できる話を交わします。まだ叔母さんが名節ごとに送ってくれた、そのおいしいアメが懐かしいですね。そして平壌にある光復デパート地下食堂で食べた卵パンと、玉流館の麺とおかゆが私を叔母の家に招くようです。南北が互いに自由に往来する日がくれば、私たちのお互い躊躇せずに往来します。それではおい(めい)はおよそ十年間の私の話をここで終えますね。

 ご健康で必ずまた会うのを切実に望みます。

おい(めい)ミヘが


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