<第21の手紙>なつかしい姉さんに

キム・スヒ  

 

 姉さん!

 姉さんと別れてからすでに5年がさっと越えましたね。

 いつも多情多感だった姉さんをこの弟(妹)はいつも忘れないでいます。

 血一滴の混ざらなかったが他の人々は私たちを親姉妹で知っていましたね。

 顔はもちろん、抑揚であり歩みであり全てのものがあまりにも同じで行ってそのように見たのかは聞こうとも私は姉さんをこの世誰より尊敬して愛します。

 

 祖父が解放前に畑何マジ(300坪程度)があったし、そのおかげさまでお父さんも専門学校まで通ったのが全部です。土木技術者のお父さんは6 25事変以後復旧建設時期昼夜が別になしで本当に熱心に仕事をしたし勲章も何個受けました。仕事上手にすると有能だと労働階級化されたインテリと党で信任するというが、党の政策が変えてのせたのかある日突然'古いインテリ''富農の子供'がとしながら地方に追放されたし、その時私どもの家族皆は別れました。

 すでに結婚してある家庭の主婦になって何年が過ぎてまた成分評価が再審され、安全員だった夫と離婚したし、単身でご両親と落ちた炭鉱の村で紹介されてきたし、そこで初めて会った方がすなわち姉さんでした。他の人々は平壌から追放されてきたというので何の反動やスパイと連坐したと考えながら気を許さなかったんですよ。

 持って行った荷物らをみな整理して倉庫を住居で改造してやっと生活することができるようになったある冬過ごす、金痴漢ひさご、ピーナッツいくつかのどんぶりを持って尋ねてきた姉さんは“弟(妹)!こちらも人が生きる所がみな。互いに頼りながら暮らしてみて、姉さん弟(妹)しながらだ…”

 このように話しながら両親兄弟、夫菓息子が懐かしくて泣いて私を必ず抱いて軽く叩いてくれましたよ。

 

 平壌に住んでみるので褐炭火もつける方法を知らなかったし、抑揚ががんじょうな咸境道の言い方もよく理解できなくててんてこ舞する私に全てのものをじわじわ教えてくれながら力を集中された姉さん!

 本当に有難くてまた有難いが私はその恩恵を一つも返すことができませんでした。電気が入ってくる日より入ってこない日がさらに多いそちらで冬の長い夜長に姉さんは私のそばに横になっておられながら姉さんが歩いてきた道を話しながらたくさん泣かれましたよ。いつも強くて慈しみ深かった姉さんの姿だけ見て来た私も同じように泣きながら姉さんの昔話のようなのか・・・過去の生活を聞きましたよ。

 かつて両親と死別して孤児として生き、国軍捕虜たちが炭鉱の村に無理やり配置されてきたしそのうちある方と1家庭を作ったと…夫になられる方は本当に人情も多くて良い方だったが'国軍捕虜'という理由のために党にも入党できなくて大変で難しい日の最前線に追い込まれながらもいやなそぶり一度出すことができなかったと….

 

 そのようだった夫が大小さまざまに3兄弟姉妹を残して炭鉱窟が崩壊する鉱内で永遠に帰ってこられない道を行ったと話しながら、いつかは必ず夫の故郷に子供らを前面に出して行こうと齷齪仕事しながら生きてきたのに一人しかいない息子が中学校農村動員に出て行って事故で姉さんを捨ててあの世の中に行った時、姉さんはそのように悲しくて傷ましく泣いたという話を聞いて、私もやはり泣きました。歳月が流れて、置いてきた私の息子がお母さんを尋ねてきたし子供らの成長を大きいラックと感じながら私たちは住みましたよ。

 

