<第2の手紙>

夢にも会いたいお母さんに申し上げます

キム・チョルオク

 

 お母さん、その間、お体健康ですか?

 

 今日、この明け方も野菜リュックサックを頭に載せ、背負い、みずぼらしい身なりで市場に「出勤」された老いてシワの深いお母さんの姿を描いてみながら不孝甚大なこの娘は頭を下げてごあいさつします。

 言葉なく、風聞なしで去って来たこの娘を待ちに待たれながらもっと歳を取られたお母さんに申し訳ない気持ちを抱いてこの文を申し上げます。

 

 中国に行くという言葉さえ残すことができなくて結婚に少しの間行ってくるという話ぐらいで去って来たその土地、すでに離れて来て2年になります。

 その間、どの一日いや、どの一瞬も忘れて見たことないなじんだ土地、胎を埋めた故郷、幼稚に飛び回った幼年時代、鳥がしきりに鳴く窓側で九九表を読んだ学校時代、大学入学通知書を受けてご両親と故郷の人々の見送りの中に故郷を離れた村の道。

 次女が休みで戻って来ると駅前に出迎えに来られたお父さんといっしょに雪に覆われた鉄路に従い、足を速めたあの日のあの姿、駅前でいつ来るか分からない電車を待ちながら椅子にもたれてうたた寝をした鉄道の駅、考えれば考えるほど目にちらつきながら・・・ああ!目の前にありありと浮かぶ故郷の思いだけです。

 

 結婚後引越祝いをしながら植えておいた梨の木、あんずの木、屋根の高さを越えてげんこつほどの酸っぱい甘いあんず、梨が実るときは村の子供たちが熟す前にみな落ちて、故人になられたお父さんの人生と魂が深く染みている故郷の家でした。

 

 全国が「苦難の行軍」をした90年代初・中盤、白米飯は見ることさえまともにできず、お父さんを先に失って生きていく道がはるかに遠くて、下手な商売道に情熱を傾けられたお母さんと兄弟たちの太陽の光に焼けて汗に濡れたその姿、私が大学時代あれほど強靭だったお母さんの姿でなく、すでに腰の曲がったお婆さんのお母さんの姿でした。

 おいしい食べ物を食べるたびに、この土地のお母さんたちとお婆さんたちの明るい姿を見るたびに、お婆さん同士でショッピングもし、登山もしながら幸せで元気に長生きする姿の中で、みんな大きくなった子供たちの飢えた内臓を満たしてあげようと、市場の片隅に陣取って「ネギ買ってください、一束40ウォンです」とおっしゃるその姿に胸が張り裂けそうです。

 

 売れない日には、緩んだインゲン豆うどん一杯の値段も惜しくてお昼の食事を抜き、一食でもやっとのインゲン豆うどん1つを穴だらけのリュックサックに入れて、元気の出ない2本の足を引っ張りながら20里の道を歩いて家に帰った私たちのお母さん・・・高等中学校の時、小組の勉強を終えて夜遅く家に帰る時恐ろしさに震えて、心配されながら学校まで探しに出て来てくださったお母さん。

 

 私たち子供の大学勉強を世話され、大学生を育てたのが私たちの家族の資産だと、いつもお喜びになり、未来の民族幹部として堂々と育つようにと正しく育てられた私たちのお母さん、大学を卒業した時には誰より喜ばれながら家でない配置地に去り、送って名節日に他の人々が全家族が集まって座って笑って笑う幸せな姿を見る時は羨ましがられながら、いつになれば私たちの家族も一ヶ所に集まって名節を楽しく送ることができるかといつもおっしゃった私のお母さん。

 突然のこの娘の離別により、統一される時までは一家族の一ヶ所をなすことができない、いや、お母さんのその願いを成就して差し上げることができない、その罪悪感でこの娘は常に苦悩の中で罪を責めながら生きていきます。

 

 会いたい私たちのお母さん、去って行った日に駅への道で涙を流しながら、行く道は苦しいだろうが、長い間いないで早く戻れとおっしゃりながら、見えなくなる時まで手を振って下さったお母さんと姉の内心を知る由もない弟がいっしょに車に乗って見送ってくれたその姿… 13年ぶりに除隊した末っ子の弟の顔も見ずに去って来たこの姉、この娘の心情を何とも表現する方法がありません。

 私は思います。今日のお母さんのその苦労は、ただ私のお母さん一人分だけでない、あの北側の土地のすべてのお母さんたちの苦痛と不幸であり、分断の痛い傷です。

 

 愛するお母さん、この娘は幼い時に聞いたお母さんの愛すべき声を思い描きながら時折呼んでいます。

 

愛に濡れているお母さんの声

いつも刻むほどああ!優しくて

遠くにいても、そばにいても

お母さんのその声ああ!優しくて

 

愛に濡れているお母さんの声

胸に刻むほどああ!熱くて

明け方の道を歩く時も、夜道を歩く時も

お母さんのその声ああ!熱くて

 

 会いたいお母さん!この歌を歌いながら少しずつなだめていますが、離別の痛い傷、離別の痛みはそれほど簡単には癒えないようです。しかし少しの間だけでもなだめるものがあるとすれば、置いてきたその土地と両親兄弟の前に必ず償うだろうという気持ちです。

 いつどの一時も忘れない両親兄弟の前に統一のその日、堂々と出られるように私と夫、子供たちはみんな熱心に生きて行ますし、統一のためにすべてを尽くします。今日の選択が正しかったということが将来必ず立証されるものと思います。

 愛するお母さん!統一のその日まで、お体を健康に安らかにしていらっしゃってください。いや必ず生きていて下さい。遠からずその日が必ず来ますから、今日の苦痛と不幸を昔話にしながら生活する、その日は必ず来るでしょう。愛するお母さん、なにとぞご無事でいらっしゃってください。

20048月ソウルで

次女拝


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