<第20の手紙>

考えれば胸がしびれてくる故郷にいらっしゃるお兄さんに…

カン・ソン    

 真冬の寒さを勝ち抜かれるのに苦労しておられるお兄さんそして食糧用意に燃料まで用意されるのに途方もない苦労しておられる兄嫁・・・近くて遠いこちらで一時も忘れて見たことがない故郷とそこに住んでいるお兄さんと兄嫁様を考える時ごとに懐かしさと申し訳ない罪責感を禁じることができません。

 兄様の苦労することが明らかに私のあやまちでないかもどうしてお兄さんを思うと、私に苦しい考えが入れ替わり立ち替りすることなのか私も分かることができません。

 韓国にきたのも今はいつのまにか8年目入り込むもののまだ私には、故郷に対する胸が痛い思い出が行かれませんね、いつも私たちの兄弟の上の子として苦労を引き受けてしながら弟(妹)らのために献身されたお兄さんと兄嫁様の姿が今でも鮮やかに目に浮かびます・

 

 私たちの末っ子が軍隊でケガして戻った時も残念がられながら努められた姿を忘れないです。軍隊で訓練途中事故で除隊されてきた末っ子にご飯一食、薬一服正しくしてあげることができなかったその時期、弟(妹)を生かそうとどれくらい苦労した私たち繋ぎましたか?北朝鮮住民誰でも体験した苦労であり、痛みですが、その中でも兄弟愛を失わないでねばっこく繋いできた私たちではありませんでしたか?

 

 平壌で大学に通った私が休みになって家に降りて行った時、束手無策で部屋の中に横になっている弟(妹)を連れて平壌に発ったことはただ弟(妹)を生かすべきだとの私の負けん気から出た行動でした。地方の人々が治療はさておき平壌出入までも難しい状況で旅行証もなしで期日を期約できない汽車に乗って平壌に向かった私の行動はその時誰が見ても不可能な無謀な挑戦でした。

 

 停電と電動機不足で何日に一回ずつ通うあたかも625戦争や徴兵に引きずられて行った人々が戻った8 15光復直後を連想させる汽車の中ででどのようにしてもからだの具合が悪い弟(妹)を席に座らせようと席の争いと体の小競合いで数日を送りながら平壌付近にまで行っておりましたよ。平壌旅行証がない私たちとしてはそこから歩いて平壌に入る計画だったからだよ。

 

 からだを正しく支えることもできない弟(妹)は近くもない距離を歩いたが、途中何度も倒れたりもしましたよ。そのような弟(妹)に、この醜い兄さんは真っすぐ歩けと怒ったりもしたそうです。弟(妹)が病気が激しくて、とても痛くてそうするのかも知らず、私の考えぐらいでかわいそうな弟(妹)に怒った私の処置がこの期に及んでそのように後悔らしいはずがありませんね。

 

 やっと平壌病院に行ったが大学生保護者にお金ない地方に書いてきた患者は医者たちに何の関心も受けることができなくて呼び出しだけ待つしかありませんでした。

 

 平壌に親戚もなかった私たちであると、私の大学の友人家に何日かいましたが、脳に病気がひどく来た弟(妹)が寝床に便をする症状が現れて、私は仕方なく病院救急患者控室で夜を過ごすことにしましたよ。

 

 初春だと寒い天気は暖房もならなくなっている部屋で覆うこともなしで自分にはあまりにも力不足であるから私は寒さに震えている弟(妹)に大学生制服までも脱いであげて必ず抱いてくれましたよ。ところでその時私の目の前に見られる弟(妹)の頭には虫たちが這って行き来していました。いつか聞いたことがある“人が死ぬ時になればからだ中の虫らが外に這って出る。”という声が浮び上がりながら私の目では私も知らず涙が流れて弟(妹)の頭に落ちていましたよ。

 

 翌朝、病院の党責任者を訪ねて行って涙で訴えるので該当科に電話をして検査をするように指示をしましたよ。権力の力を感じさせる時間でした。前は牛鶏見るようにした医者たちが飛び回りながら注射をしてくれる、CT検査をする、大騒ぎ騒ぎでした。診断後多発性脳腫瘍とし生かす見込みがないと、家に連れていきたがるのをみな食べさせろという医者たちの意見を私はとうてい受け入れなかったんですよ。

 

 頭がとても痛くて死にたいという末っ子に平壌に行けば住めるといった私があいつを連れて家に行ったら末っ子は気落ちしてこれ以上立ち上がることができないこともありました。お兄さんもおわかりの通り家に連れていってみてこそご飯も正しく食べさせることができなかった脾臓末っ子を連れて役員をしましたよ。しかし大小便を分けることができない末っ子を看護するということは話のように容易でなかったんですよ。いくら自分の弟(妹)であっても成人の女の子の下着を取り替えて着せることは毎度の顔が熱かったです。しかしこれら全て努力を分かってくれないて病魔はすでに末っ子の頭に深々と侵入をしてしまいました。

 

 旅行証明書がないとおりろと暴れる列車乗務安全員らと戦い半分'逃避折半しながら末っ子を連れて家に戻ったけれど家には娘を捕まえて泣く長期闘病症であるお母さんの慟哭の声だけでした。家に降りてきて一週間ぶりに末っ子は本だけで見てきた最後息をしながら私たちの目の前で永遠に目をとじてしまった。新しい服に取り替えて着せようとからだを洗ってくれようとする兄を制止して私がするといった時もお兄さんは寛容に譲歩して下さいましたよ。

 

 末っ子が死ねば狂うことさえありそうだった私の目では涙一滴しなかったんですよ。両親より先にで出て行った子供はカンをせずに、3日葬でない当日で持ち出さなければと町内大人たちの強要で作った棺をそのまま置き、古いふとんに包み、手押し車にのせて山に行く私たちほとんどすべての思考を停止された植物人間たちでしたよ。

 

 末っ子を山に埋めて戻った夜中に死んでしまいたい気持ちで飲む方法も知らない酒を飲んでその時、町中が離れて行くことだけ同じ黄牛の泣きで放った私をお兄さんと兄嫁様は失神した人々ひたすら見守られるだけでした。真にその瞬間だけは生きるということが罪を犯すことだけ同じだったし死ぬことだけしたい心でした。

 

 単独で空室でお兄さんに手紙を書いている今この瞬間にも私たちの末っ子を考えながら流れる涙をどうする方法がないです。

 

 お兄さん!こういう胸が痛いことらがこれ以上反復されてはいけないと考えます。そうするためにも7千万私たちの民族の念願の統一が一日も早く形成されるべきで私は南側で、お兄さん北朝鮮側でその盛業のために努力して統一の一線上で会いましょう。

 

 真の自由の世の中で自身が努力だけすれば食べる心配、着る心配がない社会で生きるその日が遠くなかったのでぜひ健康でいらっしゃり、兄嫁様をよく助けられるように願います。

 どうか健康で必ず良い日を共有するその日を待ってください。

 

ソウルで弟(妹)申し上げます


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