 苦難の行軍時代、一握りの米で草粥をして私たちは共に分けたし山野をさ迷いながら草もはがしてきたし秋には農場員たちに追われながら'落ち穂拾い'もいっしょにしましたよ。落ち穂拾い、ナムルを採ることで戻るときは私のリュックサックは常に姉さんより小さかったが、姉さんはこういう私を見ながら“君も少しあれば私ぐらいできて…。''といいながら私のリュックサックに姉さん持分を入れてくれて結局家にくれば常に自分の持分がさらに多くなっていましたよ。大変で孤独だったが姉さんがいつもそばで親血縁以上に私を慈しみ、助けたので私は生き残れました。

 

 ある日突然消えた私の息子が人便を送ったのに中国に行って席も捉え、すぐ人を送るから母さんも付いてきなさいと言った時私はあまりにも驚きました。この事実が露見する日が即ち人生最後の道であることをよく知っていたので私は全身の気勢がみな抜けてしまったようだったし、この事実を知ってある瞬間に安全員、保衛員らがわが家に押しかけて私を逮捕していく幻覚に陥っていました。

 その時私を訪ねてきた姉さんにこの事実をそのまま話したのに、その時姉さんは“君が私をどれくらい信じるのかよく分かる。そのような憂いの表情を全くせずに人がくればすぐ離れろ。まだ住む日が多いが…私も君を本当に送りたくないけど、それでも君だけでも生きることができるだろう。”といいながら休みなく涙が流れた。人便に送った少しのお金で市場に行ってパンとより合わして排気いくつかを買っておいて私たちは向かい合って座ったが食物は口の中でぐるぐる回るだけのどには通らなかったんですよ。いっしょに手をつかみ、家に来ながら私たちは何も言わなかったが前に近づいてくる状況、過ぎた日々お互いの心を目光で.十分に読みましたよ。ひょっとしてその誰かが私たち家を監視しないかと姉さんは私よりさらに気を遣いながら私を守ってくれましたよ。

 

 数日後訪ねてきた人便について私が離れるようになる時姉さんは“弟(妹)、絶対に後ろを振り返るな、そしたら道を去ることができない、堅く決心して成功するように願うよ…”といいながら私が見られない時まで私を遠くで守ってくれたのを私はよく知っています。

 

 私が息子といっしょに韓国行を離れながらその間中国でお金いくらかをみな集めて姉さんに送ったのにその人便がきていう言葉が“二度と来てはいけない、この老人は何にしても生きることができるよ。君が血の汗で稼いだ金を送るとは、私がどのようにゆっくり座ってこのお金を使えますか。どうか私の弟(妹)が無事になるのを望むだけとか・・・。”といいながらとても佗びしく泣いたと言いました。行ってきたその人は私たちを親姉妹だと思ったし私はそうだといいました。

 私が韓国にきてまた姉さんに人を送ったのに姉さんは黄海道に嫁入りした長女がお連れしたといったよ。今どのように過ごしておられますか?なにとぞ無事であることを望みます。

 

 姉さんは統一される時まで死ぬ権利がありません。

 娘と孫、孫娘を連れて姉の夫故郷に必ずくるべきではないでしょうか?

 

 姉さん!

 私たちは今何の心配なしで住んでいます。

 息子は大学を卒業して会社でお金をよく儲けて一年前には嫁も見ました。そして党で離婚させたが私の夫もその後新しい家庭を設けないで残った兄と妹(姉と弟)を育てていたのに、私と私の息子があくどい努力あげく今は3国まできたし早晩韓国に来ることができます。それではその間積もった悲しみと苦痛、悲しみがすべてなくなって、幸福だけが整えられるでしょう。なおさら姉さんに申し訳ありません。

 最も難しかったその時期あらゆる危険を分けないで私を親血縁のように惜しんで下さった姉さんを私は私の心臓の鼓動が止まらない限り永遠に忘れません。

 統一される日姉の夫様の光陵に姉さんといっしょに行くその日を指折り数えながら待ちます。

 

 姉さんたくさん愛します。

 ぜひ健康に住んでいて下さい、

 会う日まで安らかに

2008325

韓国のこじんまりしていた巣で弟(妹)スヒ拝


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