<第15の手紙>

懐かしくて見たくて、抱いてあげたい私の娘ヨンスクに伝える

キム・オクスン

 

 私が第一で愛する人世の中その何とも変えられない私の娘ヨンソク!

 その間元気だったか?

 イルジン、イルシムも元気で?とりわけ幼いイルシムが今でもワラビのような手でタバコをやめろと卓の前に2つの膝を曲げて座っているその姿が目にありありと浮び上がる。またイルジンが学校に行ってくればお腹がひもじくて唇が초들초들したその姿、ご飯ないと思ってご飯くれという言葉なしに腹がへったが遊びにでかけないでくれとすれば“おばあちゃん腹がひもじい時は出て行っておくことがなれば遊ぶ精神に腹がへったことを知らない”としながらカバンを部屋の床に投げ飛ばして飛び出したその姿も目にありありと浮かぶんだな!

 

 君に手紙を書くこの瞬間もお母さんは涙が便せんにしきりに落ちてメガネを使った目がぼやけるようになってよく見られなくて文を書けないな!

 私が最も愛する私の娘ヨンスク!

 お母さんはこの手紙が君の手にまで行くことができないということを明らかに分かりながらもあまりにも君が懐かしくてこのように使っているんだ。そちらで君といっしょに生活する時私が常にはい弱いからだを憂えたのに今はちょっとどうか、なかなかこのお母さんは心配で悩みをなくすことができないかな。

 

 私の娘ヨンスク!

 私がそちらにいる時より暮らし状態はさらに難しいですがどのように生きていっているか?本当に私が毎日毎日食べている白米ご飯が喉がつまって越せないな。お前らはトウモロコシご飯も腹がいっぱいに食べられないのに、君の姑初めての祭事の時食卓に上げておいた白米ご飯特に忘れられて負けないのは一杯持って持ち出そうというから、イルジンとイルシムも食べるとさじを持ってその一杯の茶碗に走り込んだその姿鮮やかに目に浮かぶように浮び上がりながらお母さんは食事用の匙を持つのがより一層骨を折られるんだな!

 

 私の娘ヨンスク!

 私の離れる前日君がすごく心配したね、捕えられるかと思ってね。その前に私が中国に入ってきて捕えられていった時当てられた保衛部でのその腹がへること・・・場所が狭苦しくて座って寝た日・・・''がとてもかみちぎって耐えることができなかった日・・塩と水を食べられなかったこと等考えるほどあきれて喉に詰まる。

 

 それではこれから君が憂えているこのお母さんの便りを伝えようとする。君と分かれたお母さんは望郷区の人の案内で私たちが涙の豆満江だと呼んだその豆満江そばであるおばさん家で警備隊軍人らの助けで無事に豆満江を渡るようになった。

 

 私の娘ヨンスク!

 その日はね、毎日そんなに夏天気のように良かった天気が突然冷たくなりながら狂風が固め打ちして雪と風が一面でどれくらい寒かったか?それでより一層君が心配をしただろう。そうなんだけれど冷たくなることができる豆満江水が満ちないであたかも暖かい感まで与えたよ、人が神経を尖らせれば寒くても寒いことを知らないみたい。

 

中国に到着した私たちは中国朝鮮族の案内でその日夜に黒龍江省ある家に到着するようになったのに、その時生まれて初めてタクシーと呼ぶ乗用車に乗ってみた。

ヨンスク!君は知らないが大韓民国まで人を運んでくれる人を乗ること聞くブローカーと呼ぶのだ。そのブローカーの言葉が私一人だけ連れて行くことができないから韓国に行く人々がさらに集まってこそ連れて行くといって人々を集まる時まで私一人その家で住むようになったんだ。

 

初日主人宅のおばさんが白米ご飯を一杯たっぷり入れてくれたよ。一匙分渡して君たちのことを考えてのどがクァク担いで越すことができないから主人おばさんがあわててどういうことかと尋ねるので私が何のことでもないとし水を渡して置いてきた子供ら考えのためにそうするというと、そのおばさん笑ってしまったよ。彼女たちは飢えるのが何か、飢えがどんなものなのか知らないからだけどね。

 

私は君を考えながら詩一手書いておいて曲を思いのお母さんに送って呼んでまた呼びながら涙で毎日を送った。そのようなそのある日、隠城から1家族五人が越えてきたよ。若い夫婦間に可愛い3才ポムスンと呼ぶ女の子と私と同い年65才おばあさん一人と叔母いとこ女の子、このような1家族がきたのに彼らを見るから君たちを思いがさらに切実だったよ。君もそうだが私も君たちといっしょにきたならばどれくらい良かっただろうか-

 

二日私たちは韓国で来る列車に身をのせた。

列車に乗って、バスに乗って、タクシーに乗り換えてしながらベトナム国境まで到着したんだ。中国土地は雪が降る寒い冬だがそちらは夏天気しかもベトナム国境を越える時は本当に今は私の人生が終わるものと思った。どれくらい大変だったのか言葉ではみな表現できない。

その忙しい瞬間にも私がそちらで見た映画の一場面が浮び上がるね。どんな映画だったのか題名は浮かび上がってこないが偵察兵らが死線を越えるような場面なんだがね。

 

ヨンスク!

