<第14の手紙>

愛する息子に

チャン・ミスク

 

 私の肉身の一部分を離しておいてきてからいつの間にか8年という歳月が過ぎたんだなあ。

 何日だけあれば旧盆だ。こちら韓国では旧盆を民族最大の名節に定めて皆が故郷祖先の墓地も訪ねて行ってその間別れて住んだ家中の家族らが一ケ所集まってそれこそ名節の雰囲気祭りの中で何日いくつかの夜を送るのだ。

 

 愛する私の息子ヒョクや!

 この日に合わせてこちらにある私たちの家族たちも一か所に集まって名前なき山のふもとに安置された君のお父さんも思い出と墓を探すことができない不幸な現実を嘆きながらお互いがお互いを慰安しようとする。それでも私たちはこちらでお互いの程度分けて鼓舞と激励をしながら新しい生活の基盤で熱心に生きることを念を押してからだと心を元気にして祖国統一のために最善を尽くすことに誓いをする。

 

 歳月は、無情にもすべての痛い思い出をそっくり埋めておいたまま、自分の軌道に従って変わりなしに流れているんだな。このお母さんは自身今年準備された1人の女性として自負し、軍服務で不治の病気に会って起きることもできない生に対するいかなる担保もない限り除隊軍人を尋ねなければならないという義務感と共に彼の同志愛に対する性格にほれて熱烈な求愛戦線を繰り広げたし、その結果ついに君のお父さんと結婚し、お母さんに全世界を皆上げるといっても変えることができない貴重な革命同志になったんだ。

 

 私たちはひとの家を間借り住まいから始めてご飯窯一個と箸とスプーン二つ掛け布団ひとつで暮らしを始めながらお互いに対する信頼と.愛でこの世の中そのどの夫婦よりも幸福になった。このような会いの結果としてお前のお父さんが病魔と闘って、勝ち、場所で置きだして、周囲の人々が羨望の眼差しを送る夫婦になった。

 君たちのお父さんは大学卒業後5年ぶりに数千名の従業員泣くことのろい大きい機関の支配人(韓国の会長、社長職)になったしどうこうである問題なしに大塗って立派に育ったお前ら死刑制度らを周囲の人々が見ながらどれくらい羨んだのか知らないのだ。この世でもっとも貴重な家族だったので私たちはお互いがお互いを自分のからだのように惜しみながら愛してきたんだ。

 

 一日は君たちのお父さんと私が君たちの兄弟らを集めて将来希望に対して尋ねて見たことがあったんだ、その時9才だった君の兄は大きな事業家か大きい幹部になるといったし君は将軍になることといったし君の弟(妹)は飛行士になるといったし末っ子はお父さんのような幹部になるといったんだ。その瞬間君のお父さんと私はあまりにも幸せだったしこの世の全てのものを皆上げるといっても君たちより高くついたことはなくてその何とも変えることもできないそのような幸福を満喫しこのような息子たち育てる私たちがある家庭の所帯主や主婦でなくこの国と異民族に必ず必要なお父さん、お母さんにならなければならないという覚悟をしたんだ。

 

 特に君は人とちがって体格も良くて英明で注意判断力が突出して全国で示範的で施行した7年制義務教育の始めての大門を優秀な成績で通過して6才に人民学校に入学したんだ。その時から君は学級の幹部に抜擢されたし君の号令一言に全学校生を動かす責任者になって将軍としての資質をきちんと踏んでいき始めたんだ。

 そのような時期君のお父さんが君が人民学校を卒業した年にそれ位に生の最後の瞬間を現場で合う事件が起きてケガした体で現場で作戦を陣頭指揮してその場で殉職したんだ。

 

 その時君は人民学校を卒業して平壌外国語学院に推薦されたし区域的に2人推薦でも優先順位に選択されたという事実に君は天を飛ぶように喜んだだろう。私がお父さんの病室で夜昼で看護して学院入学試験場に行ったのに皆が養父母はもちろん親戚まですべての人々が動員されて受験生を応援しているのに君はお昼御飯もなしで単独で試験場に入っただろう。しかし君はその時も堂々とした姿であり君の姿があまりにも駄目に見られて私が泣いているや“お母さん!心配しないで、入学できなければ私は軍隊に行って将軍になります。はやく行ってお父さんを看護して下さい、お父さんが一人でどれくらいお母さんを待ちますか?”といいながら私の背中を押しのけて送った。とても足取りを火傷をすることができなかったが私はあくどい決心して病院へ向かったし君は結局入学できなかったし君のお父さんは病院で家に来られなくて目をとじてしまった。

 その時外国語学院入学は自身はもちろん両親らの力がさらに先んじる時期と結局君は区域的に学科競演で1等をしても落第したんだ。その時君は少しも空しがらなかったしむしろお父さんのように肩に王別をつけた将軍になることができるとこのお母さんと兄弟らを慰安した・・・。

 

 愛する息子ヒョクや!

