<第19の手紙>カマチ理由

パク・ソンヒ

 

 私は放棄を知らなかった一人の男と騒がしい祝福もなしで派手な花束もなしで結婚をして素朴な家庭生活をするようになった。

 その時その時節はまぶしく光る一時であり、一生をいっしょに生きようと約束していた人だから多分この世界の愛は私一人だけが独占するように心は飛ぶように軽いだけでした。

 不眠飛んで行くか、握れば破られるかもしれないと思ったその時期に私たちには苦難の行軍が差しせまってき始めた。

 

 死ぬか生きるかと言った私たちの愛も苦難の行軍時期には冷たく崩れ始めた。飢えは罪もない私たちの家族のお互い間の愛まで容赦なく奪っていった。いつも食卓にはずっと粥一杯、そしてドングリ味噌が全部であった。

 7才になる分別がない子がお父さん粥のうつわに手をつけたある日夕方死ぬほど殴る惨状が醸し出した。私が子供側を入ると順次家庭戦いに広まってしまった。しかし、誰を恨もうと・・・

 

 小さな子をおいてそのお腹を満たしてくれることができない罪悪感、むしろ両親口実を出来ない私自身が憎かった。腹がへることの誘惑は分別がない子供たちを人情容赦なく腐敗の道に呼んでいた。商売をしようと借りてきたお金1,500ウォン中で100ウォンの一枚を持って出て行ってパンと変えて商売元手も黙ってぬすんで出したりした。

 仲むつまじい家庭、幸せな生活、尊敬する先生が教えてくれた道徳生活は、飢餓のために本意と違って険悪な腐敗の道と人情事情なしに旋風でせきたてられていった。私たちの家庭も他の家でも、2家庭が破損し始めた。

 

 飢えは教壇で未来を育てる教師も、博士、学士も人生の生をあきらめるようになった。主体思想が純真な人民を抑留し、社会主義から抜け出せないようにしたから、歴史も、時代的趨勢も知らない文盲者らは'苦難の行軍'暗黒の試練の前に結局土で冷たい死体で枯れていった。

 

 私が住んだ故郷には建設部隊軍隊が多かった。私がやっと家庭生活をしている時なぜか元手を用意して豆腐商売をしたことがあった。

 この話は私に痛い思い出のひとこまで残っていつも心にかかったりする。重い網を転がして豆腐を売るのにも整えられるのはただおから飯とドングリ味噌だけだった。

 そのようなある日一日思いのほか軍隊兵士が門を叩いて入ってきた。夫妻はすなわち新しい冬靴を持ってきて一食だけ腹いっぱいに食べさせてくれと、それではウォンがないということだった。冬靴をおからご飯一杯と変えるとは、どれくらい腹がへったらがんがんと凍って火は冬寒さを分けないでただ腹いっぱいに一食だけ食べさせてくれと言うだろうか?私は胸が張り裂けそうになったがそれでもその冬靴を受けなければならなくて。なぜなら私も-生活が苦しかったために…

 

 私は家で古い冬靴を捜し出してあげるのは新しい靴を受けて600ウォンにまた商売元手を用意した。そして送りながら良いご飯違うがおからご飯でも与えるから一人で腹がへるときはこいとした。

 その後わずかばかりで私たちの家庭も破産したので結局その兵士を再び永遠に見られなかった。

 長い長い冬どれくらい足が冷えたのだろうか-

 そしてある田舎女をどれくらい恨んだのだろうか!…

 

 今でも私の記憶の中に永遠に消されない痛い思い出をさらに手探りして見れば私もこっそりと目がしらが熱いほどだ。

 両親らは子供をちやほや育てて遺訓の道に送り、帰って来る時は英雄なれとお願いするがむしろ軍隊に出て行って病魔に苦しめられて虚弱になりまた一握りの土になったこの国の息子たちが如何に多いかを私は現実で目撃した。

 

 胸に血痣が入った理由がもう一種がある。

 私が仕事をする作業班にはチュ・ソンヒという班長がいた。彼は作業班でいつも党に忠実な人だと呼ばれる程度だった。私が仕事をする所属班長であったのにある日とめどなく畑頭に座って泣いていてとても悲しげに泣いて理由を尋ねることもできなかったしただ見守るしかなかった。

 

 後で知った事縁だが胸が痛いことがあったのだ。息子といっしょにいた本家のお父さんが顔がぶよぶよはれてチュ・ソンヒ姉さん家に来たものだった。あまりにもぞっとして娘はお父さんどうなったことかと尋ねて本当に胸が痛い理由があった。それで姉さんがその日畑頭に座ってひそかに泣いたんだなあ。私は一歩遅れて知るようになった。とてもお腹がすいて、孫娘の手にある干し菜カマチ(お焦げ)を半分踏み食べたと息子がお父さんを殴ったということだ。結局お父さんは思い切り殴って追い回されて娘の家にきたのだ。

 その歳月は、日が進むにつれある家でも関係なく胸に血豆が入った理由らがいっぱいだった。

 

 こういうぞっとする現実の前に私は家庭をあきらめて脱北の道にの時使う死者の衣服道に上がらなければならなかった。いくら朝鮮で100m競走してもまったく立ち上がれそうでなくて私のために子供のために人生の生存にためらいなく飛び込んだ。どうすることができなかった苛酷な飢えが自分を本意と違って豆満江水に飛び込むようにしたしその道だけが生きる道がことを私は一歩遅れて悟った。

 

 置いてきた故郷、愛する隣人らを後戻りをしてみる間なしに銃声が泣き叫ぶ豆満江沿線に待ち伏せしていてついに涙ぬれた豆満江を越えて死線を破って破りながら駆け付けた道、その道が今日大韓民国、私が住む第2の故郷だった。

 寝てもさめても一時も忘れて見たことない私の息子。

 このからだがトッテラもなれば波を散らして行っても心だけだ。

 いつならば会おうとなつかしい私の息子。愛する私の息子。

 息子よ、どうかお母さん心情を理解してくれ。

 たとえ今は私がお母さんらしいお母さんでないが、寝ても覚めても一時も君を忘れたことはない。

 君と私の生き別れはみな腐って病気にかかった北朝鮮体制のためというものを分かる時が必ずあることと考える。大韓民国にきて初めて検診するので積もった病気が結局肝硬変黄疸で診断を受けるようになった。

 これもみな北朝鮮で私が飢えて飢餓と貧窮にさまよいながらできた病気というものを一歩遅れて知るようになった。

 

 私たちの幸せな家庭生活も北朝鮮の食糧戦線苦難の行軍からめちゃめちゃになったのでこの責任は果たして朝鮮当局で補償することができるのかと鬱憤を晴らしたい。

 

 兵との戦いを勝ち抜きながら私は今大韓民国で人生の生存のために挑戦して今後金持ちになることを願いながら、私が歩いて来た道と私たちが北朝鮮政治にどのようにだまされて生きたということを彼らに認識させてやりたい心が全部だ。

 

 痛い心が焦るだろうを道なしに故郷の人々の姿が今でも目にありありと浮び上がるときは彼らより文明な生活が繰り広げられているこの社会を自慢したい。


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