<第24の手紙>

なつかしいおい(めい)に送ります

キム・ホヨン  

 

 私たちが互いに別れたのも1年が足りない10年になったね。

 その間どのように過ごしている?政治的差別待遇と監視、飢えの中でおい(めい)をはじめとする家族皆がどれくらいかろうじて生きていくかはあまりにもよく知っているこの叔父だが特別な対策なしで歳月の流れのように年ばかりとって今は私も70をながめています。

 

 私たち家族がそちらを離れてきた直後そちらを去ってここに来た人便を通じて聞くので出てきて同い年だった大きいおい(めい)と二番目おい(めい)はすでに離れたしおい(めい)と末っ子テギョンだけ残ったようですね。この便りを聞いて私と私の息子たちはおい(めい)と従兄弟らを思いながらあまりにも胸が痛くて、一夜の睡眠も成し遂げられないで限りなく泣きました。

 

 解放前にカメラマンをしたとのことが罪となって君のお父さんは親日走狗で追われるようになったし、しかたなしに両親兄弟と幼い子供らをなじんだ故郷に残しておいて38度線を越えた。そのように韓国に来た君の父のために私たちはまた如何に多い政治的圧迫と差別待遇を受けましたか?いくら熱心に仕事をしても整えられるのがもっぱら一つ'越南者家族'は当然言葉なしに党に忠誠をつくすこと。そうしてこそ、この社会で生きるということだけではありませんでした。

 

 大きいおい(めい)が永遠に私たちのそばに戻ることができないというのでどれくらい胸が痛いのか分かりません。寡黙な性格、自分が引き受けた任務のためには生命までもためらいなく捧げた言葉がない彼を考えれば私たちの運命があまりにも過酷であることを骨身にしみるように感じます。

 

 00鉱山で作業班長をした大きいおい(めい)の英雄談は全鉱山に広く知られたが彼は目をとじる瞬間までも自らの願いを成就できなかった。

 鉱石を積み出した索道(荷物積んで運ぶケーブルカー)が鉄と綱が中間にかかりながらいつ切れるのか分からなかった危機一発の瞬間、山が数百メートル上でぶらりぶらり揺れる数十個の索道を見ながら静まっていたその瞬間、大きいおい(めい)は全鉱山従業員らと指揮官らの前で“私があの鉄ひもを連結させます。全部任務と考えて生産を正常化するようにします。私がもし生きて帰ってこられなければ・・・。”と次の言葉をつなぐことができないが“私を労働党員だと呼んで下さい。私の子供らを党員の息子、娘だと…。”そうしては大きいドラム缶の上のふたを離してそこに上がって他索道ひもを一尺一尺引っ張りながら事故地点まで向かって行った。

 高山地に冬だとその日によって風はどれくらい猛威を振るうのか大きいおい(めい)が乗ったドラム缶はあたかも空中曲芸をするようにあっちこっち風によってむやみに揺さぶりまくった。

 彼をながめる数多くの目らはあまりにも緊張したあげく心臓の声も止めるように虚空をさ迷っていた。大きいおい(めい)は最後を覚悟した者だったのでその任務を遂行して来た鉱山はまた生き返って正常化したが願いはついに実現されることができなかったんですよ、全鉱山が英雄とほめたが38度線を越えたお父さんのために“隠れた英雄”と接頭辞を前に付けてしまった。そんな大きいおい(めい)が、70才もならなくて重病にかかって死亡したというから本当にくやしい。これが私もおい(めい)らの準備された運命だった。

 私は、やはり30代後半までも労働党員になれなくてね。ところで私たちの運命がこのように180°に変わるだろうと想像人してみました。

 私の6等親の弟(妹)がけちをつけるところなしに体系的なのに加えあらゆる楽器はみな有能に扱ったのに人民軍協奏団に抜擢されて短小に私たちが今呼んでいる“勇進歌”を歌わなかったです。その曲は解放前我が校体育大会応援歌だったがその短小声を聞いた金日成の娘金ギョンヒが自分のお父さんに報告したしその曲を皆聞いた金日成は“アその歌は私たちが抗日遊撃隊をしながら歌った歌だ。その出処を分かってみなさい”故指示したし即時多くの中央党働き手らが私たちの村にきました。

 咸南道豊山郡00里住民世帯100余戸などで報告するや金日成がそちらには100人余りの祖国光復会会員らがいたし彼らはとてもよく戦ったとほめてついに来た故郷の村が革命戦跡地になったし住民全体が光復(解放)のために戦った闘士と彼の子供として席の交替をして私たちの一族にも革命家遺族という名誉を抱かせてくれることになった。しかしおい(めい)家は越南したお父さんのためにその栄誉も受けることができず、ずっと陰の中で生きた。私はそれでもチョンスが一歩遅れてついに大学教授で、後ほどには00大学の党秘書まで乗勝長駆(戦いに勝った余勢を駆っていっきに追い込むこと)だったんですよ。

 