 今でも私は君が専門学校時代大隊長としてすべての面でいつも模範であって学校に訪ねて行った時学校校長先生が“この時まで大隊長ら中でヒョクのように完ぺきな学生は初めてです。真に立派な息子を置きました。”とほめた時未亡人である母の膝下で君たちがそれほど立派に育ったのをどれくらい感心がり、あの世界に先に行ったお前らお父さんを懐かしがったのか知らないのだ。

 

 そのような君がいよいよ軍服務を一日もしなくて直ちに人民武力部技術大学に堂々と入学して3年ぶりに労働党に入党して00ヶ国空軍大学に軍事留学に出るようになった時このお母さんは、世の中をみな得たようだった。サヒョンはすでに2年前に東欧圏の00ヶ国工業大学に留学に行ったし君の弟(妹)らは万景台革命学院で勉強して、真にその時その時期の誇りと幸福感をどうして言葉で表現できたの?将軍服を着て40人余りの友人らといっしょに順安飛行場に出て行った時でもきていっしょにいたご両親らは誇らしい子供らをおいた誇りでしてどれくらい幸せだったのか君も知ることが出来たことだ。

 

 しかしそういう幸福はいくら行くことができなかった-

 東欧圏社会主義国らがひきつづき崩壊になってその国々に行った留学生らが素裸の身でぞくぞく帰国し、いよいよ君たちの軍事大学留学生らが最後に戻った。

 貧弱なポケットを惜しみながらこのお母さんが冬に天神を履き足が冷えてバタバタさせるのが胸が痛くてお母さん木靴一足を買って来ただっただろう。荷物らはみな号室に置いて手ぶらで搭乗させるその瞬間にも君はその履き物はコートの中に隠しておいてきてこのお母さんをもう一度泣かせた。そのような君の姿を考えれば今でも余りにも痛い。

 

 おまえの兄が祖国に帰国しないで大韓民国に来たものが大きい罪にかかって私たちの家族は一日で'革命家遺族'から'民族反逆者家族′に烙印押されて吹雪がそんなに奇襲を働かせた199012月の最後の日正月を2日控えて私たち家族皆は血縁一点ない北朝鮮の最北端炭鉱辺境地に追い出された日、私は植物人間のように何も意識することがさえなかったんだ。

 

 先に帰国して人民軍軍官で入棺した君が除隊杯(倍)男を持ってこのお母さんの前に現れて“お母さん、頑張って下さい、私が兄様の代わりにお母さんをよく迎えます。私がお母さんの柱になって申し上げます。”といいながら出てきて末っ子チョリを抱き合って男泣きを音をさく烈させた君の姿を今も目の前に生き生きと浮び上がる。そこで君が私たちの家柱になってすべてのことを立派に処理していったので私たちはまた立ち上がれたんだなあ。

 君は私にあってお父さんであり大きい兄であったし信頼できる支柱であったし、兄弟たちにはお父さんでありお兄さんだったんだ。君があったので私たちはその険しい世の中波風の中でも情誼で不正前でも各自立つべき位置と任務が分かったし守れたんだ。

 

 そのようだった君があまりにも孤独な私たちの家庭に幸福の笑いを善事する美しい女の子をこのお母さんの嫁に迎えるようにしたし1年後かわいい私の初めての孫ミョンソンを抱かせたんだなあ。この世の金銀宝物を皆上げるといっても変えられない私の初めての孫ミョンソンは出生自体から私たちの家庭の幸運の開始であり幸福の泉だったんだ。配給が断絶し、草粥で食事を間に合わせたある日君がある家結婚式に行ってモチ2ケとスンデ一部分を持って来て私の手に握らせながら私がこの食べ物をもしかして弟(妹)らに与えるかと思って大門の外から歩哨まで立っただろう。

 “お母さん!私たちは若かったのでまだ気勢があります。お母さんが虚弱にかかって間違いでもあったら我が家柱がなくなります。目を必ず閉じてはやく召し上がって下さい”といった君の姿を私は死んでも忘れないんだ。その時その食べ物はそのどの賃金の食卓に上がる豪華な食事に引き分けられるの、このように君はこのお母さんを感動させて泣かせて立派に育ってくれたよ。

 

 そのような君が私たちの家族を探す長兄が第3国にきたしそちらに行って兄に会って結局韓国行を決心して私たちの家族を連れにまた川を渡った… 10余年ぶりに会ったお前ら兄弟は8時間の間、泣き、笑いながら終夜を明かしたし一晩が過ぎればお母さんと弟(妹)ら、妻と子供を連れてまた兄に行くことにして離れながらずっと後を振り返りながら足取りを動くことができなかったんですよ、その時サヒョンが、”おい!こいつ、大変に別れれば大変に会うのに・・・早く行け”といいながら先に後ろを振り返らなかったがそれは君とのこのように長い離別になるかも知れなかったと今もどれくらい後悔するのか知らないのだ。

 

 愛する息子ヒョク!