そうだな涙ぐましいことは3才が何も知らないのに夜なのに寝なくて目をチョリョンチョリョン目覚めて、お母さんの中から父の懐に変わって抱かれながらも咳一言出さなくないの。私たちが去る前にその子に泣けば捕えられると丹念に見えすいた脅しは置いていましたが、その幼いものがそうだな何を分かるとそんなに清楚に遊ぶのか涙がでるよ。

 このように険しい道を歩いてカンボジア土地に到着した。そちらには韓国牧師様がおられて私たちを喜んでくれたし私たちのような気持ちで韓国に行こうと多くの人々が集まっていてそちらで神様を出迎えたし聖書学習をしたんだ。聖書を読んでみるからそちらで教育を受けた金日成主体思想まさにその内容だったよ。そうだ,君は聖書が何か知らないだろう?神様に対する本なのにそちらでアヘンだと恐ろしく呼んだことなのに聖書を読んでみるので人が生きながら良いこと晩夏と記されていたよ。それで私は他人よりもっと一生懸命に聖書を読んだ。良い本なのになぜそうではないの。そのように28日間そちらで日を送った。

その後ある日ママは本で,映画で,空で,たまに見た飛行機に乗って待ちこがれた大韓民国土地仁川空港にちらっとちらっとある明け方に到着したんだ。

 

外に出てきてみると、そうだね、眩くてしばらくは目を開けなかった。初めにしばらくの間、頭ががあんとして精神を落ちつける方法がなかった。赤い火,青い火が互いに交錯しながらきらめくのにその恍惚感は言葉で表現するのが難しかったよ。

なぜそうではないの,そちらでは電気を与えなくてまっ暗な世の中で住んだ私でないから・・・

出迎えにきた人々はどんなに颯颯で礼節が正しく挨拶をするのか。私たちの一行はあたかも口が冬カエルのように凍りついたようにまっすぐに挨拶もろくに上げることができなかったんだ。

次にはバスに乗って大成公社,ハナ院などで5ケ月間教育を受けてソウルで住もうと出てきた。

本当にこちらでは私たちが住むという所で住むようにしてくれるのだ。政府では値段が安いアパートと食べる食糧おかず類そしてふとん,敷布団,枕、着替える服までみな出してくれた。また電気窯とおかず沸かせるガスレンジというものまで渡した。

そうして私の生活には不便なこと少しもなかった。また隣人たちは久し振り訪ねてきた血縁に会ったようにうれしく対してくれたしおかずと,服類と,たくさん持ってきたんだ。それでお母さんはそんな時ごとに目がしらを濡らしたの。本当に韓国という国はそちらで教育を受けたこととは正反対の国だったの。自由で拘束なくて自分の気乗りするように生きて自分が情熱を出して仕事をすれば仕事をしたほどお金を多く出してくれる、米値段が安い・・・その幸福感は到底話すことができない。

 

そちらで教育することは腐って病気にかかった社会,自由なくて人生きられない社会,飢えて乞食が多い国と嘘教育だけしたよ。

 

また私は65才と政府では仕事をしなくても毎月57万ウォンという多くのお金とバスと汽車に乗れと4 5千ウォンというお金を3月に一回ずつくれる、定着金だと分期に100万ウォンずつくれ、地下鉄は無償で乗って通うがするから私は金持ちになった気持ちだ。

 

 ヨンスク!

 こういう地上天国が空の下またどこにあるの。

 私の愛する娘ヨンスク!

 お母さんはこういう大きい幸福を享受しているのでお母さん心配今からは全くしてはならない。しかしお母さんは君たち考えで涙を流しながら夜を明かす時が多いんだ。

 いつ統一になってなつかしいお前らと会えるのか…・

 果たしてその日がくるのか-その日は本当に約束できないことですね。

 

私の娘ヨンスク!

今はお母さん ペンをそれ位に置こうとする。会うその日まで死ぬだろう歯をくいしばって元気によくいることを祈りながらペンをこれくらいにして置く。

イルジン、イルシムもよく育てなさい。

お母さんが君たち役割で一銭2銭お金を貯蓄しているので万一どんな機会ができたらお金を送ってあげる。希望を持って待て。

それでは今は本当にペンを置く。

安らかに!元気で元気で、私の娘ヨンスク。

200596

母記す


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