 しかし、00大学を首席で卒業したおい(めい)を鉱山の技術革新組に入ったのを最上と考えるようになったのでどれくらいあきれたことです。

 それでもおい(めい)たちは有給党労務者になったこの叔父を大きい柱として誇りと感じただろう。“叔父、私たちはどうしても良いです。私たちには党秘書という叔父がいるのでどこに行っても臆しないでむしろ誇りとしています。”としながらこの叔父の話ならば前後区別しなくて100%受け入れただろう。おい(めい)らのその心が有難いことに先立ち私をとても痛くした。

 

 そして私も定年退職をしてこれ以上おい(めい)らに大きいしんばり棒にならず、そこにまっすぐ全国を飢餓と貧窮に追い込んだ1998年は再び私たちの家庭に大きな不幸を持ってきました。

 還暦を過ぎたこの叔父、党秘書までしていたこの叔父もしおれて食事をつないでからだがぶくぶくはれ上がっておい(めい)らは私たちの一族の柱が負けてはいけないと言いながら中国にある遠い親戚を探して離れろと私の背中を押しのけてくれた。

 私が行けば私たちの一族に再び大きい迫害が来ることを予想して迷っておい(めい)らは“叔父!それよりもっとひどい苦痛みな我慢してきた我々ではないですか?私たちは辛抱して生きるのに鍛練された人です。私たち心配事せずに叔父だけでも健康に長生きして下さい。また会うこともあるのではないですか”としながら一体の威嚇を耐え忍び、私を鴨緑江辺まで連れてきて案内員に任せた。

 

 私はその時私の精神ではありませんでした。何の精神で私が案内員に引きずられて川を渡ったか知らないです。

 私のその時考えに、はやい期間内に中国親戚の家に行っていくらかの経済的助けを受ければ必ず私の故郷へ帰るだろうと決心しました。

 ところでどうして私たちの運命はこれほどまでにも苛酷ですよ。

 私が中国に到着して解放後で38度線を越えたお兄さんとおい(めい)らが私を訪ねてくるという連絡がきました。一日,二日待つということが2ケ月になったし私は中国でお兄さんとおい(めい)に会いました。おい(めい)のお父さんと弟(妹)らのことです。

 ところで私に見られなかった北朝鮮保衛部監視網がいたった減って分かりました。故郷へ帰ろうと隠れたのに私の息子テソクが中国にきていう言葉が“保衛部でお父さんを直ちに捉えてこいと指示したそうです。”原因はすなわち韓国の人である兄とおい(めい)に会ったのが罪になったとのことです。

 捕えられて数多くの弟子らと同僚らの前で犬死させられることには、いっそお兄さんがいる韓国で行くことに決心を固めました。

 

 しかし韓国行やはり険しい路程でした。

 テソクといっしょに再び戻れない苦難を後に置いて韓国に向かってモンゴル土地に入りました。四方振り返っても垂涎した砂漠だけが故火日差しに全身が乗るようでした。水一服もなくて私たちが行く周囲には人の骨なのか獣の骨なのか骨大量だけありました。

 すぐ還暦を越えた私はこれ以上肉身が私の話を聞かなかったです。

 することができなく私はテソクに“君は若かったのではやく行け。君が生きていくことさえできるならば後日にもこのお父さんがモンゴル砂漠で韓国にこようとしたが名前がなく死んだと話してくれ”としながら嫌いだという息子のなどを押しのけました。テソクは非情な覚悟を持って訳もなく走って真に運が良くネモンゴルの人々に会ったし彼らに一定の金額を与えてまた私を連れにきました。私が気をつけたことはあるモンゴルの人々のテントでした。水を飲ませて水もばら撒いてして奇跡的に住みました。この時テソクはわあわあ泣きながら“お父さん!お父さん!”といいながらさらに言えませんでした。この時から彼らの助けでモンゴル駐在韓国大使館に行ったし韓国行に成功しました。

 今はこちらにきたのも67年になりました。韓国では私たちに何の不便もなしですべての条件を皆聞いてくれていて。

 また私は年上だと色々な追加恩恵も受けていて。私の年70ですが、むしろそちらを離れる時よりさらに若くなったようだ。

 

 その後この叔父のためにおい(めい)らが受けている政治的圧迫と差別待遇の値段を払おうと数千にかけて支援金を送ったのに一度も成功できないようになりましたね。

 今年初めにそちらでこちらに来た故郷の人々に会っておい(めい)らの消息を聞いたのに何の助けも受けることができなくて大変に生きているという話を聞いた時この胸が破って寝るように痛かったです。だから私はここで勤倹節約しながらでも必ずおい(めい)らに救援の手助けを送るだろう。もう少し気走ってくれます。そしておじいさんおばあさん墓地も忘れないでおいてよく管理して兄弟間により一層愛して惜しみながら和やかに生きていくことを願います。

 

 本当にしたい話が多いです。

 会えば詳細に長い生活の理由をさらけ出しながら泣いて笑ってしましょう。健康に無事に過ごします。

 必ず会えるという信心を持ちながら強く生きていきましょう。

 私も死んでも故郷に必ず行きたい心情です。

 死ぬに先立ち必ず生きて行くことだけを希望します。安らかに。

 

2007615

ソウルの00アパートで。


目次に戻る