 生きてまたこの世の中に出てこれるという何の保証もない収容所に君を送って私たちは追撃してくる警備隊員らの足跡音を聞きながら機会を埋まる豆満江水の中に情熱を傾けたのに幸い中国の土地に入ってきたし再び3国の国境をいくつか越えてこちら自由韓国にくることができた。

 

 何日か前危険を押し切って北朝鮮から中国に親戚の家にきた人便を通じて君の息子、私の初めての孫の写真を受けてみた。4才しかならなかったあいつが今は中学生になったね。遠方を焦点なしでながめるようなその姿、その目の中には自分を置いてきたこの祖母と叔父らを懐かしがるようだし生死も知らないお父さんを哀切に懐かしがるように我々家族は一晩じゅう泣いて過ごした。肉片は一つもなくて長い首と死に別れた体格がどれほど胸が痛く抱かれてくるのかそれを言葉で表現することができないんだ。

 

 今日君に君が幼い時一こまを思い出で大事に保管しろと少ない私が君を背負って玉竜橋を渡って出勤したある日君は私たち皆を驚かせたんだ。流れる大同江水をつくづくとながめた君は脚片方を示しながら“お母さん、私に何です?” “ウン、これが大同江なんだよ。”、“それではあちらは何ですか?、“ウーン!それも大同江なんだよ” “お母さんそれでは大同江が二つですか?という君の質問に周囲にあった多くの人々が驚きながら幼い子供が英明だと称賛に称賛をしたしその姿に私はどれくらい気浮かび上がったのか知らないのだ。

 

 君は育つ時から事物観察はもちろんどんな不正とも絶対に乗って険しくなかったしただ正義だけのために生きた子供であった。そのような君が名前もなしで番号だけ呼ばれながら人間の想像を超越するそちら収容所であらゆる逼迫と蔑視、屈辱を強要されると考えるので私たち皆の心臓は刃物で置こうと出すことのように痛くて痛むんだ。

 

 私もまた食べ物一つをしながらも“私たちのヒョクが好きなものであったのに・・・”こういう話をして弟(妹)らもやはり“お兄さんが好きだったものなのに・・・”といいながら喉がつまることもできない時が如何に多かったのか知らない。子供の家で飛び回った私の孫ミョンソンを描いてみたのにまさにミョンソンが写真を受けてみるのでそれほど大変な世の中だが流れる歳月と共に彼もそれだけ育ったのがあまりにも有難いな。姿はわい小だったが写真中の孫ミョンソンが同じ年頃子供たちを見れば彼らとミョンソンを備えてみながらミョンソンも彼らと共に遊んだらどれくらい良いだろうか考えてまた写真の中のミョンソンが今でも“おばあさん!”と呼びながら飛び出しそうな幻覚をもったりするのだ。

 

 いつならば君とミョンソンが私たち皆といっしょに集まって座って笑いの花を咲かせられるか待ち望んでいるんだ。そしてこちらの人々のように旧盆の時お父さんの墓に息子、嫁、孫、孫娘を連れて行けるかという考えれば何もできないんだ。

 

 愛する私の息子ヒョクや!

 私たち皆が君のために祈る。いくら大変で難しくても必ず健康を保存してまた会うことができるという信心を持って生き、本来強い君なので私たち皆は堅く信じる。家族みんなが君とミョンソンのために貯蓄通帳を作っておいてまた会うその日に奪い取られた君の青春をお返ししたい心情で努力しているんだ。その時になればこの母はマン憂いを忘れてこの世を去っても心残りがないのだ。

 

 君をまた会わずには私は絶対に目をとじられない。

 その日がいつくるのか待ち望んでいる。統一のために私たち熱心に仕事をしているので君はその中で必ず強靭な信心を持って生きていって千度、万度頼む。

 私たち皆も君に会うことができるというその信頼で熱心に生きていこうとする。

 愛する息子の安寧を望みながら…

200594

ソウルで母記す


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